あまり遠くへいかないのよ、という母の声を背に私はいつものように駆けだした。引っ越したばかりで一緒に遊ぶような友達はいなかったが、今まで住んでいたところとは全く違う雰囲気の町並みは歩くだけで楽しかった。
 その日も私は一人で町内をうろうろしていた。いつものように豆腐を作っているお店をのぞき、顔見知りになった店員さんにドーナツをもらう。
 まだ温かいドーナツを手に、お礼を言った私は豆腐店の隣に建っている真新しい鳥居に気づいた。昨日まで、こんなところに鳥居はなかったはずだ。店員さんに鳥居の事を聞いてみようと思ったが、お客さんと話していたので話を聞くことはできなかった。
 鳥居の奥を覗くと、木々の緑に差し込む光がきらめいている。私は光に誘われるようにして鳥居をくぐった。
 ちいちい、ぴぴぴ。と鳥がさえずっている。
 聞いたこともないようなきれいな鳥の声に嬉しくなった私は光にあふれる小道を歩く。しばらく歩くと小さな池のほとりに出た。池はまるで鏡のように静まりかえっている。
 ぼんやりと池を見ていた私は、首輪もリードもつけていないダックスフントを見つけた。飼い主らしき人はどこにもいない。
 チワワを飼っていたクラスの子は散歩の時、チワワに必ず首輪とリードをつけていた。迷子になったら困るから、と話していた事を思い出す。
 あのダックスフントは迷子なのかもしれない。そう思った私はダックスフントに近づくと声をかけてみた。
 「どうしたの? 迷子?」
 ダックスフントは私の顔をしげしげと見つめ、とても変な顔をする。
 「……は?」
 男性の声に驚いた私は周囲を見るが、誰もいない。驚いている私におかまいなしに声は聞こえてくる。どう考えても目の前のダックスフントが喋っているとしか思えない。
 「何を言っている」
 「なぜ俺が迷子などにならねばならん」
 「おまえこそ迷ったのではないか、娘」
 今思えば、当時の私は相当脳天気で、さらに天然だったのだろう。
 喋る「ダックスフント」に驚きはしたが、不思議には思わなかった……
 「ちがうよ。ちゃんと帰り道だってわかるし。それより、飼い主さんは?」
 「……飼い主だと?」
 「うん。散歩中なんでしょ?」
 「――娘。おまえは何か考え違いをしていないか? 俺は」
 「私、一緒に探してあげる!」
 「おい、話を聞け、娘! 何をする!」
 「名前は? 私は八重っていうの。あ、ドーナツ食べる?」
 「話を聞けと言っているだろう!」
 飼い主を探すべく、私はダックスフントを抱き上げて来た道を戻る。ダックスフントは暴れて尻尾をばしばしと叩きつけたが痛くなかった。
 話を聞け、と怒ってわめくダックスフントを抱いたまま鳥居をくぐると、外は真っ暗だった。ついさっきまで明るかったのに、と街灯の下で立ち尽くす私を見つけたのは私を探し回っていたらしい父だった。
 父はとても怖い顔をしており、私はその剣幕に何も言えなかった。ダックスフントが微かにため息をついたようだったが、父に怒られることが怖かった私はよく覚えていない。
 伸ばしかけた手を止めた父は、私が抱いているダックスフントをじっと見ている。
 「――娘の父親だな?」
 ぎょっとした父の事などお構いなしにダックスフントは父に語りかけた。
 「迷子だ散歩だ飼い主だと……おまえの娘は俺を犬か猫のように思っているようだな」
 不機嫌だと言わんばかりに尻尾をばたばたと動かすダックスフントの言葉に私は怖さを忘れてしまった。犬だとばかり思っていたのに、犬ではないと言う。それなら今抱いているダックスフントは何なんだろう。
 そんな私の疑問を見透かしたようにダックスフントはため息をついた。
 「俺は竜だ。重ねて言うが犬猫ではない」
