人の熱は、毒だ。しんと冷たい檻の中で眠り続け、目覚めを待つ時に、あたたかさを求めてはならない。
 ぬくもりを知ってしまえば、得てしまえば、失うことを恐れてしまう。閉じ込めてしまう。そうして熱のとりこになる。
 だからそうならないために。そうあれずに生きるのなら。孤独に生き、死ぬ方がいい。
 けれどもし、ぬくもりに囚われてしまったのなら。
 ――とても、独りでは生きてはいけない。

 村からほど近い山は、豊かな恵みをもたらすかけがえのない場所だ。春には草花、秋には木の実。望みすぎさえしなければ、ふもとの村人たちは暮らしていくには十分すぎる恩恵を受けていた。
 獣とて同じ。草を、木の実を求めて山に分け入ってくる。獣の肉もまた、人にとっては恵みの一部。
 恵みを得るために、村には腕の良い猟師が何人も育った。そのうちの一人が芳春で、幼い頃から鍛えた腕は誰しもが認めるものだった。
 けれどある時、芳春は村人たちを驚かせる言葉を口にした。冬の山に入る、と。
 村の皆は驚き、彼を止めた。
 なぜならば、豊かな山には掟が一つだけあった。それは今まで誰も破ったことがない。
 『冬の山には入ってはならない』
 決して冬の山にだけは足を踏み入れることはしてはならない。それがたったひとつの掟。
 掟を破れば山の怒りを買うのだと、村の大人は子供に何度も何度も言い聞かせた。やがて長じた子供が同じように、己が子供に伝えて行った。
 物心がつくかつかないかの頃から口を酸っぱくして言う上に、少しでも冬の山の中へ足を向けようものならこっぴどく叱られる。
 そこまですれば、大人の不興を買うと子供は自然とそれを守るようになる。
 掟を言い聞かせられて育ったのは芳春も同じであったはずだが、芳春は頑として譲らなかった。
「冬の山に入っちゃならんのはわかっとる。だが、この冬は実りが悪かった。皆も苦しいのはわかっとろう。それにおっかぁの病がよくならない。少しでも滋養のつくものを食べさせたい」
 芳春の言葉に、村人は押し黙った。確かに実りは悪かった。苦しい冬になることを覚悟していた。
 そもそも冬の山に恵みを求めるなど、ただの無謀でしかない。春から秋とは違い、冬は恵みが乏しくなる。だから無駄だと止めるのが普通ではある。
 だが、村人はもう一つの理由から、山に登ると言いだした芳春を止める言葉を飲み込んだ。
 ――冬は実りが少ない。だが、村の山は違うのではないか。
 理由は、あるのだ。時折山から冬眠から逃れた獣が現れるのだが、食べ物に乏しいはずの冬でさえ脂がよくのっている。いくら秋に蓄えた栄養だとしても、それは不自然なほどによく肥え太っていた。
 山に恵みがあるのならば、欲しい。だが、山の掟を破れば山の怒りを買う。そうなれば、今後豊かな恵みがなくなるかもしれない。
 山の怒りを買うのは困ると村人たちは何度も止めたが、芳春は山に入ると譲らない。
 大切な肉親である母を、失いたくはないと芳春は言い続けた。
 悩んだ村人たちは力づくで芳春を止めようともしたが、若く力のある猟師を止めるのは難しい。
 困り果てたお互いの様子を黙って見ていた長老が、ため息とともに芳春に言った。
「お主が山に入った責は、お前自身が償ってくれるな?」
 何かあれば、山に命を捧げること。長老の言葉に、芳春は頷いた。それほどの決意はとうにしていたと笑いながら。
「でもよ、お前が山ん中でのたれ死んだらおっかぁはどうするよ」
「そうしても、しなくても。俺とおっかぁは春まで待たずに二人でのたれ死にさね」
 芳春は言葉とは裏腹に、朗らかに笑って村人の最後の言葉を封じた。許しを得れば早速と、山へ分け入って行った。心配そうに見送る村人に向けて、みやげがあれば分けるよと声をかけて。

 冬の山は、草を踏んで人がつけた道をことごとく消し去り、新たにつけた道さえ白い化粧で消していく。芳春は囲炉裏の灰を固めた粒を落とし、道しるべをつけながら奥へ奥へと進んでいた。
