13



「良いから耳を塞げ」
「だからどうしてですか…って、あー…」

校長室前のガーゴイル像を目前に彼等が互いに一歩も引かない押し問答を始めてから早くも10分近くが経っている。
様々な色のネクタイを身に付けた生徒達の色眼鏡にこれ以上晒されるのは御免だと、とうとう痺れを切らしたスネイプがなまえの両耳を掌でぐいと押さえ付けながらこれでもかと低い声で、しかも早口で合言葉を呟いた。
ずずずと引き摺り音をたてながら恭しくガーゴイル像が回転して階段が姿を現す。
以前この階段を上がった時は、ハグリッドに抱えられていたなぁとなまえが溜息を吐き出した。あれからまだ幾らも時間が経っていないのだ、彼女はまだこの世界の右も左も分からないままだった。

「結局、如何して耳を塞いだんですか…
いや、そんなに睨まなくても。仰りたくないなら良いですよ…もう」
「…さっさと上り給え」
「え?教授もいらっしゃるんで?」
「誠に、不本意ながらあのポート・キーは我輩の隣の部屋に繋がっているのでね」

殊更“不本意”を強調してスネイプが言った。




「おお、よう来てくれたのうなまえ。
セブルス、御苦労じゃった」
「驚きましたよ、校長先生!
あれは一体どういう意図で私の部屋に?
いえあの、私としては嬉しいんですけど…」

ダンブルドアが差し出した皺くちゃの右手を握り返しながらなまえが言った言葉に、好々爺はアイスブルーの瞳をきらりと光らせた。
が、直ぐに沢山の笑い皺を作ってなまえの後ろで不機嫌そうに_いつも通り、ではあるが_控えている育ち過ぎた蝙蝠男に悪戯な視線を向ける。

「おや、おや!随分と懐かれておるのうセブルス?
そう言えば、なまえはスリザリンに入ったのじゃったなぁ!良かったのう」
「茶化すのは程々にしていただきたいですな。世間話をしに来たわけでは無いのでね…
我輩の自室へ隣接している部屋と彼女の部屋を繋ぐとは、何か理由があるのでしょうな?」

勧められた椅子には座らずにスネイプは、校長室の中で一人腰掛けたなまえの後ろで腕を組んでダンブルドアを見据える。
それに頷きながら策士の老人は止まり木で羽を休めている不死鳥を指で愛でていた。振り返らずにダンブルドアが話し出す。


「勿論じゃ、理由はあるとも…なまえ、きみにはやってもらわねばならんことがあってのう」
「…私が、やらなければいけないこと?」
「如何にも。これはきみの…そうさな、遺言でもある」
「遺言…前回の私は、なんて?」

その先を聞きたくないとでも言うように、スネイプの掌がやおらなまえの左肩を掴んだ。

「遺言、などと…我輩は聞いておりませんぞ校長」
「恐らく、きみは反対するだろうと思うたよセブルス。
全て聞き届けてから、それでも彼女の遺言を反故にするつもりならばそうするが良い」

未だ穏やかな面持ちで嫌な言い方を選んだダンブルドアを、さも忌々しそうにスネイプが臍を噛む。

「なまえ、なにが原因かは分からぬが、きみは何者かに呪いを受け、不死身の体を持っておる」
「ええ…ええ、そうですね」
「そこで、じゃなまえ。
ハリーのことは知っておるな?親し気に話しておるのを見かけたが」
「校長!まさかなまえに…」

「そうじゃセブルス。なまえにはハリーを守ってもらう」

「ま、守る…?
守るって、一体…何から?」
「承服し兼ねます校長。
幾らこの娘が_不死身、だったとしても_今は歴とした我が校の生徒であることに変わりは無いのですぞ!況してポッターを守る義理も恩もないのだ、何より危険過ぎます」
「…遺言、と言ったはずじゃセブルス…これは儂の一存ではない。
彼女にはハリーを守るに足る意志があり、尚且つ不死身の身体を持っている。不死身である以上死ぬこともなかろう」