 それからは大騒ぎだった。父から連絡を受けて駆けつけた母と父とで町内会長さんの元に連れて行かれ、「竜」を見た町内会長さんは驚いてどこかに電話する。
 私は町内会長さんに「決して竜を離してはいけない」と言い聞かされてふかふかした座布団に座らされた。
 お腹がすいたのでドーナツを食べようとして母に叱られ、竜はそんな私にため息をついていた。
 そのうちに和服姿の人々がやってきて、私と竜を見てああでもないこうでもないと話し始める。後で聞いた話だが、和服姿の人たちは陰陽寮の職員で「神」を勧請する特殊な業務に就いている人たちだったそうだ。
 いつのまにか竜は私の膝の上で大人たちを眺めていた。手を離しても逃げようとしない。
 「――八重と言ったか」
 「うん」
 「おまえは俺が怖ろしくないのか」
 不思議そうな竜の問いかけに私は考えたが、犬だと思っていたので怖いとは思わなかった。小さいし。そう答えると竜は真っ赤な目を細める。
 「そうか。おもしろい娘だな」
 竜は尻尾をゆるゆると動かすと大人たちを眺めていた。
 それが、この町に竜神を迎えるきっかけになった出来事だ。
 豆腐店の隣には鳥居と社と小さな池が造られ、小さな竜は小さな池に棲み着いた。
 普通の神社のように神官はいないが、町内の人たちが毎日交代で社の清掃をしている。竜もまんざらではないようで、小さな池でのんびり過ごしている。
 私は「竜を連れてきた娘」として一日一度は社に顔を出すよう言われており、竜は私とだけ言葉を交わす。
 当時の私がどうして竜をダックスフントだと思ったのかわからないし、豆腐店の隣に突如現れた鳥居や池も謎のままだ。昼だったのに鳥居から出たら夜になっていた事も不思議でたまらない。
 竜に聞いても、そんなこと知るかと一蹴されてしまう。
 不思議な事ばかりだが、竜の事は嫌いじゃない。
 豆腐店の店員さんは今もドーナツをごちそうしてくれる。
 悩みは、いまだに恋人ができないことぐらいだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 豆腐店のご主人が引退し、本格的に息子さんが店を継いだ。という話のついでに一口大の厚揚げと飛竜頭、それにドーナツを油紙に包んでもらった八重はいつものように鳥居をくぐる。
 厚揚げと飛竜頭は竜神さまに、とことづけられたものだ。
 池に続く道を歩いていた八重は、桜のつぼみがほころんでいることに気づく。南へ下れば五部咲きの桜がほとんどだが、この町は北に位置しているせいか、桜はまだまだつぼみだ。
 社の桜が咲いたら町の住人だけでささやかな花祭りが行われる。竜は姿を見せないが、なんだかんだといいつつも住人たちを満足げに眺めていることを八重は知っている。
 「ハルさまー」
 池のほとりで竜の名を呼んで待つことしばし。竜はいつの間にか目の前や肩の辺りに現れる。今日も八重の肩の辺りに竜――ハルはふわふわと漂っていた。
 「お供え持ってきましたよ?」
 昔は普通に話をしていたが、小さいけれど神様だからと両親にたしなめられてからは一応敬語を使うようにしている。当のハルは口調など気にしていないようだったが。
 ハル、という名は八重だけが呼ぶことを許されている。
 「おまえが用意した供物ではないだろう」
 「……豆腐屋さんから預かってきました」
 呆れたようなハルの言葉に投げやりに答えた八重は、池のほとりに腰を下ろした。ハルは当然のように八重の膝に降りる。
 竜と言っても、ダックスフントぐらいの長さしかないし角もない小さな竜なので威厳も何もない。それに軽い。
 しかし、光を反射するプラチナブロンドの細かな鱗と深紅の瞳はとても美しく、小さな身を神々しく見せていた。