「しかしこりゃあ予想以上だな……」
 漏らした言葉とともに、白い吐息が空へと薄く散っていく。芳春は慌てて口を閉じ、歩みを再開した。息を吸った瞬間、きりりと痛んだ喉を押さえ、余計な口を開かないよう意識して歩を進める。
 真白の雪がはらはらと羽のように落ちるが、その容赦のなさは芳春の足跡を消すのみにとどまらず、冷え切った空気が芳春の体までをもさいなもうとしている。
 命を脅かす恐怖に気づいてしまえば歩みを止めるのは命取りだ。だが、山に入って獲物に出会っていない以上、戻る訳にもいかない。前に進むしかない。
 それにしても、と芳春は歩きながら辺りを見渡した。
 つけた足跡さえ即座に雪に消されていく冬の山。それは予想したとおりだったが、予想以上の景色が眼前には広がっている。
 冬である以上、果実が実っているなどと思ってはいない。その予想のとおり、秋に実をつけていた木々は確かに実をつけていないのだが、葉を落としてはいなかった。艶やかな緑が、白を見慣れた芳春の目にまぶしく焼き付く。
 通常であれば、実を付けた樹木は常緑の種類でなければ葉を落とし、次の春に備えているはず。芳春は己の予測に間違いはないと、唇に笑みを刻んだ。
 少し変わったこの山でなら、冬には望むべくもない、獣の肉が手に入るはずだ。母親に精の付くものを食べさせてやれる。
 喜びと確信の勢いで、歩みは先ほどよりも弾んだものになった。しかし、だからこそそれは油断へとつながった。
 雪のない道ならば、芳春とてその油断は大したものにはならないはずであった。しかし、誰も入ることのない冬の山では命取りとなりえるものだった。
「うぉっ!」
 白くぬりつぶされた道は、人を惑わせる。そして足下の危うさも知らせてくれない。
 ずぶりと柔らかな雪に足が埋まる。溶けかけて固まることを繰り返した雪は芳春の足下にまとわりついて、体は支えを失った。
 そのまま足を抜くことさえ叶わず、固い雪の地にしたたか頭をぶつけてしまう。芳春の視界にちかちかと星が瞬く。いけない、と本能が警鐘を鳴らしたが、時はすでに遅く。
 すう、と意識は闇に飲み込まれた。

 ひんやりとした感触が、頬をなでる。痛みを伴うそれを払いのけたいが、それ以上に心地がよくて芳春は振り払うのをやめた。
 細くやわらかなものが手であると気付く。そのままにしていると、ほう、と吐息が耳を打った。
「やれ、人の子か。難儀な……捨て置くか」
 忌々しそうな声音とは裏腹に、声の主のものと思わしき手の感触は優しい。するすると動く指先が、ふと鼻辺りで止まった。
 息を確認しているのだとぼんやりと思うと同時に、もやがかった意識がはっきりと色を得た。視界には意識を失う直前にみたものと同じ、白い景色が広がっている。たったひとつ違うのは、己以外のものがそばにいたことだ。
 白いおもてがこちらをひたと見据えている。視線が合うと、忌々しいとでもいいたげな険しさが瞳に宿った。
「なんぞ、生きておったのか。死体なら良い食料になったものを」
 ふん、と白いおもてをそらして芳春をのぞいていたもの――白い髪の女だ――が鼻を鳴らした。心の底から不満のにじむ声音と物騒な言葉に、芳春は瞬きを繰り返す。
 人の子、と聞こえた言葉を繰り返すと、女がじろりと睨んできた。
「人の子を人の子と言うてなにが悪い。おんしが人の子でないというなら話は別だが」
 いや、と芳春は答えながら身を起こした。確かに自分は人の子だ。否定する理由も意味もない。
 ぐるり、と腕を回してみると、気を失っていたのはほんの少しの時間だったのか、体に違和感はなかった。思っていたより冷えてもいない。
「目覚めたのなら、去れ」
 冷たい声が、体の様子を確かめていた芳春の耳を打った。打ち据えるような声音で去れ、と繰り返す。
