初めてその姿を見たのは、幾度前の季節のことだっただろう。
 年の離れた姉か、それとも年若い母親か。まだ若い娘の背に負われた赤子が、稚(いとけな)い眼(まなこ)で私を見つめていた。私もまた、赤子を見る。生まれて間もないその瞳(め)にはまだ何の淀みも無く、晩秋の朝に目覚めると淡く木肌を濡らしている、夜露よりも澄んでいた。
「ここは本当に、いつも気持ち良いねぇ。お前も気持ちいいだろ?」
 私と赤子を見比べ、娘がそう言ってあやす。
 確かに私がいるこの場所――《上の山》と呼ばれている、小高い山の中腹は、日当たりも良く、年中ゆるゆると温和な風が吹いていた。すぐ麓にある里――《下の里》は、年中冷え込むというから、地形ひとつで随分と違うものだ。
 おそらくこの二人も、《下の里》の住人なのだろう。上着など無くとも頃良い気候だというのに、赤子に風邪などひかせては大変だと思ったのか、娘は袷(あわせ)を羽織っている。
 外の空気が心地よいのか、赤子はきゃっきゃと高い声を上げた。綿毛のように、産毛がふわふわと微風にそよいでいる。
 ふと視線を感じると、赤子がやはり私を見つめていた。何となく気恥ずかしくなって、私は照れ隠しのように微笑みを向ける。それを見て赤子も笑った気がした。
「――さぁ、そろそろ戻ろうか、カツラ」
 私たちのやり取りにも気づかず、娘は言葉の端に名残惜しさを滲ませて赤子に声をかけると、やってきた道をゆっくりと引き返していく。
 カツラ、と、私はその音を繰り返した。あの赤子の名前なのだろう。良い響きだと思った。
 ゆっくりと娘と赤子の後ろ姿が遠く小さくなり、やがて私の視界からも離れ、追えなくなった。


 その出来事から、幾巡りかした早春のある日、子どもがひとり、私の所へやってきた。
 誰かがやって来ること自体は、そう珍しいことでもない。《上の山》へ狩りに来た男たちが昼飯を食ったり、女たちが世間話をしながら木の実やら山菜やらを採取したり、子どもたちには恰好の遊び場にもなっている。鳥や獣が休みに来ることもあった。それでも、子どもがたった独りでやって来るのは、そうそう無いことだ。
 鼻の頭まで真っ赤にさせながら、子どもはべそをかいていた。丸く柔らかそうな頬も、今は涙でべたべたに汚れている。その顔を見た瞬間、私の脳裏にかつて目にした光景が閃いた。――若い娘に負われ、嬉しそうに声を上げていた赤子。
 しかし、私が声をかけるより早く、子どもの眼が、ひた、と私を見つめた。そのまま、驚いたように目を丸くすると、不思議そうに僅かに首を傾ける。
「だれ?」
 出し抜けにそう尋ねられ、私は思わず言葉に詰まる。困ったことに、私には人がそれぞれ持っているような、固有の名前というものが無い。他のものから呼ばれている名も、私の属する種の総称であって、私自身の名前ではないのだ。あざ名のようなものなら一応あるが、そちらはいかにも仰々しくて、自分で名乗るには面映ゆい。
「あなたは、カツラ、だね」
 問いへの答えになっていない、苦し紛れの言葉だったが、カツラは目を更にまん丸くして、コクリ、と頷いた。私が自分の名を知っているのが、不思議だったのだろう。
「一人かい?」
「…うん」
「おいで。少し休んでいくと良い」
 カツラは素直に私の側にやってきた。そうして私の隣に並ぶようにして座ると、あの丸い瞳で私を見上げ、不安げに問う。
「ねぇ。おっかあたち、知らない?」
「…ごめん。私には分からない」
 私の言葉を聞いて、カツラの目に再び涙が盛り上がる。私は慌てて言い添えた。
「でも、大丈夫。ここにいればおっかあたちはじきに来るだろうから」
「……本当?」
「きっと」
 頷くと、カツラの顔がぱぁっと明るくなった。
 とはいえ、私自身にも確証があったわけではない。ただ、《下の里》の人々が、私をよく目印に使っていることは知っていた。それに、少し開けたここからならば、周囲の様子もよく見渡せられる。カツラの待ち人がやって来るのは、時間の問題に思われた。
 小さな身体が冷えないように、できるだけ傍に寄るようカツラに声をかける。こんな時、自分の身が自由に動かせないことが、少し悔しい。
