十籠(とおかご)を庇った配下の男が、ずるりと滑り落ちていこうとする。
「とお、かご……、様……ッ」
 もう、息も絶え絶えだ。
 それでも男は十籠の身体を必死に守ろうとする。
 ――雨。
 雨が降っている。毒の雨だ。
 男の肌は溶け、全身に血が滲んでいた。
 男の肉の壁のおかげで、十籠は無事だった。
 男は早九字を切り、とうとうそこで力を使い果たしてくずおれた。ぬかるんだ地面の泥が、彼の血が、溶けた皮膚が、十籠の身体を汚していく。
 庇われなくても男が結んだ結界のお陰で、十籠はまだ生きている。子どもはしばらく呆然として、響き渡った獣の咆哮にはっと空を仰いだ。
 雨が、強くなった。
 痛苦の叫び、木々を震わせて巨大な龍身が空へと飛び出してくる。その躯は傷つき果て、剥がれた緑青色の鱗が舞う様が、場違いにも美しかった。身は鉄鎖で絡め取られ、地に引き摺り堕とされようとしている。
 十籠は絶望のあまり、目の前が真っ暗になるのを感じた。
 ――――滅ぼされる。
 予感は怖気として全身に回った。身体から急激に熱が失われていく。自失している場合ではなかった。素早く自身に早九字を切り、十籠は立ち上がった。腰に差した打刀を支え、十籠は駆けた。通いなれた路だ。こんな風に走るとは、思わなかった。
 狭い路をしばらく行くといきなり視界が開け、大きな池に行きあたる。待ち受けていたのは、あまりの陰惨すぎる光景だ。
 たたらを踏み、十籠は立ち止った。
 死体、ばかり。
 突如降った雨に、護身が間に合わなかったものたちだろう。
 生き残ったわずかな術者たちは、龍に生きたまま噛み砕かれ、喰われる。そうして力を常時補給しても、身を縛る鎖を解くには足りないらしい。身もだえ木々に躯を打ちつけて外そうとするが、及ばない。本陣である護摩壇は、離れた屋敷に設えてあるからだ。ここでいくら虐殺したところで、いるのは足止めに過ぎない。
「六淵(むぶち)……!」
 手を伸ばしても、彼は気づかない。本能のまま、暴れまわる。 
「六淵――――イッ!」
 十籠はあらん限りの力を振り絞って、叫んだ。
 暴れまわっていた龍が、その声に反応し、動きを止める。ぎろりと見下ろしてくる化物の眼。ぞっと血の気が下がって、それでも肩の力が抜けた。まだお互い――――、生きている。
 瞳孔がかすかに縮まるのを、十籠は見逃さなかった。
「十籠さま!!」
 現れた子どもに、大の大人たちが歓喜する。龍が動きを止めた一瞬に、片をつけてしまおうと印を結ぶ。
「手出しするな!」
 鋭く吼え、十籠は制止する。
「わたしが……、治める。邪魔立てしたら、叩き斬るぞ」
 脅しつけるように鞘を鳴らす。
 たった九つの子どもの言葉に気圧され、その場は十籠に支配される。
 十籠は龍の眼を見つめ、ほろりとわらう。
「……悪く思うな」
 聞こえないだろう、それでいい。謝罪など必要ない。
 九字を切った十籠に、龍はかすかに、身を引いた。十籠はわらった。
 内縛印、不動明王の中呪。
「ノウマク サマンダバザラダン……」
 何をしようとしているか、気づいたのだろう。龍は驚愕もあらわに、十籠を見た。それでも徐々に絞りあげられていく躯に、どうしようもないに違いない。
「おん・きりきり、」
 どうと木々を巻き込んで倒れ伏した巨体に、地面が震える。のたうつ躯。十籠は詠唱を続けながら、龍に近づいた。憎悪に燃えた金が、十籠を見上げる。
『また俺を辱める気か綾識(あやしき)! ――十籠よ!』
 十籠は応えなかった。かすかに首を傾げ、髪で表情を隠した。
「――――ウン タラタ カン マン」