「去らねば命はないぞ。人の子よ」
 白い髪の女はするりと立ち上がり、芳春を見下ろした。夜の闇のごとく暗い瞳が睨みつける。
 憎しみさえ宿っていそうなその言葉に、芳春は確信した。この女は、人ではない。
 あやかし、だと。
「お主はあやかしなのだな」
 するりと漏れた声に女は目を見開き、なにを今更とつぶやいた。
「この雪山で無事に生きるものなど、獣かあやかしくらいのもの。幼子でもわかりそうなことを聞くなど愚かよの」
「……まぁなぁ」
「冬の山に入るなと言われておろうに。従っておらぬ時点でただの阿呆と言えるが」
 苦笑しながら応える芳春に対し、女の瞳が言葉とともに緩められた。呆れの混じる表情を眺めながら、芳春はあぐらをかいて女をじっと見上げた。
 いつの間にやら雪はやみ、それでもひゅるりと時折冷たい風が頬をなでていくのを感じた。
「お主は確かにあやかしだろうな。そんな薄手の着物で出歩ける女などいまい。……しかし、優しいあやかしだ」
「私が優しい? 阿呆の言葉は意味がわからぬ」
 身を翻して女は歩き出した。早く去れ、と紅をぬったような唇が繰り返す。積もった雪の上を、草履ですたすたと歩く様に危うげな様子はない。
 むしろ、滑るように進んでいくのがいっそ気持ちが良いほどに美しく、芳春はほう、と息を漏らした。
「帰らぬよ。というか、帰れんな」
「では、雪に埋もれて死ね」
 振り返りもせず女が答える。芳春は立ち上がると女のそばに寄ろうと歩きだした。山に入る前に持っていた荷は、幸いなことに無事だったようだ。よっこらせ、と担ぎ直し、女のそれとは比べものにならないほどよたよたとした足取りで追い始める。
「おんし、言葉が通じぬのか。私はここから去れ、と言うたはずだが。判らぬと言うなら言葉を変えてやろう。帰れ」
 芳春の気配に気づいて振り返った女が目をつり上げて声をかける。帰らない、と芳春は返した。
 なにゆえに、と女はうっとうしそうに続ける。このままでは死ぬぞと同じ口調で繰り返す。
「それとも私が殺してやろうか。雪に包んでやれば、凍え死ねるぞ」
「帰っても、どうせ死ぬだけだ」
 間髪いれずの返答に女は首を傾げた。穏やかな口調で芳春は説明する。
「滋養のつくものを食べなけりゃ、おっかぁはこのまま死んじまう」
「……おんしは生きるだろう」
 一人で生きるのは嫌だと返すと、わからぬ、と女は言った。白い髪がゆうらりと揺らめく。芳春は困ったな、と頭をかいた。
 わからぬ。と女は繰り返す。生き物はみなひとつの命しか持たずに生きて死ぬ。己がひとつの命を、他の命がなくなるからとて危うくする意味がわからない、と。
 芳春は女の言葉を聞いてそうか、と頷いた。そして首を傾げて問いかけた。
「お主は、寂しいと思わんか? 一人でいると嫌ではないか?」
「今までずっと一人でおった。なんの不都合があろうか。一人が嫌だと思うたことなどないわ」
 そうか、と芳春は納得した。
 このあやかしはあやかしゆえにずっと孤独なのだと。だから寂しいとも思わない、孤独が苦痛だとは感じない。
 それは少しだけうらやましくもあり、そして哀れだと思った。どうしてそう思ったのかよくわからなかったが、目の前の女が孤独の意味を知らないのは、ただ哀れだと思う。
 芳春は積もった雪に足をとられながらも、首を傾げたまま立ち止まっている女のもとへと歩いていく。ずぼり、ずぼりと歩くたびに雪の山に音が響く。
 あやかしの女は、近づいてくる男を不思議そうな顔をして見つめている。女の元へたどりついた芳春は、にこりと笑い掛けた。
「やはりお主は優しいな」
「私は おんしが阿呆で意味が分からぬ生き物にしか見えぬわ。言葉の通じないやつめ」
 呆れかえった顔で女は言う。芳春は笑ったままだ。
「お主がそばにいてくれた間、雪の気配が薄かった。おかげで体が凍えとらん。守ってくれたのだろう? だから優しいと言った」
