いつからか、木から雪の塊が落ちるあの音がしなくなっていた。冬の間閉めきっていた一階の窓から、思い切って外の空気を吸い込む。芽生えたばかりの緑の香りが胸に広がり、頬がゆるむのが自分でも分かった。
 わたしを窓辺まで導いてくれたラースが、そっと片手を取って手のひらを上向きにさせる。ゆっくり、ひとつずつ書かれる文字を、わたしは読み取って頭の中で組み立てて行く。
「雪、ほとんど、溶けた?」
 ラースが書いた文字を口に出すと、軽く手のひらを二度叩かれる。「そうだ」、「はい」の合図だ。

「外にも出られる?」
『雪靴を履けば』
「そっか」
 半年近い冬がやっと終わりに近づいていると知って、自然と心がうきうきして来る。村に居た頃なら、もう短い夏に向けての色々な作業に追われている頃のはず。種芋を植えたり、雪に負けた果樹を整えたり、冬の間に紡いだ麻糸を町へ売りに行ったり、一年でも忙しい時期だ。
 そうしているうちに花が咲いて春の祭りが行われ、森の生き物と同じようにわたしたちにも恋の季節が来る。去年までは今年こそは相手を、と思っていたけれど、今はもう結婚には興味が湧かなくなっている。

「閉めるね」
 雪がなくなってもまだまだ空気は冷たく、春の気配を確認した後は元通りに閉めようとする。と、ラースがわたしが木枠を探るより先に閉めてくれた。ありがとうと礼を言って、ゆっくり窓辺を離れる。
 ゆっくりテーブルへ戻ろうとしていると、ラースが軽く手を握ってきた。用事がある時の合図だ。
「なに?」
『すぐに、靴、作る』
「靴。雪靴?」
 手のひらをとんとんの合図。
「え、いらないよ。まだひとりで歩くのは、ちょっと」
 生まれ育った村の中なら、父さんが作った杖を頼りにひとりで歩くこともできていた。でも、長く雪に閉ざされていたせいで、ここに住み出して半年にもなるのに辺りのことがまったく分かっていない。ずっとここに居るなら慣れなきゃいけないけれど、もっと暖かくなってからの方がよさそうだった。

 外に出ることをためらうわたしに、ラースはまた文字を書く。
『案内する。一緒に行きたい』
 思わずラースの顔がありそうなところを見上げる。けれどわたしのめしいた目は何も映さず、その考えを読み取ることもできなかった。ただ、厚い手袋をした手がわたしの手を握ったのは、もう一度『行きたい』を伝えるためのように思えた。


 前の冬の終わりだったから、ちょうど一年前のこと。何日も高熱で寝込んだ後、やっと起き上がれるようになった時にはおかしな風に目がかすむようになっていた。
 そのうちに治るという気楽な考えは、夏が終わる頃には消えてしまった。家にはお医者さまにかかる余裕もなく、新しい冬が来る頃には目の前にある物の輪郭すら分からなくなっていた。
 秋の実りが多かったら。二番目の兄まで兵役に取られなかったら。わたしは、あのまま村で暮らしていたかもしれない。借りた畑を細々耕している家には歩くこともままならない人間の居場所はなく、わたしは初雪が降りそうだったあの日、この森へ置き去りにされてしまった。
 もしかしたらこれを、人は捨てたと言うのかもしれない。でも、奥の方で木の実を集めている間にはぐれたんだから、違うはずだ。たとえ、その日一緒に行った母が、森の木々とよく似た色の服を着ていたのだとしても。

 一度は死を覚悟したけれど、どこかから現れた親切なひとが拾ってくれたおかげで、その日のうちに死ぬことはなかった。そして春が来た今も、生き続けられている。
 その親切なひとは、口が利けない代わりにわたしの手に文字を書き、自分は『ノーメラ・ラース』だと教えてくれた。わたしも『アリーナ』だと口で伝えて、以来ずっと、文字を使うちょっともどかしいやり取りをしながら暮らしている。