_確かに。万が一傷付いたところでこの身が痛むわけでもないし、ハリーが何か危険に晒されているのなら傍にいる機会の多い私が守るというのは理にかなっている_
誰に言うでもなく華奢な指を唇に押し当てて独りごちるなまえをスネイプが苛々と睨んだ。

「死ぬとか死なないとか、痛みがあるとか無いとか云う問題ではない!
校長、あなたはこの娘を捨て駒か何かとお思いなのですか_この娘が…」
「きみの言わんとしていることは分かっておるよ、セブルス…
しかしそんなことにはならん、儂の目が開いているうちはのう。
なまえを見守るのは儂の役目でもある」

目の前で白と黒が口論しているその剣幕に些かなまえはたじろいでいた。ハリーが何者かに狙われているなんていう事実も知らなかったし、その不届き者が誰かという質問も先程スネイプに遮られてしまって教えてもらえず仕舞いだったし_
何よりも態々目の前で手を切ってまでしてこの身体の異常性を見せたのに、それなのに何故スネイプはこんなに反対するのかが疑問だった。
それほどまでに、ハリーを守るということは危険な仕事なのか…と、なまえの本能的直感が勘の鋭いビーグル犬のようにその先を探っていく。その鼻でもっても彼女は、死を迎えることのない自分にとっての危険が一体何なのか、さっぱり予想がつかなかった。


「…あの…私」

耐え兼ねたなまえが小さな声で切り出すと、二人の男はピタリと口論を止めてどちらからともなく彼女を見つめる。
どうやら正反対の期待を胸に秘めているであろう白と黒の二人の男に、彼女は自信無さ気な笑顔を見せた。

「なんて言うか、その…私、ハリーを守る必要があるような…気がします」
「…理由を聞いても良いじゃろうな?なまえ」
「あ、いえ…その、明確な理由というのは無いんですが。
何と無く、前回の私は何か譲れない理由があってそのような遺言を遺したような気がして。
それに私、人様のために自分を無条件に犠牲に出来るような聖人ではありませんから…何か恩とか、義理とか、ハリーを守ることで私が得られる利益とかそういうものがあるような気がするんです」
「賢い子じゃのう…なまえ。実に賢い子じゃ」


_異存は?
と、なまえの前に屈み込んでいたダンブルドアが大きな蝙蝠を仰ぎ見る。
予想通り、彼はこれまでに無いほど不愉快そうに口を真一文字に引き結んでいた。
なまえ本人がそれを望むようなことを口にした瞬間に、自分が異議を唱えたところでなんの意味もないことくらいスネイプは分かっていた。そして、そのことを察した上でダンブルドアが自分に意見を聞いたことも。それが堪らなく不愉快だった。

「…本人がやりたいと言うならば、仕方が無いでしょうな…」
「あの、教授。
御心配してくださるのはとっても嬉しいんです、でも私、死んだりしませんから…ね?」
「…そういう問題ではないと先程申し上げたはずだが」

_最初から決定事項だったのだ、この老人の中では。

そう考えながらスネイプが苦々しい顔で見下ろすと、なまえは眉根を下げてふわふわと微笑んでいた。

そう、決定事項だったのだ。
なまえに話を切り出す前に御丁寧にポート・キーなど作り出して、剰え彼女の自室と地下室を繋げていたということはそういうことなのだろう。
そもそも遺言とは言ってもなんの裏付けもなしにこの策士がポッターの保護などやらせるはずがないのだ_万に一つでも疑わしき者に、あの少年を預けるはずがないのだ。
恐らくはなまえから動機を聞かされているに違いないのに、それをこの策士は言わないのだ、確実に意図的に、何かを隠している。
傷付かず死にもしない彼女はさぞ都合の良い手駒に見えることだろう、例えそれがなまえの意志であったとしても、こんなことがまかり通るなんて_

