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「これだけ精巧なポート・キーを作った成果に関しては褒めてやろう。
しかし、だ。我輩は寮監の隣の部屋と自室とを繋ぐなどという前代未聞の暴挙を許可した覚えはないのだが?」
「……はい?
いえあの、御言葉ですけど。自分の杖さえまだ一度も使ったことのない私にこんな得体の知れないものを作れるとでも……」

自分の部屋から例の地下室まで瞬間移動。
そのことを唐突に理解してからの感動も覚めやらぬうちに、再確認の為に突き飛ばしたスネイプが予想通り吸い込まれるように鏡へ消えて行くのを見て、なまえは摩訶不思議な鏡に感心していた。
然し乍ら、それも束の間のことで。
なまえの部屋から直ぐに舞い戻ってきたスネイプの足元に彼女は座らされていた。
姿勢を正して折り畳んだ足の上に座る、所謂正座というやつである。

「白々しい、と先程も申し上げたと思うが」
「真実薬とやらを戴ければ直ぐにでも無罪を証明できますよ」
「腕力を行使してでも飲ませたいのは山々だが」
「生徒には使用禁止でしたね……分かってます、分かってます」

でも本当に私じゃあないんですよ、となまえが心なしか体を竦ませてスネイプを見上げる。ベッドに腰掛けながら組んでいた足を組換えて、彼がまた、溜息をついた。

「万が一、きみの仕業ではない場合を考慮して……この鏡の処遇は明朝、校長に御意見を伺ってから決めさせていただく」
「本当ですか!
私が思うに絶対にあのたぬ……じゃなくて校長の仕業だと思いま「だが」
「へ?」
「我輩の当初の予想通りきみの仕業だった場合、それなりの罰則は覚悟しておくことですな」
「ばっ……いえ、だから、私じゃあありませんから」

お互いに一歩も引かず埒の開かない会話が途切れて、暫しの沈黙が冷たい空気が漂う地下室を支配した。
二人共にそれが気不味いとは思っていなかったが、一瞬眉を顰めてからなまえが教授、と口を開く。

「如何して私はこの学校に……ホグワーツに再び入学出来るよう、校長に頼んだんでしょう」
「記憶がなくなることを前もって知っていたのだろう?何も分からずに彷徨うのを防ぐためではないのか」
「それだったら態々入学する必要はないと思うんです。何回も生き死にを繰り返していることは憶えていましたし。別に魔法とやらの存在を知る必要だってないじゃあありませんか、
何処か平和な場所で、生活していけるだけのお金を稼いで暮らしていけば。ただ校長が一言、何故かは分からないがきみは記憶を無くしたって、伝えてくださればそれで充分なんじゃ?
仕事を見つけるまでは経過を見守っていただくことになるかも知れませんけど」
「……」
「きりがないと思いません?22歳になればまた死ぬんですから。そうしたらまた15歳の体に戻って……それから、次も、その次も……」
「此処なら、安全だからだ。体だけとは言えきみははたから見れば15歳の子供で……」
「安全だって言ったって私、何があったって死なないんですよ、死ねないんです。もうずっと昔から」


自嘲気味に笑いながらなまえがゆらりと立ち上がり、鏡台の引き出しを開ける。
背中を向けて何かを物色しているなまえを不審に思いながらもスネイプは、顔を彼女の方へ傾けるだけにとどめた。
見苦しいかも知れませんが私、まだ魔法を知らないので。と、なまえが言う。

「何のことか分かり兼ねますな、簡潔に言い給え」
「見れば分かります。百聞は一見に如かず、ですよ教授」
「だから、何のことだと……」

良くない予感を胸の内に感じ取ったスネイプが素早く立ち上がってなまえの左腕を掴んだ瞬間、彼女の右手が剥き出しのその左腕を掠めた。スネイプが視線を彼女の無表情な顔から左腕へと戻した時には既に、白い肌との対比が毒々しくも感じられる赤黒い直線がぱっくりと開いて内部の肉を曝け出していた。静脈が分断され、酸素濃度の低い血液が床へ向かって流れ落ちて行く。なまえの右手に握られていた剃刀を反射的に叩き落としてから、彼女の痛々しい左腕を頭より上の位置で握りしめながらスネイプは怒鳴った。

「どういうつもりだ!」
「教授、落ち着いてください。
大丈夫ですから……傷口、ご覧になってください。ほら」

傷はかなり深く裂けていたのに微塵も痛がっていないなまえの様子を見てスネイプは、動揺と混乱でいっぱいになった頭を落ち着かせながら言われた通りに彼女の左腕をちらりと見遣る。
たった今目の当たりにしたはずの痛々しい傷痕が、まるで意思を持った一つの生物であるかのように柔らかく蠢いて早くも元通りに回復しつつあった。

「……何だこれは、一体、どういうことだ」
「言ったでしょう?
こういうことです。私、死ねないんです」

ほら、全部、元通り。
そう言ったなまえの左腕は、数分前にスネイプを鏡へ突き飛ばした時と寸分も違わない滑らかな皮膚で覆われていた。確かにあったはずの生々しい傷口は今となっては全くもって見受けられず、残ったのは半乾きの赤黒い血液だけだった。

「流れた血が元に戻らないのが不便ですけど。
あまり大量に出血すると貧血を起こしちゃうんですが、このくらいなら全然平気です」
「どんな呪いをかけられたら、こうなるのだ……聞いたことがない、こんな」
「でも実際、私はそうなってしまったんですよ、教授。
これで信じていただけましたか?
さっきまで、信じてなかったんでしょう?心の底では」

