(怪物とジェロム)逃亡if
肉を引きずる感触だけがした。かつて友だと信じたそれが小さな命だと知った。怪物は牙を食いこませて微かに呼吸して死を待つだけの男を運ぶ。殺し屋だと名乗る男。ひとつの悪夢のような肉を食わずにつれていく。瞳から落ちた雫は赤く濁り、乾ききらない顔をまた新たに濡らしていった。
「ジェロム、また眠っているのか」
怪物は己のしゃがれた声さえ疎んで、無視をされた腹立たしさに、咥えていたものを今一度地面へと叩きつける。衝撃に顔を歪ませ、ヒュッと呼吸した肺を圧迫する。苦しいことだろう。異常に発達した前脚の太い筋肉に殺意を込めて踏む。俺はこの何倍という苦痛を、地獄を味わったのだと何度声の限りに叫んだのかわからない。そのくせ、どういったわけか怪物は未だに男を殺せないままだ。
「まったくお前は、俺を苛立たせる!」
腹を蹴ると、血を吐いた。それがまた毛に絡み砂の塊を作ることにまで苛立つ。見るも無残に汚れていくのは愉快であったはずなのに、今はただ虚しさばかりが募るように思えてならなかった。怪物はひっそりと名を呼ぶ。恨めしそうに、どこか物悲しさを含んだ声で友を呼んだ。二度、ゆっくりと瞬きをされたことを確認し、今度は落としてしまわないように背に担ぐ。
「ジェロム、もう少し行くと、桜があるんだ。覚えているか。春の日に咲くやつだ」
言葉に反応し、脚をひくつかせているのを感じて怪物は深く息を吸う。覚えていてくれている心地良さから、少しだけ泣きたいという気持ちもあった。優しい男だ。怪物は、これほど優しいものを知らない。母も人間も等しく残忍だった。
「薬臭い実験室では知らなかった匂いがわかったよ。散ることの美しさも、お前の言う通りだった。春は、気持ちがいい。心が安らぐんだな」
怪物は思い出を辿りながら歩いた。初めて声を聞いた瞬間の驚き、名乗られた瞬間の嫉妬、その後ろから囁かれる雑言、繋がれていく自分の命への絶望と、与えられ続けてしまった希望、ジェロムという唯一の友に関する全てが、壊れた頭の中に残っていた。悲しいのかもしれなかったが、心の中から少しずつ何ものかが抜け落ちていく感覚がして、残る怒りの傷が痛んだ。
「俺はどうすればいい。お前をもう一度怒らせればいいのか。また人間を喰おうか。犬がいいか。お前の惚れこんだあの小僧を今度こそ殺してきてやろうか」
「……止せ、駄目だ」
背中の温度を、はっきりと感じて怪物は立ち止まる。声を聞いたのは二日ぶりだろうか。与えてもほとんどものを口にせず、水を舐めるだけで生きているのも奇跡的な男の声は、掠れてはいたがよく響いた。
「何故だ。また誰かがお前の犠牲となるのが怖いのか」
「違う。今度こそ、お前を……許せなく、なってしまう」
「許すだと?ジェロム、お前は俺を許せるのか?」
「ああ、そうだ。お前は可哀想な奴だ」
それは芯の通った、強い声だった。哀れみの目を向けながら、甘い言葉を囁きながら、結局は救いの手を差し伸べてはくれなかった無責任な男が何を言うのだろう。その、あまりにも温い台詞に怪物は血管を浮かせ、再び男を振り落とす。ひたすらに胸が痛かった。どこも血など出てはいないのに。
「これまでに何度もその小さい頭を打ちつけられてとうとうイカれたか!?お前は俺のなんだと言うのだ!俺を殺すと言っただろう!俺が他の何かを手にかけなければ、他に理由がなければ殺してもくれないのか!」
わき腹をまた強く蹴りあげる。それでも、今度は呻き声すらあげずに耐えている。この期に及んでもなお、怪物に変貌する前の心へ訴えてどうしようというのか、怪物にはわからない。怪物は怒りで全身が震えていた。しかし次の瞬間には、その矛先を失い虚しくなる。男の声に反して尻すぼみになる己の声が遠くなり、知れず耳を倒していた。
「お前はいったい、俺に何をしたかったんだ」
「オレは、お前を救いたかった」
「お前はいつも嘘ばかりだ!そうして皆死んだのだ!全部無駄だったなジェロム」
「無駄ではない。オレは、お前を……友と呼べるぞ」
「黙れ!」
怪物は大きく頭を振ってほとんど死体のような体を掴みあげて放り投げた。高い草の柔らかな茂みではなく、太く硬い木の幹へと強くたたきつけられて、目から光が消えていく。今度は、ぴくりとも動かない。怪物はざっと血の気が引くのを感じ、震える足取りで傍へ座った。
「ジェロム…?おい、死んだのか、ジェロム」
呼吸が浅い。生き物が絶命する瞬間を、怪物は知っている。もう一度こちらを見ないかと、気が急いて、初めてその顔をそろりと舐めた。誰かを想って触れるのも初めてのことだった。
「ジェロム、俺を置いて逝くな」
前脚で器用に抱き寄せた一匹の男を、丁寧に舐めた。体温が急激に下がり、力なく垂れさがる頭を支えて目を合わせようとした。けれど、見ない。かくかくと痙攣した脚が、動かなくなる。怪物を残し、辺りの全てが死に絶えたように錯覚した。
「……いかないでくれ、ジェロム、お前は、俺が殺そうとしても殺せなかっただろう。目を開けてみろ、俺に牙を向けてくれ、ジェロム……ジェロム!」
怪物の咆哮が空に響いて、あちこちで獣が惑い逃げていく。騒がしい山中でたったひとつの命を、この世で唯一手に入れたいと祈った愛しい男を抱えて怪物は泣いた。いくら泣き叫んでも、誰も答えはしない。あの実験室の地獄を超える苦しみだと思った。
「寂しい、寂しいよ、……ジェロム」
そんな感情がまだ生きていることが、死にたいくらい悲しかった。
150107
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