 女の黒目がこぼれ落ちそうなほどに見開かれた。なにを、と赤い唇が音を伴わず動く。
 怒声がくるか、再度死ねとでも言われるか。芳春は覚悟して女の言葉を待ったが、女はしばらく唇を開閉した後、大きく息をついただけだった。
「……もういい。もうなにも言わぬ。阿呆に何を言うても無駄と、ようわかった。どうしたら、この山から去るのじゃ?」
「おっかぁに滋養のつくたべもんが見つかれば、すぐにでも」
 つまり、それが見つかるまでは帰らない。再度の決意と脅しのような言葉に女はため息を返す。
「どうしてそのようなことを思うた。ここは冬の山、春の息吹も夏の青さも秋の実りもない」
「では、なぜその冬の山からくる獣は痩せてはおらんのだ」
「……小賢しいの、人の子よ」
 すかさず返された言葉に女の顔がゆがんだ。怒りを抑えた、しかし観念したような声音で忌々しげに吐き捨て、女は芳春に背を向ける。
 先ほどと変わらず、雪の上を滑るように進んでいく。歩きながら女は芳春に向かって言い放った。
「ついてくるがいいよ。獣の肉はやれぬが、代わりを与えてやろう」
 だから恩に着ろ、とでも言われるかと身構えた芳春の耳を打ったのは、予想外の言葉だった。
「阿呆につきおうていたら、務めがはかどらぬ。おんしは阿呆だが、真面目な目をしておる」
 だからおんしの言を信じることにした。女はふぅと息をついて続ける。
「おんしのような阿呆はこうと決めたら動かぬ獣と同じよ。だが言葉が通じる。ゆえに、頼む。望むものを手にしたら、はようこの山から去ってくれぬか。人の子は、ここにいてもらいたくないのじゃ」
 懇願の言葉。そんなものが女の唇から飛び出すとはとても思えず芳春は純粋に驚いて言葉を失った。
 動き出す気配のない男の様子に気づいて女は振り向く。
「なんぞ、気が変わったか。従わぬと言うならその体と命、山の糧か、獣の糧にもらってやろうぞ」
「……お主は、山の主か」
 村人は口々に言っていた。冬の山に踏み入るな、山の怒りを買うぞ。
 その言葉の出所は。
 女は芳春を見つけて言っていた。命が惜しくば山を去れ、冬の山に入るなと聞いていなかったか。
 その言葉の意味は。
 ――目の前の女の、山の主の言葉が伝えられていたのだろうか。
 芳春の言葉に、女は顎を引いた。
「いかにも。この山は私の住処。私の力がもっとも強まる冬以外はおんしらの立ち入りを許したのも私。冬の山は私の天下。ゆえにおんしら人の子にこう呼ばれることもあるのよ」
 ――雪女、とな。
 艶やかな唇が弧を描き、女は男に初めて笑いかけた。その笑みは、目を焼いた緑以上にまぶしく芳春の目に映った。
 美しい、と心の底から思った。

 村に戻った芳春を出迎えた男は、幽霊でも見たような顔をして慌てふためいた。
「芳春! 生きておるのか、本物か?」
 男の血相に、苦笑を返してやる。荷物を担ぎなおしながら歩みを再開した。
「生きとるわ。勝手に殺さんでくれ」
「だって、冬の山に入ったら最後、命がないってじじばば共が口をそろえておったぞ。肉は手に入ったのか?」
「真太。俺の足が見えんか?」
 尋ねてやると、左右に首が振られた。そうだろうと返して歩む速度を上げていく。
 肉は残念ながら手に入らなかった、と説明する。
「で、どこへいくんだよ」
「家に帰るに決まっとる。あ、長老に伝えといてくれ」
「何を?」
「お山の怒りはなさそうだ、とな。俺はこれを持っていかにゃならんからな」
 これ、と荷をたたいて芳春はとうとう駆けだした。
 ぽかんとしながら真太は頷いた。これって何だぁ?とぼやく声は、芳春の耳には届かなかった。
 母の元へと家路を急ぎ、簡素な戸の前に立つ頃には息さえ切らしていた。荷を再度ちらとのぞき込み、戸に手をかける。
「おっかぁ、帰ったぞ!」