 緩慢な詠唱だった。それでも法は完成して、空間が凍りつく。全てすべて、凍ってしまえと十籠は投げやりに呟いた。
 腰の刀を引き抜く。まっさらな刀身が輝いている。
 十籠は荒んだ半眼を切り揃えられた前髪から覗かせた。
 凪いだ声が命じる。

「『――――我が下へ降くだれ、六ヶ池の龍、――――六淵よ』」
 
 両手で握られた打刀は、ためらいなく龍の背に突き立てられた。
 狂おしい咆哮。
 十籠は抵抗を全霊で押さえつけた。
「『降れ!』」
 荒れ狂う雨風が身体を叩く。噴き出す血が全身をぬらす。
「『降れ――――――!』」
 こんな下らないひと言で、すべての関係は終わりを告げる。

『やさしくされたの、初めてだ』
 頭を撫でてくれた、手も。
 はにかむ記憶の中の自分に意識を薄れさせながら、ばかめ、と十籠は独りごちた。
 そんなものは――――まぼろしだ。


■□■□■□■


「ぅ……」
 ひどい臭気に、十籠の意識は浮上する。
 地面に縫い付けられているのではないかと疑うほど、身体が重い。
 呆れるほどのったりとした動作で十籠は上半身を起こし、下半身はへたったまま放っておいた。散漫とした眼差しだけ、項垂れたまま周囲に向ける。ふは、と渇いた哂いをひとつ、零す。
 死体、死体、死体。――屍の、山。
 そのほとんどが、十籠の一族と、その郎党たちだ。
 戦場となった池は赤く血に染まり、澄んだ元の面影は見る余地もない。池を囲む木々さえも血を浴びて、風景はすべて、赤と黒に満ち満ちていた。
 ――こんな。こんなつもりでは、なかった。たぶん、どちらも。
 濃い死臭が鼻腔をつき、十籠はせり上がってくるものに、咄嗟に口を押さえた。堪えようと歯を食いしばるけれど、胃の蠕動は容赦ない。しみだしてくる胃液の臭いが舌に触れると、我慢がならず喉が開いた。
「ひ……っ、ぐ、うぇ、え、」
 一回吐き始めてしまうと、もう自分では止めることができない。撹拌されて細かくなったものがざらざら不快な感触を伴って上ってきて、それにてのひらと顎をべとべとに汚しながら、あまりの不快感に恐慌する。できるかぎり吐瀉物が舌に触れないように努力するけれど、ほとんどが無駄だ。
「ぅぐ、――は……」
 吐き終わる頃には、残りわずかだった体力も根こそぎ持っていかれてしまっていた。あまりのきつさにぼろぼろ泣きながら背中を丸めていると、背後から十籠を蔑む声が聞こえた。
 それは聞きなれた男の声に違いなかったけれど、それの纏う温度は今まで一度も十籠が触れたことのないものだった。
「お前が招いた結果だろう、どうして泣く?」
 十籠は憔悴したおもてを上げ、のろりと男を振り返った。うつ伏せに倒れていた男も、ちょうど身体を起こしたところだった。悪態を吐きながら背中に腕を回し、刺さっていた打刀を抜く。十籠が刺したものだ。
 少し離れた場所に胡坐をかいた男は刀を投げ捨てながら十籠に視線をやった。侮蔑と嫌悪をその両眼に刷いている。
 緑青のざんばら髪に、浅黒い肌。縦長の瞳孔を持つ、金の瞳。龍が人に化けた姿。
「む、ぶち……」
 十籠が男のこのような目を見たのは初めてだった。
 自業自得に違いない。けれど十籠を優しく、慈しんでくれていた唯一の眼差しを覚えていた。なのに最早それはどこにもない。急に寒気が襲ってきて、震えながら自身の胸元を掴んだ。
「呼ぶな」
 穢らわしい、とでも言いたげな口調で男は吐き棄てた。
「六淵、ぃ……」
 希うように、十籠はもう一度、男の名を呼んだ。冗談だ、と笑ってもらえることを、期待しながら。
 だって他に、どんな術があった?
 どうすれば、よかった?