「大丈夫だよ、カツラ」
 心細さからだろう。落ち着きなく、そわそわとしているカツラを少しでも安心させたくて、私はことさら明るい声を出した。
「大丈夫」
 私の言葉にカツラは頷いたが、それでも一抹の不安を拭い切れぬままの表情で、じっと空を見つめている。気晴らしに何事か声をかけようと試みたが、うまい言葉も見つからず、結局ただ黙ってカツラの傍にいることしかできなかった。
 新芽の香りがほのかに漂う空気の中に、カツラと私の息遣いだけが辺りに染みていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。
 沈黙は唐突に、女の声で破られた。
「カツラぁー!」
「おっかあ!」
 声のした方向へと、カツラが一目散に駆け出していく。草木をかき分けて現れたのは、齢こそ重ねていたが、以前カツラをおぶってやって来ていた、あの娘だった。
 女はカツラを見とめるなり顔をくしゃくしゃにすると、転がるようにして駆け寄ってくる我が子を、しっかりと抱き止めた。
「ああもう心配させて!側を離れちゃ駄目だって言ったろ!!」
 口調こそ厳しいが、子どもをかき抱いているその背中は、どれほど彼女が心配し、今、胸を撫で下ろしているか、如実に物語っている。少し遅れて次々に連れの女たちが顔を出し、母子に向かって安堵の言葉を口々にかける。
 ひとしきり再会を喜びあった後、女たちは私の方を振り返って手を合わせた。
「ああ、ワカヌシ様がお守り下すったのですね。本当にありがとうございます。ありがとうございます」
 特に母親は、地面に額をこすり付けんばかりにして、何度も頭を下げ続けている。母親に促され、カツラもその隣で、精一杯深々と頭を下げていた。
 そう、『ワカヌシ』というのが、私に付けられた――そして私にはおよそ不釣り合いな、あざ名の正体だった。
 《下の里》の者たちは、周りのモノほぼすべてについて、『よきもの』と『わるいもの』とに分類しているようだった。そしてどうやら私については、『よきもの』として認めているらしい。おそらく、私が、いや、私の種族が、彼らにとって有用である、と考えているゆえに。
「さあ、そろそろ戻るさね。うかうかしてると日が暮れちまう」
 年長者らしい一人の言葉に、女たちは頷き合うと、一列になって里へ向かい道を下り始める。
「カツラ、行くよ」
 母親に手を引かれ、カツラもその列に加わって歩き始めたが、何度も立ち止まっては私の方を振り返る。「お前は一緒に来ないのか」と問うように。
 応えるように、私は静かに頷いた。――私はここから離れることはできないのだ。
「カツラ、ほら。ワカヌシ様には後からちゃんとお礼に来るから。ちゃんと前を見て…」
 母親がカツラを宥めすかす声は、随分長く聞こえていたが、やがて聞こえなくなった。


 この一件以来、カツラは時々やって来るようになった。最初はただ側で遊んでいるだけだったが、じきに、私相手に里での暮らしについて色々と話すようになった。今年の栃の実の付き具合だとか、祖父と父親が取ってきた獣の目が恐かっただとか、年に一度の祭りの様子だとか、近所の誰それの所に赤子が生まれそうだとか。
 私は人の村での暮らし、というものがよく分からないままではあったが、くるくると表情を良く動かしながらそれらの出来事を話すカツラを見ているのは好きだった。
 一通り自分の話を終えると、カツラは私に、何か面白いことはなかったか、と話をせびったが、私はそれに苦笑するしかなかった。
「私の話を聞いても、カツラはきっと楽しくないよ」
「ワカヌシさま、ずるい」
 話の出し惜しみをされていると思ったのか、カツラはふくれっ面をする。
「じゃあ、ワカヌシさまは、いつからここにいるの?」
「カツラが産まれるよりは前だよ」
「家族はいないの?」
「カゾク?」
「父さんや母さんや、きょうだいとか」
「いるのだろうけれど、知らない」
 気付いた時には、この場所に私は私だけだった。自分がどこからやって来たのか知らない。あるいはどこかに同胞もいるのかもしれないが、私の知るよしもない。むしろカツラに問われるたった今まで、気に止めたことすら無かった。