そう考え至ったところでスネイプは固く閉ざしていた唇を薄く開いた。自分と同じく危険な橋をまさに渡らされようとしている彼女のために、最後の抵抗をするつもりだった。

「死なないという認識を持ったままこの娘を使徒するおつもりか。
他の者にとっては死地に成り得る場所に送るおつもりですか」
「この子に限っては死地など存在しないのじゃよセブルス。
しかし、先程からきみが言うておる“駒”という言葉には反論せねばならん_
きみが出会うよりずっと前から、儂はこの子を知っておるのじゃよ。
…ハリーと同じようにこの子もかけがえの無い存在であることは明言しておこうかの」
「要領を得ない御言葉ですな。
つまり、何が仰りたいのですか」
「これは彼女の遺言であると…儂はそう言うたな。
然るに、どれだけ踏み込むかはなまえ本人に決めさせよ。必要以上に遠ざけることも、近付けることもしてはならん。
…ハリーのためにどれほどの危険を犯すかは、なまえの意思に任せるのじゃ。
それで良いかな?なまえ」


慈愛に満ちた表情の、老齢の魔法使いが固唾を飲んで話に聞き入っていたなまえをアイスブルーの冷えた瞳で見遣った。
冷たくも暖かくもなる空色の虹彩を見つめながらなまえはこう思う_ああ、この人より暖かな人も、冷ややかな人もきっと存在しないだろう。“駒”という言葉だって強ち外れていないはずだ。確かに私はかけがえの無い存在なのだろうがその意味は多分、手持ちのカードに対するそれに近いのだ_

ハリーを守る身代わりのカード、それが自分なのだろうと彼女はぼんやりと思った。
それでも一睨みで悪魔でも殺してしまいそうな目つきをしているスネイプとは違ってなまえは特別、ダンブルドアの言葉を不快には思えないのだから…本当に前回の自分が望んで名乗り出たのだろうなと彼女は思う。

「はい、校長先生。
これ以上ないほどの好待遇だと、私、思いますが」
「が、何だね?」
「あー…その、あの鏡はどうしてスネイプ教授の隣の部屋に繋がっているんでしょうか…
どちらかといえば、この部屋に繋がっている方が都合が良いのでは?」
「……驚くほど察しの悪い頭ですな。
熱心に我輩と校長の話に聞き入っていたと思ったが、我輩の思い違いのようだ」

一気に気が抜けたようにスネイプの肩が脱力する。
嫌に楽しそうにダンブルドアが喉で笑ったあと、なまえの頭を撫でながら小さい子供に諭すように話しかけた。

「何故セブルスの部屋に繋げたのかと言うとじゃな、なまえ…彼と協力して欲しいからじゃよ。
…つまり、セブルスもハリーを守っておるのじゃ。影ながらのう」
「まあ!!
それじゃあ一体……」

一体、魔法薬学の授業でのハリーいびりは何だったのか?
確かにお気に入りほど虐めたくなる、なんていう心理もないわけではないけれど…。
あのときの彼のハリーに対する視線は、どう見たって溢れんばかりの憎しみが篭っていたように見えた、のだが。あれはただのポーズなのだろうか_

むくむくと湧き上がる好奇心をなまえが口に出す前にスネイプが眉間の皺で以ってそれを制した。
どうやら照れ隠しとかではなく本当にその理由を話したくないらしい、と何処と無く察したなまえは話が脱線しかけていることに気が付いて、数秒考えたあと喜びで幾らか普段よりも弾んだ声を上げる。

「じゃあ、何かあったら教授の部屋を訪ねて良いってことですか?
あの鏡で…あ、勿論皆には内緒で!」
「そう、そうじゃ。きみの言う通り、勿論他の生徒には他言無用じゃが」
「心得ました!
やったあ、実は私鳥渡残念だったんです_寮の部屋では一人だし、教授の地下室は遠いし…」
「失念していただいては困るがミス・みょうじ、きみがあれを使って良いのは何か“重大な問題”が起こった時だけだ。
しかも、急を要する場合ですな」
「………心得ました…
あ、そうだ校長先生…もし良かったらここに入るための合言葉を教えていただきたいんですが」