 ドーナツを手にした八重が油紙を膝の上に置くと、ハルは器用に厚揚げと飛竜頭を食べ始める。
 池のほとりで竜と一緒におやつを食べる女。
 彼氏いない歴が年齢になるはずだ、と改めて自覚した八重は溜息をついてドーナツを食べた。
 「悪くないな」
 油揚げと飛竜頭を食べ終えたハルは満足げに尻尾を揺らす。豆腐店は池の湧水で豆腐を作っているのだが、湧水はハルの「お告げ」で湧いたものだ。ハルに「お供え」を欠かさないのは、湧水の使用料のような物らしい。
 「精進するよう伝えてくれ」
 豆腐店の主が代替わりしたことを知っているらしいハルは八重を見上げた。深紅の瞳が春の光を集めて輝く。
 「お店の人たち、きっと喜びますよ」
 ハルの頭を撫でた八重は、豆腐店の人たちが一番聞きたかったであろう言葉に口元をほころばせる。若主人には妹のようにかわいがってもらっているので、自分の事のように嬉しかった。
 「結婚するらしいな」
 「え?」
 唐突な言葉に八重はハルの頭を撫でる手を止める。にやりと笑ったハルは八重の膝から飛んだ。
 「豆腐店の息子だ。今朝方、結婚相手の娘と報告に来たが……知らなかったのか?」
 からかうように頭の周りを漂うハルをにらんだ八重は精一杯強がってみせる。
 「か、彼女さんがいることは知ってたし!」
 恋愛感情を持っているわけではないが、本人以外からそんな話を聞くのは結構寂しい。もっとも、ハルは小さくてもれっきとした「竜神さま」で、豆腐店一家にとっては八重なんかよりずっと大切な存在だ。人生の節目を真っ先に報告するのも当然だということは理解できる。
 寂しいけどしかたがない、と思う八重にハルが追い打ちをかける。
 「相手はたおやかな娘だったな。おまえとは大違いだ」
 「……悪かったですねえ、がさつで」
 「そんなだから男の一人もできないのだろう」
 にやにや、という表現がふさわしいハルの口調に八重は手元の若草をむしり始めた。恋の話などしたこともないのに、なぜかハルは八重が振られた事を知っている。その上、立ち直ったころに古傷をえぐってくる。
 八重は悔し紛れにある言葉を呟いた。
 「――そうだね。ダックスフントみたいなのもいるしね!」
 「誰が犬だ!」
 頭の周りを漂っていたハルは八重の目の前で静止すると威嚇するように大きく口を開ける。ハルはダックスフント呼ばわりされる事を嫌っている。勝ち目のない口論になると、ハルをダックスフント呼ばわりして話をうやむやにするのは八重のせめてもの抵抗だ。
 いつもなら少しばかりいい気分になるのだが、今日はそんな気分になれず八重は溜息をつく。八重の様子に気づいたのか、ハルも口を閉じた。
 「まあねー……がさつだし、女らしくないしね……」
 深々と溜息をつく八重の肩に乗ったハルは八重の頬に頭をこすりつける。いつもと違うハルの行為に何となく救われた気になった八重はハルの胴をぽんぽんと叩いた。
 「嫁のもらい手がないのなら、俺がなんとでもしてやる」
 思わぬ言葉に驚いた八重はハルを見たが、ふざけているようには思えない。珍しいことだが、ハルはハルなりに慰めてくれているのだろう。
 小さな竜の気遣いが嬉しくて、八重はわざと明るい口調を作った。
 「……竜神さまに嫁入り先を探してもらうっていうのもなんだかね。もしかしてハルさま、縁結びの神さま?」
 「違う」
 むっとしたように言葉を返してきたハルは、八重の肩から離れたかと思うと姿を消した。話は終わり、ということだろう。
 八重も立ち上がると草をはらって池を後にする。
 鳥居をくぐる前に、ハルの声が聞こえた。
 ――花見に行くのなら、身辺に気をつけるように。
 「はーい」
 何かを見透かしたようなハルの言葉に軽く返事をした八重は、ハルからの伝言を豆腐店に伝えて家路につく。