 期待を込めて、芳春は母に向かって弾んだ声をかけた。
 息子の無事を見て、母は喜ぶだろう。そしてあのあやかしがくれたものを口にすれば、元気になってくれると。
 そう信じて疑わずに。

 確かにあやかしの女は約束を守った。芳春の望みを叶えて、芳春は山を下りて行った。
 だがどうして、目の前にこの男はいるのだろうか。女は心の底からわけがわからず、黒い目で前をじっと見つめていた。
 山道に慣れたのか、初めて話をした時よりも雪に足をとられず芳春は山を登ってくる。そして女の姿を見つけて笑う。
 来てくれるなと思うのに、その笑顔を見られたことに、女は喜びを覚えたことに気づいて顔をしかめる。
 わけがわからない、と女はつぶやく。山の端、歩いてきた道でちかり、と光が瞬いて消えた。

 あやかしの女は、見目も麗しいが所作も美しい。するすると水の中を泳ぐ魚のようにひらめく指を、芳春はぼんやりと眺めていた。
「おんし、なにを呆けておる」
 いいや、と芳春は返した。女の瞳がゆるりと瞬く。
 険を帯びた光がぎろりと芳春を睨みつけ、うっとうしそうに言葉が吐き出される。
「そもそもおんしは望んだものを手にして山を降りたであろう。なにゆえまたここにおる」
「去れとは言われておるから去ってはおるぞ」
 すかさず返された言葉に、女は悔しそうに鼻を鳴らして歩みを再開した。芳春は後を追い、女の手元を覗き込む。
 初めて出会ってから、何度か山に訪れているが、女は山を歩いてあちこちで何かをしていることが多い。
「なにをしてるんだ」
「山の調子を見ておるのよ」
 雪に覆われた地表を眺め、時折指を立てて軽く雪に穴をうがつ。袖からこぼした白い珠を落として埋める。
 女がいつも行っていることだ。眺めながら、それにしては頻度が多くなっていないかと思った。もしやただ単に、ふらふらと戯れているだけではないかとさえ思う。
 すかさず遊んでおるのではないぞと女から声が飛んだので、心が読まれたのかと芳春は慌てた。
「それで今日はなにをしにきた。満足したら去れ。私はこの冬の山に人が立ち入ることを好んではおらぬ」
 今日は、と力を込めた言葉に芳春は笑った。言葉のない返事にあやかしの女は不機嫌に顔を歪める。
 再度山を訪れた男を見て、女は驚きに目を見張り、間をおかず不機嫌に顔をしかめた。次いで去れ、と忘れず声を荒げた。
 だが芳春は素知らぬ顔をして女の後を追っている。
「おんしは去れと言えば去るものを、何度も何度も山に来る。はじめの望みは叶えてやったに、その後は望みを口にせぬ。なのに山には来る。なにが目的じゃ」
「目的……」
「そうじゃ。さきごろはおんしの母に滋養のある食べ物をと望んでおんしはここへ来た。私は望みを叶えてやった。次にはその礼にとやってきた。その後は話をしろとやってきた」
 確かに芳春は村に戻って後、数日後に山に登った。
 村人たちが今度は止めなかった。礼を言いに行くと言う者を、止める理由はない。
 女は不機嫌そうに顔をしかめて芳春を迎えたが、礼を口にして頭を下げた芳春にそんなものは求めておらぬと返して姿を消した。
 次は話をしたいと言ったら何も答えず、去れとだけ言われて背を向けられた。
 四度目の今日は、追い返してもまた来ると観念したのだろうか、今日はついてきても言葉を返してくれる。
 指折り数えて女が言うのに、芳春は笑いだした。よくもまぁ、丁寧にあげつらねることだ。
 女は芳春の笑い声が聞こえなかったのか、折った指を戻して雪に視線を戻す。
「ならば今日とて何か用があって来たのだろう」
 断言しながらこちらを見もせず女は作業を続けている。ひらり、ひらりとまた白い指が雪山の地面に穴を穿ち、珠を落としていく。
「目的は、ない」
 女が振り返る。白いおもてに言葉の意味を問う光をたたえて芳春を睨みつけた。答えを待つ姿勢だが、本当のところ、言いたいのは「用がないならば去れ」だろう。