「…寂しくない?」
「どうして?」
「どうしてって…」
 疑問に疑問で返した私に、カツラが言葉に詰まる。
 柔らかな土の中で眠っている間から、この場にいるのが自分だけであるのは、当然のことだった。だから、カツラが口にする『寂しい』という感情が、私には分からない。
「…じゃあ、わたしがこれからワカヌシさまの傍にいる。そうしたら、寂しくないでしょう?」
 私の答えに眉根を寄せていたカツラが、やがて表情をひらめかせると、気負いなくそう言い切った。
「でも、カツラ」
「ね、いいでしょ?わたし、ワカヌシさまが好きだもの」
 戸惑う私を尻目に、名案を思い付いたと、カツラははしゃいでいる。
「ワカヌシさまと一緒にいると楽しいの。だから、ね?」
「…カツラが楽しいなら、良いけれど」
「じゃあ、決まり」
 満足気に頷くカツラに、私は折れるしかなかった。
「じゃあ、私からも一つお願いしていいかな、カツラ」
「なぁに?」
「ワカヌシさま、って呼ぶのは、やめてくれないかな」
 カツラはきょとん、とした顔でこちらを見ている。
「どうして?みんなそう呼んでるのに」
「…恥ずかしいんだ、そう呼ばれるのは」
 ふぅん、と、納得はしていない様子ではあったが、カツラはともかく頷いた。
「ワカヌシさまのお名前って何?」
「私に名前は無いんだよ、カツラ」
「じゃあ、どう呼んだらいいの?」
「カツラの好きなように」
 うーん、とカツラはしばらく唸っていたが、ややあって口を開いた。
「やっぱりワカヌシさま、って呼ぼうと思う。それ以外、考えられないもの」
「…じゃあせめて、さまは付けないで」
「分かった」
 私の言葉に、カツラは満面の笑みで頷いた。それから、不意に真顔になると、頬を寄せ、私の傍で囁いた。
「二人だけの秘密ね。ワカヌシのこと呼び捨てにしてるなんて知られたら、大目玉をくらっちゃう」
「分かった」
 頷き返し、しばらく互いの表情を見合っていた私たちは、ほぼ同時に吹き出す。誰にも知られてはいけない二人だけの秘密を得たことに、私たちは興奮していた。
奇妙な、それでいて快い一体感に包まれながら、私たちはしばらく笑い合っていた。カツラが笑う明るい声が、空へと吸い込まれていった。
 




 《上の山》はもちろん、《下の里》にもよく日が当たり、暖かくなる日がようやく増えてきた。待ち誇っていたように一斉に花々が咲き始め、一気に色彩に溢れ始める。
 籠いっぱいに入った山菜を誇らしげに見せながら、今年は特に豊作だった、と、カツラは嬉しそうに笑った。
「ワカヌシのおかげだね」
「私は何もしていないよ」
「ううん、やっぱりワカヌシがこの《上の山》をきちんと見てくれてるからだよ。ありがとう」
 礼を言われ困っている私を見て、カツラはフフ、と笑った。そして、いつものように私の隣に座ると、降り注ぐ木洩れ日に目を細める。
しばらく私たちは、無言のまま陽の光を目いっぱい浴びていた。そよと吹く風が、カツラの頬の産毛をなぜていく。
「ワカヌシ。前から一つ訊きたかったんだけどね」
「うん?」
 カツラがふと思いついたように口を開く。
「どうして、わたし以外にはあなたの声が聞こえないのかな」
 伝え聞いた話だけれも、と断ったうえで、私は言葉を繋いだ。
「ヒトは――いや、ヒトも含めた生物は皆、自分の種族以外のモノと意思の疎通ができるのだ、と」
 それは、まだ土の中にいた頃、――まどろみの中でいつか耳にした話。
「でも、条件があってね。波長が合わないと分からないし、気付かない」
 互いに波長の合う存在が、傍にいるとも限らない。傍にいなければ、当然、そのようなことに気付くことも無い。
「私とカツラは、その波長がぴったり合ったのだよ、きっと」
 カツラは、私を見て笑った。心の底から嬉しそうに、はにかむように。
「――ねぇ、ワカヌシ」
 おもむろに、カツラが私に触れてくる。まだ節くれの少ない指が、ごつごつとした木肌の上をぎこちなく滑っていく。
「痛いからやめておいた方が良いよ、カツラ」
「いい」
 首を横に振ると、カツラは私を抱きしめた。温みと、規則正しく刻む鼓動の響きが、厚い皮を通してでも伝わってくる。その一つ一つが、かけがえなく、いとおしい。