 明日は大学の入学式だ。ハルに入学式の事を報告しようと思っていたのだがすっかり忘れていた。
 大学生になるんだから、少しは女らしくして彼氏を作らなきゃ、と八重は思った。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 入学式を終えると桜が一斉に花開いた。大学の近くには川が流れており、桜並木が続いているせいか花見客が昼夜問わず押しかける。夜、川に近づくなど自殺行為に等しいが、桜の季節は陰陽師が花見スポットを警護しているため安心して花見を楽しむことができる。ただし、日付が変わるまでと言う条件だ。
 河川敷ではいくつものグループがひしめき合い、大騒ぎしている。
 八重は高校からの友人に誘われて、寺社研究同好会というサークルの歓迎会に参加していた。強引に飲酒を勧められたりしたら嫌だなと思っていたが、初めて顔を合わせた先輩たちはどちらかと言えば地味な感じの人達だった。
 宴会が始まれば寺社仏閣や陰陽寮の話題で盛り上がり、飲酒を勧められることもない。周りを見てみると女子学生にべったりくっついている男子学生や、ブルーシートに寝そべっている人もいる。あんなグループじゃなくて良かったと八重は心底ほっとした。
 友人は陰陽師になりたかったと言うだけあって、神社仏閣や陰陽寮の事をよく知っている。先輩たちも「研究」しているからか話題は尽きない。しかし八重は観光客よりも知識がない。金閣寺や祗園社ぐらいなら知っているがそのほかはさっぱりだ。
 話題に加わることはできないが、おもしろい話なので八重は聞き役に徹していた。
 サンドウィッチを食べながら話を聞いていた八重は、今住んでいる町が話題に上っていることに気づく。近年、竜神を勧請した地域があるらしいという言葉を聞いた時は体温が何度か上がったような気がした。
 ハルの事は誰にも話していない。両親と町内会長に禁じられているからだ。それだけなら誰かにこっそり話したかもしれないが、いまだに口外していないのには訳がある。
 小学生の頃「竜神を捕まえた」事をクラスで話したいとハルに訴えたとたん、豪雨に襲われた。しかも鳥居から見える道路は晴れている。
 怖ろしくなった八重はいつの間にか姿を消したハルにごめんなさいと何度も謝り、ハルの事は誰にも言わないと誓った。雷雨はすぐに止んだが、ずぶぬれで帰宅した八重は事の次第を両親に問いつめられてこっぴどく叱られた。
 ハルが「怒った」のはあのときだけだ。
 話を振られませんように、と内心祈っていた八重は友人の一言に嫌な汗がにじむのを感じた。
 「八重ちゃんち、あの辺でしょ?」
 ほら、あの商店街の、豆腐とおからドーナツがおいしいお店の隣に鳥居があるよね。と具体的な場所まであげられてしまっては知らないともいえない。急に飲み込みづらくなったサンドウィッチをジュースで飲み下すと口ごもりながら答える。
 「うん……まあね」
 「どんな竜神が祀られてるかとか、勧請された経緯とか伝わってない? 神主さんいないし、商店街の人に聞いても詳しい事はわからないらしくて」
 友人も先輩たちも、興味津々と言った様子で八重を見ている。
 竜神はダックスフントぐらいの大きさで、飛竜頭と厚揚げが好物です。小学生の頃私が捕まえてきました。なんて口が裂けても言えない。
 愛想笑いを浮かべた八重は嘘をつくことにした。
 「私、小学生の頃引っ越してきたからそのあたりの事はよくわからないんだよね」
 「そうなの?」
 「うん」
 八重の言葉に友人と先輩は明らかに落胆の表情を浮かべている。これ以上追求されたらどうしようと思っていたが、何かわかったら教えてほしいと言われて話は終わった。