 これが幼い、たった九つの十籠にとって、考えつける唯一だったのだ。
「まったく油断した、油断したよ、十籠よ」
 くっく、と六淵は喉を鳴らして嗤いながら、けれどそれは十籠の欲しかったものではなかった。
 深くふかく、心臓をえぐっていく嗤い。
「あんなに必死に駆けてくるから、手を伸ばすから、つい俺だって、忘れてしまうじゃないか。お前が綾識の人間だって、忘れてしまうじゃないか」
 頭を俯けて、額を押さえて、くつくつと六淵は嗤う。皮肉げに持ち上がった口端だけが、十籠の視認しうるすべてだった。
「まさか、なあ。十籠。あんな必死に、心配そうに俺の名を呼んでおいて、まさか降れと命ぜられるとは、誰も思うまい?」
 息が潰れる。十籠はこのまま呼吸をなくしてしまいたかった。六淵の弾劾を聞き続けるくらいなら。
「出逢ったときからそうだった、お前は。だから俺はついつい名を教えてしまったし、それが、このザマだ。まったくとんでもないやつだ」
 十籠は必死に、昔の、つい昨日まで聞いていた六淵の声を思い出そうとした。十籠を慈しんでくれた、優しい声の温度を。けれどどこを探しても、そんなものはもうどこにもない。作りかえられてしまった。過去なんてない、十籠の幻想だ。いずれ、本当にそうなる。これから一等一番、十籠が傍で見続けるのは、自分を恨む男だ。やわらかい過去など、時間の永さに押しつぶされて消える。たった一年にも満たない記憶ごとき。
 唯一で、最大の理解者を、十籠は自分で手放してしまった。

 ではほかに、どうすればよかったのだ!?

 気狂いするような気持ちで、十籠は胸中で叫んだ。実際に叫べれば、どんなにか楽だったろう。でもそれを受け止めてくれる相手はいないのだ。むなしいことは、しない。
「お前が初めてこの池に来たとき、なあ。俺はちゃんと警戒していたんだぜ。封じを越えて、走ってくるお前の気配をちゃあんと感じてた。しかもあれだけ大きな気だ。綾識以外に考えられん。何用だ? 今度は何をしでかすつもりだ? 俺が身構えるのも無理ねぇだろ? それなのに、だ」
 やってきたのはずいぶん間抜けな子どもだった。どこを見て走っていたのやら、池の中にまで走りこんできて、あまつさえ、溺れた。気づけば助けてしまっていた。感情豊かなガキで、おまけに阿呆で、怒鳴るついでに名を寄こした。十籠。呼べ、と。拍子抜けして、これはただの子どもなのかと。恨むべき綾識の子どもなどではなく、ただの、少しばかり人より法力に優れた子ども。こちらも思わず名を呼ぶ権利を差し出していた。六淵、と。名は使いようによってはとても強力な呪いになる。それをもしかしたら、子どもは知らぬのかもしれぬと思って。それならば、男の名は知っていたとしても何の役にも立たない。けれど違った、子どもは判っていた。その意味も、効果も。お互いの魂を、握った。
 先に告げたのは、十籠だ。
『ガキ、ではない。十籠だ』
 憤懣やるかたないといった調子で、むっすりと子どもは言った。これが演技なら、とんだ役者だ。まんまと六淵は騙された。けれど立場は対等だったはずだ。互いに教えた真名だった。しかも、十籠の方から。だからすっかり、子どもに対する警戒を、六淵は解いてしまったのだ。
 孤独な子ども、愚かな子ども、哀れな子ども、愛情を知らぬ、飢えた子ども。子どもはよく泣いていた。もう嫌だ、こんな家など逃げ出したいと、いつも六淵に泣きついた。それでも森を抜けて開けた池へと出るときに、出迎える六淵の姿を認めて、泣き顔がほんの少し、ほころぶのを見るのが、すきだった。
 才がなければ、この池への路は見つからぬ。十籠が綾識の人間だということくらいうすうす察知していたけれど、そんなことはどうでもよくなるくらいだった。