 この時ほど私は、自分が動けないことを歯がゆく思ったことはない。
 せめて、この身体を抱きしめ返せればいいのに――。
 だが、それはどうやっても叶わない願いであることを、私は知っている。代わりに、私は精一杯優しく囁いた。
「――ねぇ、カツラ。覚えてる?」
「――何を」
「昔、きみは私に尋ねたよね。たった独りで寂しくないのか、と」
 カツラが小さく頷く。
「私は、その時寂しくなどないと答えたけど、本当は、『寂しい』というものが分からなかったんだ」
 カツラはただ静かに頷く。私の言葉の先を促すように。
「だけど、今は分かるよ。――いや、きみのおかげで分かるようになったんだ」
 寂しさも、喜びも、自分以外の何かに焦がれることも。
 独りならば、カツラに出会わなければ、私は何一つ知らぬまま、生きていたのだろう。それは、何と味気の無いものだっただろうか。
「じゃあ、わたしがあの時言った言葉も覚えてる?」
「――うん」
 微笑みながら、ずっと私の傍にいると言った、幼い日のカツラの姿が甦る。
「大好きだよ――ワカヌシ」
 囁いてカツラは、腕に力を込める。
 光とカツラの温かさを、私は全身で感じていた。




 
 収穫の時期も過ぎ、枯葉が舞い始めた頃。
 各々、弓や槍を手にした男らが、私の所にやって来た。
「ワカヌシ様、ちょいと木陰を貸してくだせぇ」
 一番年長らしい男がちょっと礼をすると、水筒の水を私に注ぐ。
 長く厳しい冬の準備のために、特に腕に覚えのある《下の里》の人間は、猟のために山へと分け入る。大抵は一日足らずで下山するのだが、時には獲物を求めて数日間、山の中にこもりっきりの時もあった。そして狩りの前後には、山への出入り口となるここに、よくくつろぎに来るのである。
「今日は上々だったなぁ」
「あぁ、これでしばらくはもつだろうさ」
 首尾が良かったのだろう、人々は上機嫌だった。取ってきたばかりの獲物を手に、私の周りに思い思いに座り込むと、煙草をふかし始める。やっと一息ついたのか、やがて誰ともなしに世間話が始まった。その声を聞くともなしに聞いていた時、
「――しかし、カツラにも困ったもんだなぁ」
 男の一人の口から出た名前に、私は思わず反応してしまう。どこか後ろめたさを感じながらも、聞き耳を立てずにはいられなかった。
「もういい歳だってのに、結婚どころか見合い話のひとつも無いじゃねぇか」
「見合いも何も、浮いた話すら聞かないもんってのはなぁ」
「隣り里との縁談も断っちまったそうじゃねぇか」
「どうしてあんなに嫌がるのかねぇ」
「あいつは兄弟もいねぇし、跡取りだってのになぁ。親父さんたちも頭が痛いだろうさ」
 いつしか、話には全員が加わっていた。口々に好きなことを言いながらも、一様にその表情には渋いものが漂っている。
 その時、私は初めて知った。カツラが《下の里》の中で、浮いた存在になりつつあることを。
 確かに、カツラが私の所にやって来るのは、ほとんど日課のようになっていた。決して楽でも暇でもない日々の生活の中で、ほんの僅かな時間でもあると私の所に顔を出していた。
 何度もカツラに、そこまでしなくても十分だ、と言っていたが、カツラは意に介す様子もなく、少しでも私の傍に長くいようとしているようだった。
――どうして今まで気付かなかったのだろう。
 私が思いに沈んでいる間に、人々の話題はもう次のものに移り、気付くとその姿はもう無くなっていた。
 人々が立ち去っても、私は考え続けていた。
 カツラは私の傍に居たいと望み、実際にそうしてきた。年を経るにつれて、顕著にもなってきていた。
 私はそれをただ単純に、思いの強まりによるものだと思っていた。私自身が、そうであるように。
 だが、カツラがああも私のもとにいるのは、《下の里》に居辛いからでもあったからではないのだろうか。《下の里》で徐々に失いつつある身のやり場の代わりに、ここを求めていたのではないだろうか。
 カツラは私の傍に居られることが嬉しく楽しいのだと言った。幸せだとも語った。
 ――でもそれが、本当にカツラにとって幸せなことなのだろうか?