 それからは「神の勧請」について延々と議論が交わされた。
 神を勧請するのはとても難しく、頼んだから来てくれるというものではないと言う。無理に招けば災いが訪れることもあるそうだ。
 興味深く話に耳を傾けていた八重はジュースを注ごうとして、飲み物がなくなっていることに気がついた。
 「私、飲み物買ってきましょうか?」
 議論に花を咲かせていた先輩や友人は、八重が声をかけて初めて飲み物がなくなっている事に気づいたようだった。
 コンビニエンスストアの場所を教えてもらい、お金を預かる。
 友人は一緒に行くと言ってくれたが、話が盛り上がっていたので八重は一人で買い出しに行くことにした。遠いわけではないし、街灯だってついている。
 にぎやかな河川敷を後にして八重はコンビニエンスストアに向かった。
 花見をしているグループが多いためか、白い袋を下げた数名の人とすれ違う。
 頼まれた飲み物と、自分用にアイスを購入して河川敷に戻っていた八重は背後から肩を叩かれた。驚いて振り返ると明らかに酔っている男性が三人いる。
 いやな予感がした。
 「おねーさん、ひとり?」
 へらへらした笑みが八重に向けられる。先ほどまでは人通りがあったのに今は誰もいない。八重は内心、タイミングの悪さを恨んだ。
 恨んでも酔っぱらい達は消えないので、八重は男達を無視して歩き出す。しかし、目の前に男の一人が回り込んだ。
 「ひとり、って聞いてんだけど?」
 ふざけた笑い声が背後から聞こえる。顔をのぞき込む男を避けて歩く八重の手首を背後にいる男が掴んだ。ふりほどこうと身をよじったが男の力は強く、手をふりほどけない。
 「聞こえてんだろ?」
 肩も押さえられ、身動きができなくなった八重に薄ら笑いを浮かべた男が顔を近づけた。酒のにおいが鼻につく。
 目の前に迫る男から顔を背けようとした時、男が表情をがらりと変えた。
 「おい! 聞いてんのかよ!」
 声を荒げる男は先ほどとうって変わって凶暴な表情を浮かべている。恐怖を覚え、立ちすくむ八重の背後では手首と肩をつかんでいる二人の男が笑ったり、遊ぼうよと言っている。
 助けを求めるように河川敷の方角を見つめるが誰かが歩いてくる気配はない。恐怖のあまり、固く目を閉じた八重にからかうような声が聞こえた。
 「そんな怒鳴るなよ。おねーちゃん怖がってるだろー」
 「おねえさんも素直に答えればいいのにさあ」
 げらげら笑う男たちの声を聞きながら、八重は数日前の言葉を思い出した。
 ――花見に行くのなら、身辺に気をつけるように。
 ハルが言っていたのはこの事かと気づいたがもう遅い。大声を上げて助けを求めようと思ったとき、手首と肩をつかんでいた手が急に離れた。
 無理矢理引きはがされたような感覚に目を開くと、目の前に立っていたはずの男は道路にへたり込み、男の背後には男性が立っていた。
 へたり込んでいた男がぎゃっ、と短く叫ぶとつんのめる。どうやら背後に立つ男に背中を蹴られたかどうかしたらしい。
 「――去れ」
 低く威嚇するような声に背後から二つの悲鳴が聞こえ、遠ざかっていく。目の前の男は顔を上げずにふるえていた。まるで、八重に土下座をしているような格好だ。
 もう一度短い悲鳴が聞こえた。今度は男の尻を蹴り上げる黒いブーツがよく見えた。
 「身の程を知れ、痴れ者が」
 去れ、と言う言葉にはいつくばっていた男が八重の隣を這うようにして通り過ぎ、立ち上がると甲高い悲鳴とともに逃げ去っていった。
 何があったのかわからない八重は目の前に立っている男を見上げる。
 背が高く、黒い服を身につけた男は白茶けた髪を後ろに撫でつけている。そのせいで顔がよく見えた。
 明るい茶色の目がとても印象的な、美形だった。