 優しくした。初め、そこに打算がなかったと言えば、嘘になる。六淵は力がほしかった。かつて綾識の術者どもに、総出で封じ込められたこの龍身。池の底。鉄鎖で絡め取られ、ひたすら鎖が朽ちるのを待ち、眠りながら過ごす。神だと何だと、どうでもよかった。六淵は龍だ。人とは違う。人など知らぬ。いくら祀りあげられたとて、豊穣など約束しない。
 永い眠りの果て、十籠が六淵のもとへ落ちてきた。脆くなった呪を、十籠が砕いた。十籠は気づいていないことだけれど。この子どもを利用すれば、最後の封じを破ることとて可能だと知った。六淵の封じられた六つの池と、それを覆う森。その外へは、六淵は出られない。まだ自由にはほど遠い。
 だから、子どもの望むようにしてやった。かわいがって、愛してやった。泣くときは抱きしめて、慰めた。子どもの膨大すぎる力を喰らって、じわりじわりと弱った身を回復させて、この巨大な龍身には相応しくない狭い世界から抜け出す。
 それがいつから手段が目的になり変わり始めたのか。自由になりたい、十籠を愛したい。天秤にかけるには、どちらも重くなりすぎた。十籠を奪い続けるのが、怖くなった。
 けれど十籠の力は、六淵がなにかせずとも徐々にその躯から削げていった。不浄からはすべて遠ざけられ、清らかであり続けなければならなかった十籠は、六淵の傍にいるだけで障りがあったのだ。
 十籠を知る前なら、むしろ好都合と哂えただろう。
 けれど、六淵は十籠がどんな子どもか知ってしまった。
 十籠、お前が現れなければ、俺は今でも綾識を恨み続けていられたろうに。
 自分を畜生以下に貶めようとする十籠を、他の綾識たちのように殺してやれたのに。
「……お前は最初から、このつもりだったのか。十籠よ。お前を信頼した、俺が愚かだったのか。抜けているように見えて、愛らしい振りをしておいて、その実、俺を従える日をずっと待っていたのか。――――その、好機を」
 所詮、綾識か。
 抑揚の抜けた声で、六淵は零した。昏い、声だと自分でも感じた。神と崇められても何も変われない、俺の本質は化物だ。十籠を衰弱させることしかできなった。
 十籠を知ってはいけなかった。
 大きな瞳からひたすら涙をこぼして、十籠は顔をゆがませた。もう声を上げては泣かないのだな、六淵はえぐえぐと自分の腹に顔を埋めて泣いていた幼子を思い出した。十籠は自分の衣を握りしめ、ぶるぶると小さな手を震わせている。
 何度かわなないた唇が落ち着いた呼吸を取り戻して、十籠はゆっくりと言葉を吐き出した。
「……自分をたなに上げるなよ、六淵……、」
 六淵は眉を跳ねる。
「――何のことだ」
 そう言いながら、六淵はもう、感づいている。
 十籠が何を言い出すのか。
 そこはえぐられると、痛い箇所だ。
 しらを切った六淵に、十籠は感情を爆発させた。
「っ六淵が最初にうらぎったんじゃないか……ッ! 自分だけがうらぎられたような顔をして、わたしを責めるな……!」
 煮えたぎった怒りと哀しみを、持て余すように十籠は地面を叩いた。
「知っているぞ! わたしの力を喰らっただろう! どうりで最近、身体が思うように動かないと思ったんだ……!」
「――いつ、」
「昨日だ! 家のものが教えてくれた!」
「お前がこちらに来ているのに、気づいたのか」
「……力が、うまく使えなくなったんだ。すぐ消耗して、集中できなくて! 術もちゃんとはつどうしない……! ついてこようとする連中を、うまくまけずに、結局見つかった! 綾識は激怒した! もうゆうちょうに時を待っている場合ではない、式は要らぬ、お前をほふると言った! 平成の世、神はもはやお前を滅ぼしたところで、創れると……!」
「俺よりも、あんなに嫌っていた連中のことを、信じるのか」
 それとも、そこから偽りの姿だったか。
 十籠は激昂に顔を真っ赤に染め、腕を打ち振って立ちあがった。
 足元がふらつく、地面がどこか、定まらない。けれど両足を踏ん張り続けた。眩暈、眩暈、眩暈。現実は一体どこだ。これは本当に現実か?