 男たちが来た翌日、カツラがやって来た。繕いものなのだろう。持ってきた包みの中には、たくさんのゴザ(敷物)らしき布と糸、それに針が入っていた。
「ごめん、なかなか来れなくて。ちょうど冬支度の時期だから、ばたばたしていて」
 いつものように私の隣に座り、一枚一枚持ってきた布を丁寧に広げながら、慣れた手つきでカツラは補修を始める。
「昨日、里の人たちが帰りにここに立ち寄ったんだってね?うるさくなかった?久し振りにたくさん獲れたって、みんな喜んでいたから――」
「カツラ」
 カツラの言葉を遮るように、私は声を出した。普段通りの声をと思ったが、硬くなっているのが自分でも分かった。
 カツラも何かを感じ取ったのだろうか。口を閉ざすと訝るように下から私を覗き込む。
「もう、きみはここに来ちゃいけない」
 一息に私は言い切った。
「今、なんて…」
「きみはここに来てはいけないんだ、カツラ」
 私は、殊更ゆっくりと繰り返した。
 まばたきも、呼吸すらも忘れたように、カツラは茫然と私を見つめている。
 やがて衝撃が、ゆっくりと浸透していったようだった。岩に水が染み込んでいくように、カツラの顔に動揺が広がっていく。目を見開いて、カツラはあえいだ。
「…どうして」
「どうしても」
 かすれ声に、私はわざと冷厳な声音で応える。納得できないというように、カツラは激しく頭を振った。
「……嫌」
「カツラ」
 聞き分けのない子どもを諭すように、私はカツラに語りかける。
「縁談を、断り続けているんだって?」
 カツラの肩が大きく震えた。
「ねぇカツラ。自分が《下の里》の人たちからどう思われているか、きみ自身が一番よく分かっているはずだろう?」
 カツラはどこか挑むように私を見つめ、押し殺したような声で呟いた。
「…《里》の人たちなんて関係ない。わたしは、ワカヌシがいればいい」
「関係あるよ。きみは、《下の里》の一員なんだ」
 私はそこで一度言葉を切る。
「今からでも十分に間に合う。カツラは、カツラの世界にお帰り」
 カツラが顔を歪める。
「わたしの世界?わたしの世界は、あなたが、ワカヌシがいる世界だ…」
「違う、そういうことじゃない」
 カツラの声が高くなるほどに、私の声は沈み込んでいく。
「きみはヒトだ。ヒトの世界の住人なんだ。そして私は、ヒトとは違う。きみたちヒトが、《サトツカサの樹》と呼ぶものであり、サトツカサの世界の住人なんだ。こればかりは、誰にも曲げられない事実だ」
「そんなこと、言われなくても分かってる。それでも――」
「私たちは、異なる種なんだ。だからこそ、余計に自分の立場を考えなくちゃいけないんだ」
 言い募ろうとするカツラの言葉を無理矢理遮って、私は言う。
 そう、忘れてはならなかったのだ。私とカツラとは、そもそもその生まれからして、異なるモノ同士であるのだということを。そのことを、いつしか私たちは忘れてしまっていた。お互いにあまりにも近くにいたために。
 ――いや、カツラに罪はない。私が、しっかりとしていれば良かったのだ。私が、カツラの優しさに甘え、自分を見失ったことこそが、そもそもの原因なのだ。
「それぞれの世界に暮らしている以上、それぞれの理に従わなくちゃいけない。きみも、私も」
 事実も、自然の理も、曲げることなどできないのだから。
 私は小さく息を吐いた。乾いた寒風に木々がざわめく音が、ひときわ大きくなった。別れの時を告げている。
「さよなら、カツラ。どうか、『ヒトとして』幸せに――」 
「ワカヌシ!待って、ワカヌシ!!」
 私は、全ての反応を消した。目を閉じ、口を閉ざし、聞こえないふりをした。いっそ本当に、何もかも感じなくなればいいのに、とさえ願いながら。