 「あ、あの」
 人の姿は見えなかったはずなのに、という疑問が八重の頭をよぎったがよぎるだけで終わる。八重は黙って自分を見つめる男を前に間抜けな行動に出た。
 「アイス、食べませんか!」
 形の良い眉をひそめる男に構わず、八重は袋の中から自分用に購入したアイスを男に差し出した。男は妙な顔をしていたが、溜息をつくと八重の手からアイスを取り上げて袋を破る。
 「全く……」
 溜息混じりに呟いた男の声は半分以上聞き取れない。アイスをかじる男を見ていた八重は、遠くから名前を呼ばれている事に気がついた。
 友人の声だ。
 声の方に目を向け、手を振ると友人は八重に駆け寄る。
 「遅いから様子見に来たんだけど、大丈夫?」
 「うん、酔っぱらいに絡まれたけど、助けてもらった……」
 この人、と言いながら視線を動かした八重はアイスをかじっていたはずの男が忽然と姿を消している事に気づく。驚いて周囲を探す八重を不思議そうな顔で見ていた友人はぽつりと呟いた。
 「この人って、何? 八重ずっと一人だったじゃない」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 歓迎会の夜、八重を助けてくれた男の正体はわからないままだ。友人や先輩はあやかしだと話のネタにしてしまうし、ハルに話せば「俺は忠告した」と百ほど嫌みを言われそうな気がして話す気にはなれなかった。
 その上、寝てもさめてもあのきれいな顔がちらついてしかたがない。
 相手は人ともあやかしともしれない相手なのに、と悩んでいるうちに社の桜が満開になった。
 商店街は普段よりも遅くまで店を開き、町の住人達は社の桜を眺め、姿を見せない竜神に挨拶をしてから井戸端会議に興じたり、商店街で遅めの買い物を楽しむ。
 八重が大学から戻ると、両親はすでに花祭りに出かけていた。ハルへの挨拶ついでに商店街で何か食べようと、八重も荷物をおいて家を出る。
 いつもならシャッターが閉まっているはずの商店街はにぎやかで明るい。
 一通り店を見て、たこ焼きとカットパインを食べようと心に決めた八重は鳥居をくぐった。足元に置かれた灯篭が淡い光で周囲を照らしている。
 立ち止まって若い桜を眺める人もいれば、小さな池のほとりに建てられた社に挨拶をしている人もいる。ハルはどこかでこの様子を眺めているはず、と周囲を見渡した八重の目に白茶けた色が目に入った。
 思わず視線を止めると、歓迎会の夜に八重を助けてくれた男が着流し姿で池のほとりを歩いている。
 思わず、八重は男を追った。人ではないかもしれないというのに、怖いとは思わなかった。
 「あのっ!」
 手を伸ばせば背に触れるほどの距離まで近づいた八重は男に声をかける。しかし聞こえていないのか、男は振り返りもしなければ歩みを止めることもない。
 「あの、すみません!」
 もう一度声をかけるが男は振り返らない。肩を叩こうと手を伸ばした八重は周囲から人影が消えている事に気がついた。商店街のざわめきどころか、物音一つしない。
 静まりかえる中、足元を照らす灯篭が揺らめく。
 得体の知れない恐ろしさに足を止めた八重に、ようやく男が振り返った。
 明るい茶色だったはずの瞳は赤く染まり、八重を射抜くように見つめる。
 何も言えずにいる八重に、男は溜息をついた。
 「全く、おまえは」
 男の髪はいつの間にかプラチナブロンドに変色していた。長さも変わり、足首まであろうかという髪が美しく揺れる。
 「危機感がないのか? なぜこうもあっさりとこちらにやってくる」
 あのときもそうだ、土地の選定をしていたらおまえがやってきた。生まれつき何かが欠落しているのではないか。
 男はたたみかけるように言うと、今度は深々と溜息をついた。
