誰もいないキッチン







彼がいないその場所は酷く閑散としていた。いつもここで背中だけを向けて、何処か楽しそうに、そして、真剣に食材に向き合う彼の姿を見るのが私は、好きだった。










私達がゾウに着いた頃には彼はもう、居なかった。それをナミから聞いたのはつい先日のことだ。彼は大切な人や仲間を、私たちを護るために一人、戦いを始めてしまっていた。彼も私達も元より大人しくしていられるようなタイプではない。ルフィの決断により二つのチームに分かれて今後行動をすることになった。はじめ私はローくんに"ワノ国"側に来い、と言われていたのだが、丁寧に断った。……どうしても、私は彼の元へ行きたいと思った。それがどれだけ危険な事なのか勿論私だって分かっている。私に何が出来るのかすらもわからない、だからローくんは私の代わりに私を止めてくれたんだと思う。それが彼の気遣いであることは理解していた。でも、それでも、彼に会わなくてはいけない、そんな気がした。だからサニーに乗り込んだ。これはただの直感と個人的な気持ちの問題で、だって、私は、彼に会いたいのだから。











そう、決意はしたが、やはり落ち着かない気持ちのまま導かれるように扉を開ける。ガランとしたその空間に胸が苦しくて、張り裂けそうな気さえもした。木を素材とした暖かい印象を与えるそのカウンターの木目をなぞるように触れたけれど、指先が冷たく感じた。誰もいないキッチンでは心地よい野菜を刻む音も、肉を焼く蕩けるような音も聞こえない。几帳面に片付けられた料理器具とお皿の中に一つだけ、残された"跡"を拾い上げてそっと左右に振る。カタカタと聞こえた音に彼が居た証を感じた。そう、ほんの少し前まで彼はここに居たはずなのだ。







「……さんじ、くん」







彼は、どんな想いでここを去ったのだろうか。ズキズキと苦しくなるくらいに胸が痛い。呼吸が、くるしい。彼が優しい人だと私は知っていた。ここに来るまでに、彼からたくさんの柔らかくてあたたかい、真っ直ぐな"愛"を与えてもらった。いつも私を褒めてくれて、肯定してくれる彼の言葉に私がどれだけ救われていたか、きっと彼は知らない。私も彼自身に面と向かってそのことについての感謝を述べたことはなかった。何故、伝えなかったのだろうか、と、それを今更ながら後悔しているのが酷く滑稽に思えた。遅すぎる、もし、私がそれを伝えていたら何か、変わったのだろうか。









…………きっと、彼ならそれでも一人で背負いこんでしまうんだろうな、そう、思い直した。彼のことを分かっていた、分かっていた、つもりだった。いつも私達のことを考えて食卓にたくさんの料理を並べるその顔が、笑顔が、頭から離れない。私が眠れない時に遅くまで光のついたこの場所を訪れた時、嫌な顔一つせずに受け入れてくれる彼の溢れる優しさに私は甘えていた自覚がある。









「眠れないのかい?」









そう問いかける柔らかな声に頷けば整った彼の目は細められて、形良く緩んだ口元がそういう日もあるよな、と甘く肯定するのだ。彼の綺麗な金髪が気遣って控えめに灯された橙色の電球に映えて輝いていた。それに見惚れている間に彼はスマートな動作で湯気がたったマグカップを私の前に置くと、気をつけて飲んでね、と笑う。見上げた横顔が綺麗だと思った。




ん?と不思議そうに首を傾げられたのが妙に恥ずかしくて包み込むようにマグを手に持ち、軽く息を吹きかけてからそっと口に含めば口内に広がる甘さが体の芯まで融解して、心の奥底から全てを溶かしてしまいそうで思わず深く息を吐き出した。




それを見た彼は口元に手を当てながら面白そうに笑って、気に入った?と私に尋ねたので私はただひたすら首を縦に振る、そんなやりとりがもう既に懐かしく感じる。私は彼のどんな人にも優しくて人情のあるところを強く尊敬していた。所謂、困っている人を放っておけないタイプの彼が女の子以外への優しさを断固として認めないところも私は嫌いではないし、それでこそ彼だという気がしていた。口ではそう言いつつも彼が人を見捨てる事なんて、私が見てきた限り殆ど無かった。食べたい人にはご飯を与えるというポリシーのもとに生きる彼を私は密かに敬愛していた。そんな彼は今、いない。







「サンジくん、」







もう一度呼んだ、嫌に反響した声は誰にも届かない。私は思い立ったように鍋を手に取り蛇口を捻ってから火にかけ始める。彼を辿るように一つ一つ工程をこなして、彼が洗ったピカピカの皿を一瞬だけ躊躇してから掴み取った。






この船に来てから料理をするのは本当に久しぶりで、彼の偉大さを改めて感じる。あんなに手際よく出来るようになるまでどれくらいの努力をしたのか、私には想像がつかない。そこまで考えてつい唇を軽く噛んだ。なんだ、わたしは彼に関して知らないことばかりじゃないか。重い鉄の道具を自在に操る彼が魔法使いのようだった、それぐらいしか知らない私は、まるで、誰かに向けて出したようにランチョンマットを敷き、フォークとスプーン、ナプキンを添え、出来上がったパスタをテーブルへと静かに下ろした。







いつも椅子を軽く引いて彼は私達を紳士的にエスコートをするんだ







一人で引きずった椅子が床に擦れて不快な音を滲ませた。向き合ったカルボナーラをほんの少し硬い動作で巻き取って口の中へと放り込む。








「……しょっぱい、」








塩を入れすぎたかなぁ、と呟いた声がほんの少し震えた。自分の頬を伝ったものを、見ないフリをした。奥の席に目を向ければ、毎日全員分のご飯を用意しては満足そうに顔を綻ばせる彼が、そこに座っていた気がした。





ゆっくりと目を閉じて、たった今までその光景が広がっていたかのように、皆で囲んだ食卓を瞼に映し出す。ナミやロビンと美味しいと口々に言い合ったり、ウソップやブルックがお代わりをする内にルフィが隣の人の肉を奪ったり、置かれたコーラ瓶に喜ぶフランキーも、その隣で彼専用に作られた綿あめを頬張るチョッパーも、酒を持ってこいと文句を言うゾロにも、その一つ一つを零すことなく拾い上げて、返事をして、屈託無く笑う彼が、ほんの、すぐ傍に居た。








喉を動かして飲み込んだと同時に顔を上げた。西日が差し込むその席には彼は座っていない、分かっていた事だった。もう振り返るのはやめた。







「ごちそうさまでした」







手を合わせてしっかりと挨拶をする。きっとこれがこの部屋へのせめてもの礼儀だ。彼にどんな事情があるのかはわからない。私は実際に彼が去る場面を見ていないし、その時の彼の様子はナミ達に聞いた情報しかない。それでも、頭も切れる彼がこんな選択をするということは、そうせざるを得ないものがきっとそこ存在する。ルフィがどうするのかまだ分からないけれど、少なくとも私はいつも確かに支えてくれていた彼の手を引きたい、彼の人柄や考え方には新しい世界の見方や視点を教えて貰った。何度も助けられたし、何度も彼の暖かさに心を休ませた。







今度はきっと私の番だ。彼が幸せな結果になれるように、彼が笑えるように、何か力になりたい。






難しく考え込むのはもうやめた。行こう、声に出して、彼と話さなければならない。何を言うのかは何もまとまっていないけれど、兎に角彼に会わないといけない、そう思った。思い立ったその直後、私は立ち上がりお皿をシンクへ置いて洗い始めた。落ちていく汚れのように、彼の辛さを少しでも洗い流したい、そう思った。








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