「……おんしは真正の阿呆か。訳が分からぬ。だいたい母はどうした。おんしは母を残して死ぬのも母が死ぬのも嫌で、ここへ来たと言ったではないか。私に会いにきてどうする」
 言われた言葉にぎくりと肩が跳ねるのを、芳春はかろうじてこらえた。いつか聞かれるかと思っていたが、今まで聞かれなかったのがむしろ不思議であった。
 優しいあやかしは、からかいで言葉を口にしてわけではない。ただ単に聞きそびれいていただけだ。与えられたものは、確かに芳春の望みを叶えるものであったのだから。
 礼を聞くつもりはないと言った女の顔を思い出す。当然の結果だと、淡々と返した女の表情はまだ冷たかった。
 けれど幾度か通ううち、冷たい表情には少しずつ柔らかさがにじみ始めた。芳春に阿呆だ愚かだ去れと言いながら、黙って芳春の訪れは受け入れる。
 やはり寂しさを知らないだけの、優しいあやかしなのだと芳春は思う。だから本当は、言いたくなかった。言わずに済めばいいのにとさえ願った。
 だが、聞かれたからには、答えねばなるまい。あやかしの女は、嘘いつわりをきっと好まない。この雪の山のように、白く穢れない心根を持っているように思う。
「おっかぁは」
 一度唇を湿して呼吸を置いた後。
「死んだ。だからもう、生きて山を下りなければならない理由はない」
 そう言って笑う男に、女の表情は文字通り固まった。赤い唇が、では、と問い掛ける。
「ではなぜ、笑う。なぜ、またここへ来る。死に場所を求めてここに来たのか」
 目的はないと男は言った。ならば元々ここへ来る必要もなかったはず。人の行動には、あやかしである自分とは違う意味があるのではと女は問いかける。
 芳春は困ったように微笑んで、本当にないのだ、と応えた。けれど少し考えてから、
「ああ、もう一度お主に会いたかったのかもな。優しいあやかしのお主に」
 ぴくり、と女の肩が揺れる。二人で歩いてきた道の向こうで、小さな光がはじけて消えた。

 女は問うた。母にあれを与えなかったのか、と。
 男は答えた。母はあれを口にしなかった、と。
「得体の知れぬものは口にできぬと拒まれたか」
 残念だの、とかける声は、己への気遣い以上に自嘲を込めたものに聞こえて芳春は慌てる。違う、と山に響きわたる声で否定した。
 母は、息子から与えられたものを口にしたとしてもそう長く生きられないと言った。山のお恵みを独り占めするなどと恐れ多く罪深いことだと。息子が無事に帰り、顔を見せたことがなによりだ、と心から微笑んで手を合わせた。
 そうしてそのまま眠り、目を開けることはなかった。
 結局あれはどうしたのだ、と女が渡したものについて問いかけると、芳春は母の骸と共に埋めた、と答えた。
 山の恵みは分けるものという母の言葉をきいて、今更誰か一人に渡す気にもなれなかった。だから息子の心のひとつとして、埋めることにした。
 女は勝手なことをと不愉快そうに眉を寄せたが、掘り起こしにいけとは言わない。芳春はすまねぇな、と頭を下げた。
 病を癒し、寿命を延ばすと教えられて渡された、真白の木の実を無駄にした。目の前のあやかしの慈悲も。
「俺は阿呆だから、一つのことしか考えつかなかったんだ」
 すまねぇな、ともう一度深く深く頭を下げた。下げた頭はあがらない。否、あげられないのだ。
 その様子を、女は黙ったままじっと見ていた。すぅ、と黒いまなこが細められる。女の指が男の頭に伸びかけるが、届くか否かの距離でぴたりと止まった。
 視界の端で、ぱしりぱしりと小さな音を立てて白い光がはじけていく。警告のように繰り返されるそれは、やがて女の足元近くまで届き、ひときわ輝いた後に消えた。それを見届けて女はぎりと唇をかみしめる。
「……私に会って、満足したか?」
 伸ばしかけた手を胸元に引き寄せて、女は男に言葉を落とした。顔を上げた男に、再度去れと告げる。