ああ、確かになまえは。と、スネイプは思った。
確かになまえは……いや、前回のなまえは、はたから言わせれば慎重であるらしい自分よりも遥かに慎重で、常に何かに怯えているかのように辺りを見回していた。魔法薬の調合に使う小さなナイフさえも、怖がって_……

ああ、今思えば、あれは怪我を恐れていたのではなくその後のことを恐れていたのではないか。この驚異的な治癒能力が、他人の目に触れることを彼女は何より恐れていたのではなかったか、と。

「思えば、きみが怪我をするのを見たことがなかった……
傷を負うことに対して何か心的外傷でもあるのかと思っていたが、見られたくなかったのだな、恐らくは」
「でしょうね。気持ち悪いじゃあないですか、こんなの」

教授の掌まで汚してしまってごめんなさい、と、なまえが言った。床の血に目を遣る彼女を苦々しい顔で見降ろしながらスネイプが喉の奥から絞り出すように呟く。

「馬鹿者が……いくら我輩に証明するためとはいえ、こんな真似をしたら気分を害するとは考えないのかね」
「あ、そこは大丈夫ですよ。
なんていうか、死なない体になってから私の体が外傷に関する痛覚は必要ないと判断したみたいで。
全く痛くないんです。理由は私の憶測ですけど」
「そういう問題ではないと言っているのが分からないようですな。
次こんな馬鹿げた真似をしたら罰則を与える」
「……心得ました」

渋々、それでも多少は申し訳無さそうに呟くと、なまえは真新しいローブの中から彼女の杖を取り出した。
魔法も使えない癖に何のつもりだ、とスネイプがあからさまに不審そうな目でなまえを睨む。

「ほら、教授が私についていた泥水を綺麗に消して下さったことあったじゃないですか。あれ、使ってみたくて」

そう言ってなまえは杖を右手に握り、えいっと言わんばかりに一振りした。

_馬鹿かこいつは。記憶がない以上初心者同然の身で、呪文も唱えずに……どうやら本当に魔法のことを忘れているらしい_とスネイプは思った。失敗するであろう彼女の代わりに自分の掌と床にこびりついた血を消し去るためにローブの中の杖を引っ張り出す。
いや、引っ張り出そうとしたものの、予想に反して彼の掌と床は綺麗に清められていた。
やったあ使えました!と殊更嬉しそうに小さく飛び跳ねながら、恐らくはスネイプの賞賛の言葉を待ち構えているなまえに彼は思い切り眉を顰めた。

「……待て。何故呪文も唱えずに使えるのだ」
「え、呪文とかあるんですか?念じるだけじゃなくて?」
「無言呪文というものもあるが熟練した者しか扱えん……きみは本当に、忘れているのかね?全く疑わしいですな」
「いや、忘れてるふりだとしたら、態々こんな疑われるようなことしませんよ……しないと、思いますが」
「……例の、無意識に憶えていること、か」

確かに、何かを企んで記憶喪失を装っているのならこんな御粗末な真似はしないだろう_少なくとも、そこまで馬鹿な女ではない。

どうやら納得した様子で幾らか表情を和らげたスネイプを見上げてなまえは少なからず安心したようだった。未だなまえの左腕を握り締めたままのスネイプの掌を、今度は彼女の右手が握り締める。

「……今度は何のつもりかね」
「いやだ、お忘れですか?
私、教授が寮監をなさってるって聞いたからスリザリンにしてくれるように組分け帽子さんに頼んだんですよ」
「それはそれは盛大な御機嫌取りですな」
「まさか。教授の御機嫌を取るならもう鳥渡上手にやりますよ!
早速明日から教授の魔法薬の授業も始まることですし、これからどうぞ宜しくお願いします」
「分かっているとは思うが生徒達が居る中でこのような馴れ馴れしい態度をとることのないようにし給え。不審がられる」

一向に手を離す様子のないなまえの指を引き剥がして、今夜はさっさと帰って寝ろ、と鏡に彼女を押しやりながらスネイプが言った。
はーい、と間の抜けた返事をしたあとなまえが何か良くないことを思いついたような_スネイプにとっては忌々しい、あのウィーズリー家の双子が悪戯を企んでいる時のような_顔をしつつ振り返る。

「それって教授、二人の時は馴れ馴れしくしても良いってことでしょうか」
「何をどう聞いたらそのような曲解ができるのか甚だ疑問ですな」
「お嫌なら素っ気なくしますよ。お嫌ですか?」
「これ以上我輩を下らん会話に付き合わせるつもりなら罰則を言い渡しますぞ」
「嫌じゃないんですね?」

眉間の皺を一層濃くして威圧するとなまえはにやついた顔のまま、罰則は御勘弁を、と言い残して鏡の向こう_もといスリザリン寮の彼女の自室_へと消えて行った。

最早一人分の呼吸音しか聞こえない冷たい地下室に、男の長い溜息が谺した。それが表すのは不快感ではなく、余りに受け入れがたい現実からきた疲労ではあったものの。
暫しの間開け放した扉を背に立ち尽くしていた彼は、以前より幾らか快活になったなまえを思い出して器用に片頬を上げる。彼の授業を受けてきたホグワーツの生徒達が目にしたら口をだらしなく全開にしそうな、自然で、それでいて優し気な笑顔だった。

まあ、嫌ではないことは確かだ。

そう心の中で独りごちてからスネイプは、愚鈍な一年生達と御対面する明日の魔法薬学の授業に備えてさっさと床につこうと踵を返して地下の闇へと姿を消した。