 「その上、俺が誰だかわかっていないときた。何かが欠落している上に天然か。救いようのない娘だ」
 上から目線で一方的に言い放った男は八重に顔を近づける。美しい顔立ちに目を奪われた八重は呆然と男を見つめることしかできない。
 「八重」
 名乗ってもいないのに名を呼ばれ、八重は驚きでびくりと肩をすくめた。次の瞬間、男の指で額をはじかれた八重は反射的にはじかれた額を押さえる。思いもしない行動に八重の声は自然と大きくなった。
 「なっ……何するんですか!」
 「まだ俺がわからないのか?」
 十秒待ってやる、答えろと言われた八重は訳がわからないなりに男の今までの言動を思い出す。なんだか聞き覚えのある声と口調だとは思ったが、あまりにも姿が違いすぎる。
 それでも八重はおそるおそる聞いた。
 「ハルさま……?」
 「断言できないとは、薄情な」
 せせら笑った男は八重の頬を軽くつまむと姿を消した。驚く八重の目の前にハルがふわふわと現れる。
 「ハルさま! え? 本当にハルさま?」
 うろたえる八重をあきれたように眺めていたハルは溜息をついた。
 小学生の頃からダックスフントみたいなハルしか知らない八重は、ここに至って初めてパニックに陥った。意味もなくきょろきょろしたり、歩いたり戻ってきたりを繰り返した八重は、意を決して浮いたままのハルに近づく。
 「人の姿になれるなんて聞いてない……」
 溜息混じりにぼやいた八重をハルが尻尾で叩いた。
 「聞いたところでおまえのことだ、忘れるだろう」
 「……ちょっと美化しすぎじゃない?」
 「さらっと失礼な事を言うな」
 「ハルさまこそ」
 脱力して座り込んだ八重の膝にハルがいつものように乗る。ハルが膝に乗るのはいつものことだが、小さな竜が人の姿になるとああなると知ってしまうと居心地が悪い。
 何も言えず、灯篭の光を映す水面を眺めているとハルがあきれたような口調で呟いた。
 「ぼんやりしているから、あんな下郎につきまとわれるのだ。守ってくれる男を早く探せ」
 胸の奥がちくりと痛んだような気がして、八重は静かに笑う。笑えば泣きたい気分が消えるかもしれないと思ったが、何も変わらない。どうして泣きたいんだろう、とハルの背を見つめていると小さな溜息が聞こえた。
 「……それまでは俺が守ってやろう」
 ハルは姿を消し、言葉だけが八重に残される。
 「ハルさま……?」
 立ち上がり、ハルを探そうとした八重は人影とざわめきが戻ってきた事に気づく。桜を見る人、社に挨拶をする人。親に手を引かれた小さな子供の笑い声。商店街で流している有線の音楽が遠くで聞こえる。
 先ほどまでの沈んだ気分が嘘のように八重は笑った。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 「ハルさまー」
 小さな池のほとりで八重ががさがさと白い袋を振っている。
 「アイス食べましょうよー」
 暑くなったせいか、八重は氷菓を持参するようになった。週に一度あるかないかだが、八重が供物を持参するなど今までになかったことだ。
 呼びかけに答えて姿を現したハルは、くるりと一回転して人の姿で八重の隣に立つ。氷菓は人の姿で食べた方が美味しいし、八重の笑みを見るのも悪くない。
 ただ、人の姿に変化したところを八重以外の人間に見られるのは嫌なので、鳥居を封じて誰も立ち入れないようにしている。
 「今日はちょっと変わったアイスですよ」
 草の上に座った八重は袋から取り出した氷菓の包装を破る。
 氷菓を取り出した八重は、二本の棒が刺さった氷菓をハルに見せつけるように近づけるが、棒が二本刺さっているぐらいで「変わっている」とは言わない気がする。