また用事があるときに毎回教授に付き添っていただくのは偲びないですし_
鏡の使用可能条件に些か不満があるような面持ちで唇を少しだけ尖らせながらダンブルドアに向き直るなまえの背後にいたスネイプが、彼自身意図しないうちに片眉を釣り上げた。

_十数分の格闘の上に態々彼女の耳を塞いでまでして隠し通したその言葉が自分の居る前で明かされるなど、今度はどんな酔狂なことを言われるか_ああ。


「そろそろ授業の準備をしなくては。
我輩はこれで失礼する_ミス・みょうじ、きみも次の授業に遅れることのないようにし給え」
「え?
あ、ちょっと待ってくださいよ教授…」

引き留めるなまえの声も聞かずにスネイプは真黒いローブを翻してさっさと扉の向こうへ姿を消してしまった。
いや、勿論聞こえはしていたが、このまま居続けたら途轍も無く気恥ずかしい思いをすることは彼にとって明白だったので。

一瞬柄にも無くぽかんと惚けていたダンブルドアが何かに思い至ったように声を上げて笑い出す姿に、なまえがまるで珍獣でも見たときの如く眉を顰ませた。

「ああ…いや、すまんのうなまえ。
きみは思ったよりも押しが強いと見える」
「え?
…はあ、そうでしょうか」

たっぷりとした顎髭を右手で撫でながら未だ笑いが収まらない様子のダンブルドアになまえが思わず首を傾げる。
_別段、おかしなことはしていないと思うのだけれど…少なくともこんなに笑われるようなことは。

そう一人で悶々と自問自答をしていたなまえだが、悪戯を企んでいる少年の面持ちでダンブルドアが教えてくれた合言葉に漸く、何と無くだが合点がいった。
一生徒に校長室の合言葉を知らせてはいけないから耳を塞いだのだと思っていたのだが、どうやら校長のしたり顔を見るとどうもそれは違うらしい。
あまりに彼が頑なに耳を塞ごうとするので何かおかしいとは思っていたけれど_

「…ということは入ってくるとき教授もその合言葉を言ったんですよね?」
「勿論じゃ。
…これは儂の予想じゃが、気恥ずかしかったのではないかのう、ああ見えて彼はかなりの恥ずかしがり屋であるからして…ぶっ」

人差し指を立てて名探偵よろしく神妙な顔を作ったダンブルドアだったが、早くも堪えきれなくなった様子で唇の端から吹き出した。
あの顔で言うには可愛らしすぎる合言葉だからのう、と老齢の悪戯仕掛人が呟く。
斜め上に視線を遣った彼がどうやらスネイプの顔を想像したらしいということは、再び吹き出したのを見て分かった。

「素敵じゃないですか、聞きたかったですよ!
あの声で教授が…レ、レモンキャンデー、なんて」


合言葉当分は変えないでくださいね、なんて言いながら少女と老人が笑い合っている頃、
スネイプはお馴染みの地下教室で痛む頭を押さえながら、帰ってきて何度目かの溜息を漏らしていた。
恐らく今夜にでもポート・キーを使って、言いつけも守らずに彼女は押しかけてくるだろう。絶対に合言葉について話が及ぶに違いない_ああ、何を言われるか分かったものではない。

鏡から出てくるや否や舌縛りでもかけてやろうかとスネイプは気もそぞろに山嵐の針を選り分けながら、正座させたなまえが口走った言葉を思い出す。

_先程の講釈…聞き惚れて…声が_ああ。
これ以上頭が混乱する前に考えるのを止めようと彼は決心したものの、どんなに作業に集中しても彼女の言葉を頭の片隅から追い出すことは出来なかった。