「そうさせたのは貴様だ……! いけしゃあしゃあと、よくも言う……!」
 眩暈、優しかった現実が崩れ、立ち現われてしまった、これが本当。悪夢のような現実。
「わたしは貴様に言ったはずだ……! おかしいって。何もかもうまくいかないって。気づいていたんだ、気づいて、見ないふりをしていたんだ。でもこのままどんどん力を失ったら、わたしはここに来られなくなる……! だから、言ったんだ。喰らうのをやめてほしくて、言ったんだ! なのに貴様は止めなかった! だからほら、――――見ろ! 綾識にここに来ているのをさとられた!」
 広げた両手、周囲には死体の山。六淵が降らせた、毒の雨に打たれて死んだ。この死体の中には、先陣をきった十籠の父親の屍もある。
 家族を殺された、恨み事を六淵に言うつもりはない。冷酷だと言われればそれまでだ。家族らしいことをしたことは一度もなかった。情を抱く、隙間もなかった。綾識に生まれた時点で、十籠は綾識という集団の一であり、それ以上ではなかった。けれど十籠は綾識の中でも直系の子どもで、莫大な才能を有した次期総領だった、それだけだ。それゆえに厳しく教育された。六淵を次代で降すよう、期待を受けた。そのためだけに何代も血を濃くし、造られた仔ども。血に呪いを刻まれた仔ども。すべての穢れを躯から削ぎ落し、六淵のために育てられた。
 十籠は期待に応えてしまった。多くの犠牲を、支払って。
 綾識という組織よりも、十籠にとっては余程、六淵の方が大切だったのに。
 六淵は十籠を裏切った。お前の見せてくれた愛情が本物なら、十籠の力を喰らうのは止めてほしい、その言外の願いを打ち捨てた。
「貴様はわたしを、だましていたんだ……」
 息を切らしながら十籠は肩を落とし、ほろりとこぼした。十籠のおもてに乗せられた、たった九つの子どもが浮かべるにはあまりに生き疲れた儚い微笑。六淵は息をのむ。
「――楽しかったか? まったくの演技に過ぎないのに、わたしが貴様になつくのを見るのは……。綾識を恨んでいた貴様にとって、さぞかしこころよい時間だったろうな。わたしが弱っていくのを見て、気は晴れたか?」
「っ違う、十籠。俺はお前をとり殺すつもりは……ッ」
 子どもはどれだけ自分の躯が清浄なものか理解していない。六淵が直接なにかせずとも損なわれるくらい、穢れに弱いか気づいていない。
 喰らっていたのはほんの少し。異常なほど強大な法力とは裏腹に、それを支える十籠の肉体は脆弱だった。殺してしまうのか怖かったから、少しずつ。あとは、どうにもならない領分だった。来るな寄るな、穢れるからとは、自分からは言い出せなかった。言えばよかったのか? 自分のためでもあったけれど、十籠は本当に、さびしい子どもだったのだ。
 十籠はかぶりを振って男を制した。さらさらと流れる黒髪は六淵と出逢ったときよりはいくらか長くなって、肩よりも少しばかり低い位置で揺れている。
「……もうだめだよ、六淵。何を言っても、もう過去はうそになってしまった」
 十籠は静かに憫笑した。
 そんなつもりはなかった。現実に起こったできごとに対して、その言い訳はもう使えない。
 現に六淵は、十籠の力を喰らい続けた。
 現に十籠は、六淵を自分の下僕に貶めてしまった。
 どのような感情から機縁したものであれ、その事実だけは変われない。
 十籠を慈しんだ過去も、六淵を慕った過去も、全部ぜんぶ、――――あぶくだ。
「……付け入るすきを与えたのは、六淵のほうだ」
 十籠はぽつんと言葉を落とした。
 十籠には本当に、六淵だけだったのに。いくら疑われても、そうだったのに。六淵はそうじゃなかった、それがこんなに、胸に痛い。
「俺の話に聞く耳を持たなかったのはそちらだろう。殺さなければ、滅ぼされていたのはこちらだった」
「……綾識は体面を重んじるんだ。次期総領のわたしを軽んじられて、黙っていられるほど奴らは甘くない」
 綾識にとっては、一度封じることのできた相手。下に見ていた六淵に受けた屈辱を返す方が重要だった。
 綾識にこの些細な逢瀬を悟られる前に喰らうのを止めてくれたなら、六淵があといくばくか、狭い世界で我慢してくれていたなら。
 もっと違った未来があったはずのに。六淵がそれくらい、十籠を信頼してくれていたなら。
「かわいがったろう! あれも、本心だったんだ!」
「うん。でも、一番ではないだろう?」
 十籠の一番はいつだって六淵だった。
 こともなげな問いかけに、その重さに、六淵は愕然とする。