 わたしとラースが寝起きしているこの小屋は、初めは長い間人の住んでいないような雰囲気を漂わせていた。ラースも『倉庫』だと言っていて、けれど家具や本が揃っていたから、前は誰かが住んでいたんだと思う。もしかしたら、村の昔話にある、魔法使いの家なのかもと考えてもいる。
 その家具たちのうち、丸いテーブルはもっぱらわたしだけが使っている。拾われてすぐ、何度断られても仕事を下さいと頼んだら、根負けしたらしいラースに椅子に座っているように言われたからだ。
『そこに座ることが仕事。私は絵を描く。あなたを描きたい』
 と、ラースは言ったけど、かなり苦し紛れの理由づけだった。実際には、ラースはだいたいいつも紙をめくっていて、絵を描いてる気配なんて一度もさせていたことがない。

 ここには、わたしができることはない。そう知らされてからも、鍋をかき混ぜるとか本を高さ順に並べるとか、無理やり仕事を見つけては、手伝ってるんだか邪魔してるんだかよく分からない行動をくり返してきた。……本当に、よく追い出さなかったと思う。
 ラースがひとつずつ文字を浮き彫りにした板切れを作ってからは、それを組み合わせては文字を覚える努力をするようになった。村の小さな学校で読み書きだけは習ったけれど、これまで実際に役立てる機会がなかったせいでほとんど忘れてしまっている。山を書いて横線で「エー」だということすら、忘れてしまっていた。

 自分の名前、アリーナの文字を並べて指でなぞっていると、ラースがいつも居る辺りからとんとんと壁を叩く音がした。用事がある時の合図だ。
「何?」
 返事をするとずるずると重たい足音が近づいてきて、テーブルに置かれているわたしの手が取られた。いつも分厚い手袋をしているラースの手は人間にしてはごつごつしていて、わたしの知っている大人の男の人よりも二回り以上大きかった。

 太い指でそっと、わたしの手をなぞる。
『靴できた』
「……え。もう?」
 はいの後に、足元にラースがかがむのが分かった。片方の足首を掴まれて一度驚きに跳ねてしまったけれど、ラースは気にした様子もなく今履いている靴を脱がしにかかる。
 村に居た時からずっと履いている、くたくたのなめし革の靴の代わりに、内側が毛皮張りのとても温かいものを履かされる。両方ともがふわふわに覆われた後、ラースが改めて手を取った。
『外に行こう』


 毛織物の上下に毛皮をみっしり縫い付けたコートのおかげで、外でもそれほど寒さを感じなかった。一歩を踏み出すのにもためらい続けるわたしを、ラースは辛抱強く導いてくれる。
 上を見れば覆いかぶさる木の形がぼんやりとだけ分かった。村に居た頃は、いつか何も見れなくなるんじゃないかと恐れていたけれど、今は少しだけ受け入れる覚悟がついている。それはたぶん、両親にがっかりされることも、きょうだいの誰かに舌打ちをされることもない、ラースとの暮らしのおかげだ。

 家の前に作られた石の小道は終わり、分厚い靴底の下は土の感触になる。雪が溶けたばかりのはずなのにそれほどぬかるまず、思いついてラースの手を引く。
「もしかして、道、先に整えてくれてた?」
 少しの間の後に、はいの合図があった。
「わざわざ……、ありがとう」
 なんの働きもできない邪魔者のわたしを、ラースはほとんど物語のお姫さまのように扱ってくれる。どうしてこんなによくしてくれるのか、何を聞いても返事はひとつ。
 ――ずっとひとりだったから、誰かが居るだけで嬉しい
 それならそれで、こんな役立たずじゃなくて、もっと働きのいい子に来てもらえるよう頼んだらいいのに。森の奥には誰も来ないと分かりきっているのに、そんなことを思ってみたりした。

 やがて森の中を進んだラースは、風の通るどこかで足を止めた。どんなところなのか、昔の癖で目を動かしているとラースの手が文字を書く。
『座って』
 足元を探ればそこには倒れた木があって、天然のベンチになっている。恐る恐る座ったそこにはあらかじめ布が敷いてあり、ラースの気配りに心がじんとした。
「ありがとう」
 周りには土の匂いと冷たい水の匂い。それに混じって、少しだけ甘い香りがした。たぶん、春先に咲くポドシェの香りだ。
 雪を割って咲く白い小さな花の姿を思い浮かべていると、ラースが『待ってて』と書いて離れて行った。森の中でひとりにされることに恐れを感じ、ラースの影を見上げると『すぐ戻る』とも書かれた。不安を見抜かれている。