 足元でひとつ、光がはじける。
 去れ、と繰り返す。
「私の顔を見て、私に詫びの言葉を告げて、許しを得られれば、満足か? 満足したなら山を下りよ。そうして二度と、冬の山には足を踏み入れるな」
 私はおんしを許そう。だから去れ。早く去れ。
 女は繰り返す。
 同じ言の葉を繰り返す女の表情を不思議そうに眺めて、芳春は首を傾げた。
「初めて、二度と来るなと言ったな。なぜ、お主はそんな表情をしておるのだ」
 どんな表情だ。睨みつける女に、芳春は泣きそうな顔をしていると教える。
 女の頬に涙が流れているように感じて芳春はそっと手を伸ばした。
「触れるな!」
 言葉と同時、女のすぐ足下で光がはじけて消えた。ああ、と女は呻く。
 白い髪が乱れるのも構わずに、へたり込んで顔を覆う。
「触れてくれるな。人の子よ。私と山には、人の熱があつすぎる。冬の山には、その熱は、毒なのだ」
 あやかしの女は思い出す。二度目に男の姿を見た時に光がはじけた。まずいと思った。けれど女は、男が山に入らぬように山を封じることができなかった。
 あの屈託なく笑う姿を見たいと、どこかで思っていたのだと。愚かさに女は顔を覆って心の中で嘆く。
 早く去ってくれ、いいやもう手遅れだ。顔を覆ったまま、女はつぶやいた。
 女の通ってきた道に沿って光は瞬いて、消える。それは女が穴を穿ち、白い珠を落とした場所。それがすべて消えたことを、女は理解していた。
 白い珠は、山の封じ。熱に負けぬように女がほどこしたまじない。それがすべて、消えうせた。
 手遅れ、と女の言葉を繰り返し、芳春は女の目の前に膝をついた。
「手遅れとは、どういうことだ」
「簡単なこと。このまま行けば、冬の間に時をかけて凍り、やがて溶けて春に流れる雪が、一気に溶けて里へと流れ込む」
 それが、人が冬の山に入ってはならない掟の理由であり、その管理こそ女の役目。
 人は熱を、心を持ったからだで冬の山に入ってはならない。山を統べるあやかしの女は、熱に惑わされてはならない。その両方が、破られた。
 止める術は、と問う男に、山に封じをすればと答えた。
 命をひとつ。それで封じは整う。時をかけて埋めていくべき珠の代わりに、命一つでこの冬の守りは適う。
 女は管理不行き届きであった自分の身を使うと芳春に告げた。
「それは、ならん」
 芳春は即座に止めた。なぜ止める、と女は厳しい瞳で芳春を睨みつける。
「俺が、この山に身を捧げれば良いのだ。山に足を踏み入れてはならないという掟を破った俺が。元凶たる俺が、山に身を捧げればいいのだろう。お主は俺のわがままをきいただけ。優しいお主が犠牲になることはない」
 山の主は人一人の命などよりずっと重い役目だ、と芳春は説いた。
 バカなことを、本当に阿呆だと女は言う。あやかしと、人と、力の強さが違う、本当に阿呆だと。
 男は命がひとつあればいいのだろうと笑った。
「最初から、山に入る時に全ての責を負うと長老と村には誓ったし、覚悟はしておった。その責が今来ただけのことよ」
 それに、と男は女の目をのぞきこんだ。
「お主は山の主。これからもお役目があるだろう。そして山の封じが命一つで足りるのなら、お主が上手くやってくれると信じとるのよ」
「嫌だ、と言ったら」
 男の目が見開いた。拒絶の言葉は、覗き込む男の命を惜しむ響きがあった。
 嬉しそうに芳春は微笑む。拒まれた手を伸ばし、潤んだ瞳に自分を映して白い頬にそっと触れた。女は今度は拒まない。
 気付かれ、拒まれる前に柔らかく指先で頬を撫で、芳春は女から手を離した。俺の命を使って山を守れ、里を守ってくれと女を諭す。
「お主は山を見捨てることはできないだろう。望みを叶えてくれた恩人に、礼の一つもできずになにが男か。お主に会えて、良かったよ」