 どうしてこの子どもに、愛情だけを注げなかったのだろう。そうすれば、その愛情を享けて、十籠はそっくりそのまま同じものを六淵に返しただろうに。
(十籠をこうしたのは……、俺か)
「……わたしは貴様にとってその程度の、取るに足らない餌でしかなかったということか」
 ――感じた情などまぼろしだ。
「だったらわたしも、手加減はできないんだよ」
 ただでさえ六淵に損なわれた身体だ。ためらう余裕などなかった。ためらえば、反対に自分が殺されていたかもしれない。六淵は殺すつもりまではなかったかもしれないけれど、そんなこと、六淵自身が言ったとて証拠にはならない。
「……空腹だった。自由になりたかった」
 うん、と十籠は頷いた。
「止めることはできなかった。お前が目の前にいて、うまそうな匂いをまき散らして、これでも我慢したんだ。嫌なら俺に触れねばよかった。お前はいつも、自分から手を伸ばしたじゃないか。お前は生きている。……ひと思いに食わなかっただけ、」
 そこで六淵は言い淀み、言葉を切った。
「ましと思え、か?」
 台詞を引き継ぐ十籠に、六淵は顎を引いて目を背けた。大柄な男には、何とも似合わない仕草だった。さすがにそこまで開き直れはしなかったのだろう。
「でもわたしはそう思うよ。喰えばよかったんだ。わたしが池に落ちたそのときに。お前を知ってしまうその前に。お前が目の前に顕れたとき、わたしは、にえになってもいいと思っていたのに」
 ――――ざんぶと落ちた、足はつかなかった。池はお椀型に深くなっていっていて、足を滑らせてしまうともうお仕舞いだった。
 おまけに八つの十籠は、泳ぐことができなかった。水干の袖も身体にまとわりついて、いたずらにもがくことだけが、唯一の手段だった。
 そんなとき助けてくれたのが、六淵だった。
 沈みながら、ひかりの舞い踊る水面に手を伸ばした。揺らぐゆらぐ、意識が遠い。
 助けてと差し出した指先がぼやけて消えるまえ、突如目の前に顕れた龍身。
 驚愕に最後の息を漏らした。
 大きくておおきくて、とても視界すべてには収まらぬ。
 滑らかで、ひかりを弾いて輝く緑青の体躯。少しくすんだそれはけれど、龍の神性を損なうものではなかった。
 尾をうち振るわれると、ぼかりとさざ波に十籠の身体はさらわれる。
 とるに足らない枝葉のように流れにもてあそばれながら、十籠はその龍を見つめた。

 ――池の主だ。

 苛烈に輝く金色の瞳。がぱりと耳まで裂けた口が開いて、真っ赤な口内と、尖った歯列が見えた。
 喰うのか、と思った。
 構わない、とも。
 十籠はもうとても疲れていたし、飛び込んだのも自分だった。食べられようとこのまま溺れ死のうと、十籠には代わりない。どうせ自力では助かれない。
 この池に落ちたからには、もうこの身は主のものだ。
 ――最期にこの躯を贄とするのも――悪くない。
 そうすれば、そうすれば、
 うっそり十籠は思い、龍へ向かって両手を広げた。さあ喰えと、満面の笑みを龍へとやった。
 そのつもりだと、十籠は信じて疑っていなかったのだ。龍は気づいたろう。自分の住処へと飛び込んできた子どもが、どこの誰だか。喰わないはずがないと、そう信じていた。
 迫る龍の頤のせいで暗む視界に、子どもはただ確信を強める。けれど龍の牙が引っ掻けたのは、十籠の水干の後ろ襟だけだった。そのままぐん、と空中に引っ張り上げられ、気づいたら、十籠は助けられてしまっていたのだ。
 あのときにはもう、絶望的な運命が片鱗を見せ始めていたのか。あそこで終わってしまっていれば、ただ六淵が力をつけ、綾識の結界を破り、根絶やしにして、それで終わりのはずだった。
 十籠を救いさえしなければ。
「……お前のせいだよ、ちくしょうめ……」
 六淵がどんな男か、知ってしまったから。愛情を、覚えさせられてしまったから。六淵からの恨みすべて背負ってでも、生きたいと思ってしまった。
 綾識の望むように、生きてでも。
「わたしは綾識になってしまった。だから――、もう、構わないんだ」
 綾識は六淵を滅ぼすと息巻いていた。まだ何の権限も一族に持たない十籠は、綾識に災いをもたらしただけの存在だった。その軽率を、皆は責めた。十籠は十籠の名誉を、自分で回復しなければならなかった。生きていくなら(……死にたかった)。
「貴様が所詮、というなら六淵。わたしはもうそれで構わないんだ」
 六淵を式に貶めてしまった。
