Episode:10『困惑と踊る』
 



夜の森というのはなかなかに不気味なものだ。
鬱蒼と繁る大木を見上げながら、九はそんな感想を抱いた。

妙に湿気った風が頬を掠める。微かに香る錆び付いた鉄の臭いが鼻の奥をツンと刺激した。

九は目の前にある巨木に額をあずけた。ひんやりと冷たい感触が皮膚を通して頭に染み込む。

イルカに逃げろと言われてここまで逃げてきた。
わざわざ逃げる必要などなかったというのに、言われるがまま尻尾を巻いたのだ。

そう思うと、酷い脱力感に襲われる。

自分の意思と無関係に体が動くなど、はじめての体験だった。
何故、と感じる前に、イルカの顔がちらつく。
理由を探るのですら億劫だ。


「…まぁ、いいじゃないか」


溜め息とともに、言葉が滑り落ちた。


「おれのせいじゃないし…」


動揺している自分を落ち着かせようと、無意識に呟く。


「……?」


無意識に呟いて、その言葉が意識に引っ掛かった。

……おれのせいじゃないって、何が…?

九は額を樹皮に押し付けたまま眉間に深い皺を刻み込んだ。
意識せず口をついて出た台詞が、まるで言い訳のように聞こえた。
握りしめた鍔のない刀がキリキリと軋む。


「あーー…やめだやめ!」


九はブナの滑らかな皮にぴたりとつけていた額を5センチほど浮かせると、その幹に勢いよく叩きつけた。
硬い樹皮から伝わる衝撃が薄い皮膚を通り抜け、頭蓋に響く。


「考えるべきは、生かすか殺すかだ」


冷静を通り越して冷徹なほど静かな声が夜に沈んでゆく。

九は腰にまわしたベルトに刀を収めると、その黒塗りの鞘を徐になぜた。

次の瞬間、空を裂く音が冷たく響く。

一拍おいて九の周りに生えていたブナの大木が、静かに滑り落ちた。


「…さて、行こうか」


ここから南南東の方角で、2つの気配が移動している。気配の正体は、言うまでもなくイルカとミズキだ。

抜き身の刃を鞘に収めながら、九は2つ気配のする方角を冷静な眼差しで見つめた。





・×・×・×・
 




九が葉に囲まれて外界からは見えにくい枝の上に着地すると、それとほぼ同時にイルカは変化の術を解いた。
わざわざ九に化け、ミズキを引き付けていたらしい。ご苦労なことだ。

九は地面の上に赤黒い痕が点々と続いていることに気づいた。
おそらくはイルカの血だろう。

イルカの状態は、遠目で見ただけでもあまり芳しく無いことが解る。
もはや幹を背に座り込み、意識を保っているのがやっとなのだろう。

満身創痍のイルカを、ミズキは理解できないというように嘲った。


「親の仇に化けてまでなんになるってんだ?あ?」


そう問われたイルカは、けれど答えない。
ミズキを睨み付けながら「巻物は渡さない」とだけ告げた。


「つくづくバカな野郎だ。九を庇ったところで、あいつも俺と同じなのによ」

「……、同じ?」


ミズキの台詞に、イルカは顔をしかめる。
大事な教え子と、目の前の反逆者が同じと言われるのは、愉快ではないのだろう。

ただ当の九は、眉ひとつ動かさずに二人のやり取りを静観していた。


「あの巻物の術を使えばなんだって思いのままだ。それをバケ狐が利用しない訳がないだろう?」


妙に演説がかった口調だ。
ミズキはニタリと卑劣な笑みを浮かべたまま、イルカの反応を窺っている。
イルカを追い込むことによって、ある種の悦楽を感じているようだった。