「ワカヌシ!ねぇ、ワカヌシ!!応えてよ!!」
 涙交じりの悲痛な叫び声が、こだまする。答えたくなる衝動を、私は必死に自制した。カツラは気が違えたかと思うほどに何度も何度も私を叩いた。そんなものより、全身を裂かれるような、内側からのこの痛みの方が、よほど痛かった。
 ――やがて諦めたのか、声は聞こえなくなった。代わりに、すすり泣く声が聞こえていた。
 下草が揺れる音が微かに聞こえた。カツラが立ち上がったのだろう。
 薄っすらと目を開けると、肩を落とし足を引きずるようにして山を下りていくカツラの姿が見えた。足元は覚束なく、今にもその場に倒れこんでしまうのではないかと思ってしまうほどだった。
 ――これで、良かったのだ。
 すっかり力を失くしたその背を見ながら、私は自分に言い聞かせていた。
 このままでは、カツラは幸せになれない。いくら心を通わせ合ったところで、それは自然からは外れた道でしかない。――だから、これで良かったのだ。カツラには、ヒトとして幸せを掴まなければならないのだから。
 カツラのすすり泣く声が、いつまでもいつまでも、辺りに響いているようだった。





 秋が去り、早い冬が訪れた。
 カツラはその後も度々やって来て、何くれと私に語りかけたり、触れてきたりもした。時には、ほとんど一日中、私の傍に座っていることもあった。
 ――許されるのならそれに応えたいと、何度思ったことだろう。実際、何度、実行しかけたことだろう。
 だが、それはもう二度とすまいと決めたことだった。どれほど辛くても、苦しくても。
 その度にカツラは、ひどく傷ついた表情を浮かべて、とぼとぼと山を下りていく。それでも、来ることをやめようとはしなかった。

 その年は、明けた当初から、おかしな気候が続いていた。
 年初めには、雪が異様に少なかった。そのくせ妙に肌寒い日が、カッコウが鳴き始める頃までズルズルと続いた。普段なら気持ちよく晴れ渡る日が多い季節でも、雨が幾日もふり続いた。
 不順な天候は当然のように凶作をもたらし、それは飢えと病となって容赦なく人々を襲った。
 元々貧しかった《下の里》は、それらの被害を真っ先に受けた。
 子どもが、老人が、女が、男が、多くの者が死んだ。
 それは山の中も同じことで、鳥獣も、植物すらも、多くのモノが絶えていった。
 生命の気配が薄くなりゆく中で、私は何とか生き長らえていた。
 日を追うごとに、朦朧としている時間が、徐々に長くなってきている。自分の中に霞がかかったように、うまく物事を考えたり、感じ取ることができにくくなりつつあることが、自分でも分かる。
 ――カツラは。
 夢の中を漂っているような中でも、その名が、その顔が、思い浮かばない日は無かった。いや、むしろ余計なことを考えなくなって一層、カツラのことを鮮明に思い起こすことが多くなった。カツラは、どうしているのだろうか。
 だが、私には確かめようもない。里の者たちも、姿を見せなくなって久しくなっていた。カツラもまた。私の態度にとうとう諦めたのか、それとも――
 きしきしと、雪を踏みしめて登ってくる音が聞こえた。獣の足音ではない。人のものだ。
 やがて人影は大きくなり、私の前で立ち止まった。
 懐かしい顔がそこにあった。
 ――カツラ。
 久し振りにあったカツラは、数十歳も老け込んだかのようだった。元々大きかった目が、更に一回り大きくなり、柔らかな曲線を描いていた頬は、すっかりこけてしまっていた。防寒具の上からでも分かる程に痩せ細った身体が、痛々しく哀れだった。それは私がよく知るカツラとはかけ離れた、別人のように変わり果てた姿だった。それでも、
 ――生きていたのだ。
 安堵が、まず先に立った。