 これから先、十籠はもう、六淵に対してなにも告げる言葉を持たない。資格は永遠に失われた。六淵と十籠は対等ではなくなった。六淵は下僕だ。主人は十籠だ。
 いまさらどんな優しい言葉をかけられるだろう。
 最も六淵が忌んでいたことをしでかして、どの面下げて赦しを請える。
「……わたしは綾識だ。やっとわかった。どんなにあの家から逃げ出したくても、それ以外のものには、なれなかった。お前をしばり付けることしかできない存在だ。
 ――……お前の恨みを背負うよ、六淵。わたしを綾識の代表として、これからは憎むがいい」
 ……十籠は、六淵の幸福を願えなかった。
 恨まれることは先刻承知だった。
 それでも綾識なんぞに六淵の命を渡したくなかった。滅ぼさせたくなかった。――独りに、なりたくはなかった。
 その浅慮が、六淵を式に降させた。
 何より怖かったのは、六淵がこの世から消えることだ。恨まれてもいい、二度と撫でてもらえなくてもいい、十籠、と、やわらかな声で呼ばれずとも、笑顔を見れずとも。
(生きてさえいてくれれば、いい、――いい……)
 与えられていたのが、まやかしでもよかったのだ。十籠にとっては、確かに本物に感じられた時間だったのだから。
 でも本当にそれが六淵を案じる気持ちだけなら、十籠は六淵への解放を約束できただろう。けれどそうはしない。それは、十籠がとても、心弱い子どもだからだ。
 もしも六淵がずっと、十籠を手懐けるために演技をしていたなら。自由になった瞬間に、龍は慕う子どもの前から姿を消して、大きな空に泳ぐだろう。
 見棄てられる。
 十籠は最悪を考える。それを回避するための布石を打つ。
 臆病な子どもだ。最低な子どもだ。相手を信じられなかったのは、自分の方だ。
 こんな手段でしか六淵を留めおけなかったことに、十籠は睫毛を伏せ、昏い瞳でわらう。
(だいすきなんだ、護りたかっただけなんだ。それだけなんだ)
「……わたしも貴様を心底呪うよ。うらぎりものめ」
(……そばにいてほしかった、だけなんだ)
 萎えた足で、それでもせいぜい偉そうに見えるよう六淵のもとへ歩み寄る。怪訝そうに男は十籠を見上げ、十籠はにっこりと真意の見えない笑みを頬に刷いた。
「ッ!」
 音高く、十籠は六淵の頬を打ち据える。ちいさなてのひらから受けた暴行くらい、六淵はなんでもなかったに違いない。それでも思いがけない仕打ちに、しばらく思考が停止したようだった。やがてゆるゆると乱れた緑青の髪を打ち振り、男は顔を上げる。恨みの籠った鋭い眼差しが十籠を睨んだ。褐色の肌には、それでも赤く紅葉が咲いて、滑稽だった。くくく、と十籠は喉を震わせる。
「……てめぇ……」
 低く唸り声を上げる男の頭を、十籠は押さえつけた。傲然と言い放つ。
「主人さまに向かって、ずいぶんなもの言いだな。六淵。貴様はまだ、自分の立場が分かっていないらしい。ひざまずいて、頭を垂れろよ」
 六淵は屈辱に瞳をゆがませた。それでも十籠は躊躇わなかった。六淵、語調を強めて呼ばう。それとも汚れた足を乗せられて、無理やり地面に挨拶したいか。
「『命令だ』」
 六淵は身体を強張らせ、のろのろと小さな主君の言葉に従った。
「……俺に裏切られた復讐がしたいなら、いっそ首を刎ねればいいだろう」
 汚辱に拉げた声が、呻く。
「馬鹿言うな」
 十籠は六淵の提案をはねつける。ひやり、心臓が冷えた。
 それでもなんでもない様子を装って、丸まった六淵の背に腰かけた。
「そんなもったいないことができるものか。せいぜい長くいたぶってやるさ。それに貴様がいた方が、綾識の人間に体面がたつ。生きていくのは、面倒だ。貴様がいれば、自分で始末をつけた証明になる」
「……こんなガキなら、あのとき喰らっておけばよかった」
「うん。だから、言ったじゃないか」
 歯噛みする六淵に、十籠は努めて明るく、軽い声を放る。
「……お前ははなっから間違えたんだって」
 突然、六淵が身体を起こした。十籠は転がり落ち、地面にぶつかる寸前、背を六淵に掬われる。
 驚きに瞑っていた目を開くと、六淵の顔が至近にあった。背中には冷たい土の感触。男は十籠の身体を跨いでいて、両腕も顔の隣に置かれ、十籠が逃げられないように囲っている。六淵のざんばら髪が、頬を擽るほど、近かった。
 顔は暗くて見づらかったけれど、鮮やかな金の瞳だけが憤りに燃えていた。
「――――調子に乗るなよ、人間、」
 激情を抑え込んでいるせいで、平坦になった声が言った。