 だから、俺の命を使え。芳春は女が頷くまで繰り返し、最後に「頑固者め」と女が折れるまで譲らなかった。
 里でも山でも同じようなことを繰り返しているなと笑ってばかりいる芳春に、女は「ほんに、おぬしは阿呆じゃ」と悲しそうにつぶやいた。
「うぬぼれでないのなら」
 そう言い置いて、芳春は封じを施そうとする女に二つの言葉を伝えた。脆弱な人の望みを叶える優しいあやかしに、望みと許しを。

 山は、白く、雪に埋もれ。誰も立ち入ることなど許さないとでもいうように吹雪いていた。
 そんな中を、白い髪をした女が一人、雪の上を滑るように歩いていく。黒い瞳は凛と前を見据え、時折立ち止まっては雪に穴を穿って白い珠を落としていく。
 どれだけ時がたっただろうか。山の四方、端から端までをくまなく歩いた女は中腹へとやってきた。
 しゃがみこんで、細く華奢な手と腕を雪につっこみかき分けていく。冷たさも苦労も感じないのはあやかしであるが故で、それでも雪をかき分けるという作業は単純なだけに時間がかかった。
「おんしは、本当に阿呆だ」
 やがて現れた透明な氷の、その中に眠る男を睨みつけ、女は言った。
「そして、傲慢だ。寂しくなったら来てもいい、などと言う人の子なぞ聞いたことがない。……言葉の通り来た私も愚かと言うしかないが。だが、こんなに早いとは思っておらんかっただろう?」
 ざまをみろ、と意地悪く笑んで言うものの男は答えない。真っ白な肌に生気はなく、朽ちない体は氷の中にあるからというだけではなく、山に捧げられた命であることを示している。
 女は答えない男に苦く笑って瞳を細め、言うとおりになったぞと男の顔を眺め続けた。
 しばらくの後。氷の、ちょうど男の顔の真上に細い指をはわせ、女は腕で体を支えながら顔を下ろしていく。
「おんしがいなくなって、私が独りで長く長く生きていくと思うたか。山を一つ、管理もおろそかにするほど私の心を奪ったおんしがおらずに」
 ほと、と氷の上に雫が落ちた。男の唇の上、頬の上とその雫は増えていく。
 赤い唇が氷越し、男のそれに触れた。
 雪の山を支配する、あやかしの女。その役目と力を考えれば、どのような季節であろうと山への立ち入りを拒むことさえできた。それをせず、冬だけ立ち入ることを許さなかったのは。
 人の熱を、求めていたのかもしれない。命を燃やし、生きている人の子の一生を長い間見続けたあやかしは、冬の山にこそ現れる熱を、待っていたのかもしれない。
 おんしの最後の願いを叶えてやろう。女は言った。
「私の名前は六花じゃ。おんしにだけ、呼ばうことを許そう」
 封じは全て終えた。封じの要となる白珠は、いくつもいくつも女の手で埋められた。何重もの強固な守りとなるだろう。今までと変わりなく、冬の山に人が立ち入ることを拒むだろう。
 ――だから愛しい人の子よ。永久にそばに。
 言葉と共に、六花は男が望んだように微笑んだ。振りかぶったこぶしは氷をうち、割れる。
 割れた氷の底、男のそばに六花はするりと下りて身を横たえる。ぬくもりのない男の手に指を絡めて、目を閉じた。
 それを待っていたかのように、割れた亀裂を補いながら氷が二人を包んでいく。
 冷たい氷の中に眠る男のそばで、微笑みながら白い髪の女が寄り添って眠りにつき。やがて舞い落ちた雪が全てを覆い隠した。

 冬の山に、人の子は立ち入ってはいけない。冬の山は、春に夏に秋に、恵みをもたらすために眠っているのだから。
 雪に閉ざされた山の中、命の芽吹きの力を蓄えて、命が眠っているのだから。
 だから、人の子の熱を、冬の山に与えてはいけない。
 山を守る優しいあやかしが、孤独であることを知って嘆き悲しんでしまうから。

 人の子の熱を、求めてしまうから。


――白妙に春の眠る



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