 カツラは物言わず、しばらくじっと私を見つめていた。蒼ざめた顔の中で、瞳だけが炯々と光っている。切羽詰まったような、触れれば切れてしまいそうな、危うい緊張感のようなものが漂っていた。
 その手には、鉈が握りしめられている。
 無言のままカツラは私に近付くと、持っていた鉈を振り上げ、私めがけて打ち下ろす。その光景を、私は不思議なほど静かな気持ちで見つめていた。
 ――予想したはずの痛みは、しかし、襲ってこなかった。
 鉈を振り上げたその姿勢のまま、カツラは固まってしまっていた。全身を激しく震えさせているのは、寒さのせいなのだろうか。
「……やっぱりできない」
 消え入りそうなほど小さく、搾り出すような声だった。
「ワカヌシを傷つけることなんて、できない」
 それ以上は言葉にならず、カツラはその場に泣き崩れた。嗚咽が響き渡り、その手から、鉈が滑り落ちる。
 鬱積した何かを爆発させるように、カツラは只々泣いていた。子どものように泣いていた。私は為すすべなく、そんなカツラを見つめているしかなかった。
 やがて嗚咽交じりに、カツラはポツ、ポツ、と話し始めた。
 飢饉で多くの者が犠牲になったこと。
 そこに、疫病が追い打ちをかけたこと。
 薬も食料も、助けを呼ぶこともできず、途方に暮れていた時、私の、サトツカサの樹皮が疫病に効果があるらしい、という噂が持ち上がったこと――。
 真偽のほどは分からない。それでも、《下の里》の人々にとって、それは生き延びるための唯一の希望だった。このままでは里が、自分たちが絶えてしまう。何もしないで絶えるのを待つよりは、たとえどれほど不確実な話であったとしても、それに縋らずにはいられなかったのだ。
「――カツラ」
 泣き続けているカツラの名を、私は知らず呼んでいた。
「心配しないで。私自身が何とかする。だからもう、泣かないで」
 弾かれたようにカツラが私を見上げる。何年か振りに、私たちは互いの顔を見つめ合った。
「自分が何を言っているのか、分かってるの?」
「分かってるよ」
 私は静かに頷く。
 カツラが泣いていることが、何よりも悲しかった。
 カツラにもう一度、笑ってほしかった。
 そのためには、どんなことも怖くなどなかった。私がカツラにできることといえば、これくらいしかないのだから。
「やめて、ワカヌシ――」
「待っていて。少し離れているんだよ、カツラ」
「やめて――!」
 カツラの悲鳴を無視して、私は全身にありったけの力を込める。幹が大きく揺れ、巻き起こった風に煽られるように、カツラは二、三歩、後ずさった。
 ピシリ、という、氷にひびが入るような音が響いた。
 爆ぜるようにして、まず幹の真ん中に鋭い亀裂が走った。瞬間、焼けつくような痛みが走ったが、私は力を緩めなかった。
 ピシリ。ピシリ。ピシリ。
 その乾いた音を契機とするかのように、無数の裂け目が幹を覆い始める。そこから樹皮がめくれ上がると、裂け破れたそれは、次々と剥がれ落ちていく。
(まだ……)
 また一枚、剥がれた。もう、幹回りの半分以上は、樹皮が剥がれた状態だ。強烈な虚脱感が私を襲う。これ以上続けると危険だと、生物としての私の本能が警告している。
 それでも――。
 私は更に力を込め、一枚、また一枚と、身から樹皮をはぎ取っていく。ようやく、あと一枚で幹回りを一周できるまでになった。
 ――これで、最後だ。
 私は、最後の大仕事に取り掛かろうとし――何か柔らかな衝撃を、私は感じた。
「やめて、もうやめて、もういい、ワカヌシ、枯れてしまう、もういいから、やめて!!」
 叫びながら、カツラが私を抱きしめていた。私は構わず、力を込めた。
 呆気ないほど簡単に、最後の樹皮が剥がれ落ちた。
「ワカヌシ、ワカヌシ……」