 得意げに笑う八重の隣に座ったハルはしかたなく呟いた。
 「……棒が二本刺さっているな」
 「そうなんです。これ、半分にできるんですよ、こうやって……」
 棒を両手で持った八重は氷菓を左右に折る。しかし、力の入れ方が偏っていたらしく、氷菓はいびつな形に折れてしまった。八重が何をしようとしているのか理解できず、ハルは溜息をつく。
 花祭りの夜以降、八重は「人ではない者」のことや「竜」の事を聞いてくるようになった。理由を聞くと「知りたいから」だという。
 学校でも寺社仏閣の見学に行っているらしく、どこそこでこんな話を聞いた、と楽しげに報告してくる。
 そんなことも知らないのかと呆れることがほとんどだが、八重はいつも楽しそうだ。
 「……友達と食べた時はうまく折れたんですけど」
 困ったように呟いた八重は小さな氷菓をハルに差し出す。供物を分けて食べようとする行為はともかくとして、大きな方を食べようとするところが八重らしい。
 呆れたハルは八重が手にしている大きな氷菓を奪い取った。
 「ちょっと、ハルさま?」
 私が買ってきたんですよと訴える八重をにらみ、ハルは氷菓をかじる。
 「この氷菓は俺への供物だろう。特別に分け与えてやっているのだから少しは遠慮しろ」
 「……横暴ですねえ、ほんと」
 軽く溜息をついた八重は、それでも笑いながら小さな氷菓を口にした。
 そんな八重の隣で氷菓を食べ終えたハルは棒をくわえたまま池を眺めていたが、八重が浮かない表情を浮かべている事に気づく。
 「そんなに氷菓が食べたかったのか」
 「違う……」
 くわえていた棒を手にしたハルは、思ったよりも沈んだ八重の返事に驚いた。先ほどまでは笑っていたのにこの変わりようはどうしたことか。
 また「失恋」でもしたのかと思ったが、八重が誰かを好きになればすぐにわかる。このごろはそんな気配はみじんもなかったはず、と思い返していると八重が深い溜息をついた。
 「なんか、いつまでこうしていられるのかな、って思っただけ」
 ――いつまで。
 思わぬ言葉を反芻するハルに、気にしないでと八重が笑う。
 「ほら、私ずっとハルさまのところに通ってるから……日課みたいになっちゃって。だから急に……」
 「案ずるな」
 ハルは八重の言葉をさえぎる。
 八重がきっかけでこの土地に居着くことになったハルだが、八重を通わせろと要求した覚えはない。八重は人間たちの思惑でこの場所に通っている。
 手入れされた緑と湧水の池。八重という娘。人間たちがハルに提供したのは、小さいがそれらが揃う場所だった。今更、八重を拒む理由などない。
 幼い八重は成長した。居着いた土地から離れない竜と違い、人間はどこへでも行くことができる。いつかは八重もこの土地から離れるのかもしれない。だからハルは冗談混じりに呟いた。
 「好きなだけ通え。婚期を逃さない程度にな」
 愁いに満ちていた八重の表情がふわりと柔らかくなる。
 「――嫁のもらい手がなかったら、ハルさまが何とかしてくれるんでしょ?」
 今まで見たことのないまなざしを向ける八重に、鱗が逆撫でされるような感覚を覚えたハルは指先に感覚を逃がした。
 氷菓の棒が青白い炎に包まれ、一瞬のうちに燃え尽きる。
 「ああ、何とでもしてやろう」
 八重がこの先、どうするのかはわからない。それでも、八重が通う限りは自分が守ってやるのだとハルは決めていた。
 いつまで、俺の隣にいるつもりだ。
 そんな言葉は口にせず、ハルは水面を眺める。
 八重がいない池のほとりは、今と同じように美しいだろうかと思いながら。





――小さな竜の小さな楽園



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