「長くふんぞり返っていられると思うなよ。少しでも隙を見せてみろ、嬲り殺してやる」
「……期待しているよ」
 十籠はそっと目を細めた。
 ――――――期待しているよ、六淵。
 揶揄したつもりはなかったのに、六淵はそのように受け取ったようだった。口端が引き攣る。
「ああ……そうかい」
 ゆったりと吐き出された相槌に、
「お前さんが俺を打ったのは、右手だったか?」
 右手首を掴まれたのは、同時だった。「ほっせぇ腕……」
 はっとするが、もう遅い。
 身体の内部が砕かれる、鋭い音が脳天に突き刺さる。悲鳴すらあげられなかった。あく、とあえいだ十籠を、面白そうな、さりとてつまらなそうな、奇妙な凪いだ目で六淵は見下ろした。
 十籠は全身に伝っていった怖気に身を震わせながら、必死に平静を保とうとする。奥歯を噛み、涙をこらえる。死にそうだ。気を抜けば、すぐに気絶できるだろう。こんな痛み、修行中も味わったことはない。
 苦痛を必死で押し殺しながら、十籠は口内に溜まった唾液を飲みほした。
「おいた、が……、過ぎたな……、ええ? 六淵」
 ずりずりと六淵の下から這い出す。砕けた手首は、まるで心臓になったかのように鼓動している。身体の神経すべて集中したか、むき出しになったみたいだ。少しでも振れないようにしながら、十籠は立ちあがった。
「『動くなよ、六淵』」
 全霊を込めた命令に、膝をついたまま、六淵は固まる。
「まったく……、まったく。大した……げぼくだ。しつけが……必要だな。……なあ、駄犬」
 まめらない舌を無理やり動かしながら、背後の六淵を十籠はせせら嗤う。
 腰を屈めて拾い上げたのは、ひと振りの打刀だ。先ほども六淵を痛めつけたそれ。まだ男の血がべったりと付いている。
 左手にそれを持ち、半身で十籠は六淵を振り返った。
 冷や汗を流しながら、一層ふらつきながら、それでも十籠は優位を誇示するためだけに唇を吊る。
「だけん……、ふふふ、あんがい、いいあだなだ。六淵、ぶち……、きさまごとき、犬畜生と同じでかまわんだろう」
 ずるずると刀を引きずり十籠は六淵の前に立つ。
「『伏せろ』」
 難なく六淵は命ぜられた通りに動く。そして、十籠は無造作に――そう見えるように細心の注意を払って――、六淵の背に刃を突き刺した。まだ癒えきっていない傷がある、同じ場所だ。
 肉を断つ感触、びくりと跳ねる筋肉、滲む血、堪えられたうめき声。
「……貴様のいのちをにぎっているのは、わたしだということを、……わすれるなよ。言葉ひとつで、わたしはきさまの世界を……暗ますんだ」
 恨まれ続けなければならない、そのための存在であり続けなければならない。
 十籠は必死で唱え続ける。手の震えを抑えつける。
 そのためだけに、これからを生きていく。
「『返事は、六淵』」
「――――はい、……ご主人、」
「っく、っふ、ふふふ……」
 ――本当に、この男を下僕に貶めてしまった。
 嗚咽を、笑い声で誤魔化した。くしゃくしゃに、下を向いた六淵の髪をかき混ぜる。これだと涙が落ちても気づかれない。泣き顔は見られない。絶対悟らせない、一生本心は告げない。
「『そのまま動くんじゃないよ、六淵……。ものわかりのいい子は、すきだよ』」
 すき、だいすき、だいきらい。六淵。――――だいすき。
 だいすき、だったのに。どうしてこうなるの。
 どうしてこんなに、わたしたちは壊れてしまわなくてはならなかったんだ。
 ――――でも。
(……こうするしか、なかったんだ……)
「……知るだけすべてのちじょくをあたえてあげるよ、むぶち。貴様も、うらむざいりょうが増えて、ほんもうだろう? 貴様がまいた、さいかのたねだ。せきにんを、とってもらわないと」
 ひとりぽっちになるくらいなら、死んだ方がましだという気持ちを、六淵、お前には理解できるだろうか。
「――――お前を、俺は心底憎むよ、十籠。いつか必ず、殺してやる」
「わたしもだよ、六淵、このうらぎりものめ。できるものならやってみるがいい。たのしみに待っているさ」
 六淵から受ける殺意を、十籠はやさしさのかわりにしている。
 与える侮辱に、ひそかに慕う気持ちを籠めている。
 そんないじましい自分をせめて赦してほしい、十籠は心中でさびしく呟いた。
 


 わたしのいのちを、捧げるから。


――心骨に刻す



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