九は呆れたように溜め息を吐いた。

……誰だ、あんなバカを教師にした奴は。

ミズキの一挙一動に気を配りながらも、九の頭の中では、これが終わったらどんな風に木の葉の上層部に文句をつけてやろうか、などと場違いなことが巡っていた。


「あいつはお前が思ってるような奴じゃねぇんだよ」


反応の薄いイルカに痺れを切らしたのか、ミズキは吐き捨てるように言った。

九は、この時ばかりはミズキに同意した。
イルカがしていることは骨折り損のくたびれ儲けだ、とさえ思っている自分を、イルカは知らないだろう。


「…ああ」


だが、九の予想に反して、イルカは肯定した。

途端に九の中で諦めに似た脱力感が広がる。
まるで、イルカの言葉に傷付いたように。
けれど九は、頭を振ってその考えを追い払った。

傷付いたと感じるのは、期待しているからだ。
イルカに、赤の他人に。

(そんなはずはない)

九は喉の奥で即座に否定する。

九にとって他人になにかを期待するという行為は、とても怖いことだった。
期待は裏切られるもの、そして裏切るものだ。

気づけば九は笑っていた。
嘲笑だ。
つまらない雑念を抱いた自分を心の底から笑い飛ばした。

そして一瞬のうちに気を引き締める。
今すべきことは自戒ではなく、
眼下の二人に集中することだ。

ミズキは喉を鳴らして笑っていた。しかし、その顔には明らかな侮蔑が浮かんでいる。

九は、おや?と首を傾げた。
ミズキはどうやら、自分に屈するイルカを見て失望しているようだった。

ミズキはイルカに対して、何か複雑な感情を抱いているのかもしれない。
九はそんな考察をした。

しかし、ミズキの失望はイルカの次の台詞で綺麗に吹き飛んだ。
だがその代わりに敵意がむき出しとなったのだから、イルカにとって良いことではないだろう。


「……だが、それはあいつがバケ狐だったらの話だ」

「あ?」

「けど、九は違う…」


イルカはニコリと微笑んだ。


「あいつはもうバケ狐なんかじゃないんだ…」


敵を前にして命の危機に瀕しているとは思えないほど穏やかな顔で呟く。

九はそれを不思議な心地で眺めた。


「皮肉屋で、ひねくれてて、全然子供らしくなくて……いつも痩せ我慢ばかりしてやがる。辛い時に辛いとも言えずに……。せめて泣いてくれりゃあ良かったのによぉ……あいつは自分のためにも泣けないで……ずっと、ずっと苦しんで……」


イルカはここで困ったように笑った。まるで泣いているようだった。


「あいつは人の心の苦しみを知っている……。だからもう、バケ狐なんかじゃないのさ」

「ハッ!あれがバケ狐じゃないなら、なんだっていうんだよ!ええ?!」

「うずまき九だ。まだ12歳の……俺の可愛い教え子だ…!」


イルカがそう言い切った瞬間、九はイルカの前に躍り出ようとしている自分に気がついた。
だが、寸でのところで踏みとどまる。枝が軋んだ。

九はハッとして、反射的にミズキの様子を窺う。
ミズキはイルカを忌々しげにねめつけている。どうやら自分の存在は気づかれなかったらしい。
しかし、それはミズキが興奮状態にあるからであって、もしあの男が平静を保っていたなら容易く見つかっていただろう。

九は舌打ちをするとともに、自身をきつく戒めた。


「ケッ!めでてー野郎だな」


ミズキは強ばる顔でイルカに吐き捨てた後、背中に背負っていた手裏剣に手を伸ばす。


「!……ッ」


臨戦態勢に入ろうとしたミズキの様子を察して、イルカは咄嗟に体を起こそうと試みた。
しかし、背中に負った傷のせいで立ち上がることができない。
手をついた地面が黒く湿っている。よくよく見れば、それは自分の血だった。


「本当はお前を後回しにするつもりだったんだがな」


イルカが立ち上がれないことを察したミズキは、悪役らしい歪んだ笑みを浮かべた。


「お前から…―――死ねええぇぇぇ!!」


イルカは既に諦めた顔で微笑んでいた。こうなってしまっては九が逃げのびることを祈るばかりだ。

ミズキが手裏剣を片手に目前へと迫る。

―――ここまでか…。


「諦めるのははやいよ、イルカ先生」


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