「……きちんと持って帰るんだよ、カツラ」
 半ばうわ言の様に、私は細い声を出した。もう、痛みも熱さも分からず、ただ、カツラの温もりだけが分かった。
「黄白色の花が咲いたら、私が目覚めた合図だから。それまでしばらく待っていて」
 カツラに私の声は聞こえているのだろうか。視界は次第に闇に閉ざされ、体の感覚も、もうよく分からない。
「その時に、また逢おう――」
「必ず、必ず。約束だよ、ワカヌシ――」
 その声だけは、はっきりと聞こえた気がした。
 ゆっくりと全ての感覚が遠ざかり、意識が沈んでいった。





 地上の出来事など知らぬように、何度も何度も季節は巡り続けた。季節が移ろいゆくたびに、《上の山》にも《下の里》にも、生命の気配は戻っていった。
 やがて、この地に飢饉と疫病の流行があったことは、古老だけが知っている、遥か昔の出来事になっていた。
 
 その人が床に寝付いたのは、まだ数か月も前のことだ。近くの山から下りてくる途中で、足を滑らせ気を失っていたところを、心配して様子を見に来た里の人間が見つけたのである。
 幸い、命は取り留めたものの、足の骨を折る大けがを負ってしまった。高齢ということもあり、もう元のように歩けるようにはならないだろう、ということだった。
 何故そんな所にわざわざ出かけたのか、と周囲が問うても、その人はただゆるゆると首を横に振るばかりで、ついに理由を話さない。そのうちに周りも諦め、次第に問うのをやめた。
 足が不自由になって以降、その人は目に見えて元気を失った。まるで気力が萎えてしまったというように、口数も少なくなった。次第に食も細くなり、とうとう寝ついてしまったのだ。
「こんにちはぁ。カツラのお爺様、お調子いかが?」
 明るい声をあげながら、隣家の女が家に入ってきた。主に声をかけながら、てきぱきと身の回りにあるものを片付け始める。その人は応えず、どこか遠くを見るように、虚空の一点を見つめている。いつものことと、女は気に止める様子も無く、明るく話し続ける。
「今年は稗(ひえ)がよく生っててねぇ。加工もしないといけないし…またしばらく暇は無さそうだわ」
 少しは休みも欲しいけれどねぇ、と言いながらも、女の声はどこか嬉しそうだった。
 女の目の端を、何か小さいものが掠めていった。小さくあいた窓の外で、いつの間にか黄白色の花弁が空を舞っている。
「まぁ…サトツカサの花?」
 思わず上げた女の声に、その人もまた、緩慢な動作で外へと顔を向ける。
「でも、この近くにサトツカサの樹なんてあったかしら?」
 首を傾げる女の隣で、その人はじっとその光景を見つめていた。女がその表情を見たら、きっと驚いていたことだろう。表情すらも乏しくなっていたその人の顔は、紛れもなく驚きに満ちていたのだから。やがてそれは消え去り、ほどなく、はにかんだような表情になった。
「それじゃあ、私は少し畑に行ってますから。また何かあったら呼んで下さいね」
 だが女は、その変化に気付くことなく声をかけると、退出していった。彼女の頭の中は、花よりも、待ち受けている農作業や家事の数々で一杯だったのだろう。
 独りになった家の中、窓の外に広がる光景を見続けながら、その人は何度も何度も頷いた。くちびるが何事か動いたが、声になることはなかった。
 深い皺が走る頬を、一筋、透明な雫が流れ落ちた。
 
 昼餉の支度のために家を訪れた女が、老人がいつになく穏やかな表情で眠っていることに気が付いた。
 窓から入り込んだのか、黄白色の花びらがひとつ、その手の中にしっかりと握りしめられていた。


――サトツカサの花



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