伸ばした指先が掴んだもの

 とても月のきれいな夜のことだった。
 季節が夏から秋へと移り変わりつつある頃、今まで平凡な毎日を過ごしてきた男にそれは突如訪れた。
 普段と何ら変わらず、仕事が終わった後に酒を飲んで、いい気分で家に帰り床につくはずだったのが、暴漢に襲われたのだ。目当ては金だった。
 脅されるがままにおとなしく所持金を渡してしまえばよかったものを、酒を飲んでいたせいか判断が鈍り、抵抗してしまった。
「俺が汗水垂れ流して稼いだ金を、何で見ず知らずのおたくに払わにゃ、ならんのだ」
 いつ首を切られるか分からないという不安定な状態で、賃金は安く、それでも自棄になっては負けだと懸命に働いてきた。そんな、苦労して得た金をやすやす渡してなるものか。
「別にあなたの労働を軽視するわけじゃない。無理やり人からお金を奪うことがどんなに罪深いことか、理解しているつもりだ。それでも」
 立ち塞がった男は理性的に言ってみせて、だが暴力にうったえて出た。まず、右頬に一発お見舞いする。よろけたところに腹部へ二発目を、そして最後に左の頬を思い切り殴りつけた。殴られた男はとても立っていられず、地面へと倒れこんだ。
 暴漢は金貨の入った袋に手をかける。そして、その場を離れようとしたのだが。
「この野、郎」
 うめきながら、暴漢の足に男はしがみついた。こんな奴に、奪われてなるものかと。
「この、離せ」
 男の手を払おうとしたが、これがなかなか離れない。火事場の馬鹿力とでもいうのか、もの凄い力でしがみつかれていてとても歩き出せなかった。やがて暴漢に焦燥が芽生える。
 こんなところでぐずぐずしていられないのだ。早く早く、もっと金を集めなければならないのにーー。
 焦りが、今まで決して手を出さなかった手段を暴漢に選ばせてしまう。
「は、離せ!」
 暴漢の絶叫と共に男の背中に突き立てられたのは、小さなナイフだった。刺された男は痛みに声を上げる。それでも暴漢の足にからみついた腕が離れることはなかった。そのことに、暴漢は再びナイフを振り上げてはおろし、数回さらに突き立てた。
 そこで一瞬、男の腕が緩んだ。
 暴漢は素早く足を引き抜き、金貨の入った袋を血まみれの手で握りしめ走り出した。
 ついに、人を殺めてしまった。
 早くも後悔の念に苛まれながら、しかしただ走るしかなく、途中何度か転びかけながらもひたすらに走り続けた。

 何度もナイフで刺された男は、それでもまだ息があった。しかし、とても危険な状態ですぐに手当てを受けなければどう考えても助かりそうにない。
 だが、通行人の助けは期待できなかった。ただでさえ人通りの少ないこの道で、しかも深夜に近い時間帯だ。助けを期待できないことは重々承知しながらも、男は諦めきれなかった。
 このまま、死んでなるものか。このまま、死んでなるものか、と。
 無意味に地面の砂を握りしめた。
 −−いっそ、悪魔でもいい。俺を助けちゃくれねえか。
 あまりの痛みのせいか、そんな非現実的なことを考えて、すっと男の意識は遠のきかけた。その時だった。
「その願い、叶えてあげましょうかおぢさん」
 何者かが目の前に現れたのだろう、頭上から声がした。若い、いや幼いといっていいくらいの声だ。だが男の目では既にはっきりと姿をとらえることはできなかった。
「だーけど、僕は高いよう。それでも後悔しないでいられる? おとなしく死んでしまえばよかったなんて思わないかな」
 よくは分からないが、何者かが己を助けようとしているのだ、悪魔でもいいから助けてくれと願った男が、縋らないわけがなかった。
「……てくれ」
「えー、聞こえなーい」
 男は力を振り絞って答えた。到底届かないと分かっていながら、思わず指を懸命に伸ばす。
「たのむ、たす、けてくれ」
 まだ、死にたくない。
 そこで男は意識を失った。止まることのない時間は、確実に男を死へと導きつつある。その本来止めることなど叶わない流れを、男の目の前に突如現れた何者かは、そこで止めた。
「へっへっへ、これで従順な下僕が手に入ったぞ! あー、でも後悔するんだろうなあこのおぢさん。でも、いいかもね。後悔できるのも生者の特権だし」

 とても月のきれいな夜だった。
 男がつかんだものは、幸福か不幸か。それともそんな言葉でははかりきれないものだろうか。

14/2/16



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