 倒木の表面をなでたり足元を手で探ったりしているうちに、言葉どおりそれほど間を置かずにラースは帰ってきてくれた。目の前に大きな体をうずくまらせて、わたしの手を取る。そこへ、何かをそっと持たされた。
「木の枝?」
 両手でそっと細くて硬い感触を確かめていると、片方の手を取りチェーラボロヴィンカ、とまったく知らない何かの名前を書く。
『これがあればできあがる』
「何が?」
『目の薬』
「……目の?」

 光の下では少しだけ見え方が戻る目が、人間ではありえないいびつな形をとらえていた。大きな体と大きな頭。ぼこぼこと穴のある青い顔の中央から、極端に寄ったまばたきをしない目が向けられている。
『アリーナの目、たくさん食べて薬を飲み続けたら、きっと治る』
 確かにわたしの目が悪くなったのは、栄養不足も原因のひとつだと言われていた。あの小屋にはわたしひとりではとても食べきれない量の食べ物があるから、このまま十分な食事を取れるのなら、本当に目が治るのかもしれない。
 でもどうしてラースは、森の奥に捨てられた役立たずのわたしなんかに、世話を焼いてくれんだろう。
 なんて。本当はちゃんと気づいている。ラースが、誰かが森の奥に訪れるのを待っていたことを。


 わたしが生まれ育った村には、ひとつの昔話が伝わっている。森の奥に暮らす魔法使いの物語だ。
 昔、都で王さまのために働いていた優秀な魔法使いが居た。その頃もどこかと戦争をしていて、どうしても相手に勝ちたかった王さまは、魔法使いにあることを頼んだ。
 ――生きた兵器を作って欲しい
 恐れも疲労も知らない動く兵器を望まれた魔法使いは、その言葉に従って一所懸命に殺すための生き物を作り出した。姿でも相手をおびえさせるように、できる限り醜い姿に作られたその存在は、けれど戦争に負けたせいで居てはいけないモノになってしまった。
 そして魔法使いは、神に背くような生き物を生み出したとして、立場を追われこの辺境にやって来た。自らが生み出したバケモノを、一緒に連れて……

 わたしに触れる手はいつも手袋に覆われているから、その下がどうなっているのか分からない。石に似た硬い感触が、わたしの手をそっとなぞって動く。
『見えるようになったら、村に、戻れる』
 前だったら魅力的に思えたはずの言葉に、首を振る。
「目が治っても、ここに居たい。こんなにも世話になったんだから、恩返しさせて欲しい」
 それに、目が治ったとしても家が貧乏なことには変わりがない。わたしが戻ることを、家族の誰も喜ばない。
「目が治ったら、あなたの手伝いをさせて。今度こそ、役に立つから」
 告げた言葉にラースが震えたのは、自分を見たら逃げ出すと思ってるからだろう。まったく目をそむけないでいられる自信はないけれど、もうだいぶ前から、ラースがわたしと似た姿をしていないことは知っている。だから、大丈夫。

「戻りたくない。そばに居させて」
 震え出したラースの手を、わたしは両手で包み込む。一度おびえたように跳ねたけれど、逃げずにそのまま一緒に居てくれた。
 結局、ラースはわたしの願いの返事を先延ばしにした。すっと手を抜き取り、改めてゆっくりと文字を書く。
『そろそろ帰ろう。まだ外は寒い』
「……うん」

 明らかにがっかりして見てたのか、ラースはわたしが分かるくらいにうろたえた。でも何も言葉はくれず、先に立ち上がってわたしの手を取る。
「目が治ったら、あなたの手伝い、させてね」
 後ろから呼びかけると、また動揺して一度足を止める。ためらうような間の後、とんとんと二度、手のひらを叩いてくれた。
 ノーメラ・ラース――『一号』と名乗った心優しいひとは、あの小屋までゆっくりとわたしを導いてくれる。


――遠い忘れ物



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