それは夢のようなものだった。ぼやっとした頼りない記憶、本当にあったのかどうか分からないこと。いや、事実夢なのかもしれない。
 記憶を失ったあの日から、夢と現実の境界はひどく曖昧なものになっていた。
 何が本当で、何が幻なのか。明確にある二つの差が、彼にはもう存在していない。それ故に唯一残った思い出のようなもの、自分が何者であるか、それを確かめる手掛かりであるあの記憶のことさえも疑わしく思えてしまう。
 幼い自分が、誰かと手を繋いでいる。それは女の子だった。女の子は親しげに、無邪気な笑顔を彼の方へ向けている。女ののこもそして自分も、しっかりとお互いの手を握っていた。
 何となくその感触は覚えているようなそんな気がして、その記憶を呼び起こす時にはいつも自分の手を開いたり閉じたりして思い出を噛み締めようと試みていた。これは夢ではないと、心の中で強く思い、願いながら。
 しかしこれが本当にあったことなのだという証拠は、どこにもない。
「お前は、そんなものが大切なのか」
 彼を拾った恩ある人物、今では彼の上官であるその人物は以前彼にそう言った。夢か現かも分からないような記憶だ、そんなものと言われても仕方がないのかもしれない。それに上官はただ彼の大切なものを否定したのではなく、その記憶に囚われることで彼が腑抜けてしまうのを危惧した上でそう言ったのだ。
 だが、どうしても彼はその記憶を切り捨てることができなかった。
 どこで生まれたのかは覚えている。この世の常識も今の世情も、ある程度は心得がある。だが自分で何者であるのかはどうしても分からない。そんな彼にとって、少女との思い出らしき記憶だけが自分の正体に近づける唯一の手掛かり――もちろん、頼りないものであるが――であったし、それ以上に。
「それ以上に、なんだ」
 その記憶についての話を、彼は同僚に打ち明けた。笑われるかもしれないといったような心配は微塵もしていなかったが、誰かに打ち明けることでその記憶が薄れてしまうような、そんな根拠のない恐怖感があり口に出さずにいたのだ。上官にはそういった記憶があると言うだけに止めており、具体的に、女の子のについてまで話をしたのは同僚が初めてだった。
「我ながらこんなことを言うのもあれですが、満たされていた……この日々があれば、彼女がいれば強くなれる。生きていける。そんな、確信があったのです」
 何ものにも脅かされることなく、幸せに暮らすことができる。彼女を守りながら、彼女と共に生きてゆける。それは彼にとってこの上ない誇りであり、喜びだったのだという。
「だから尚更、現実であって欲しいと願ってしまうのでしょう」
 遠い目をして弱々しく言った彼を、同僚はほんの少しの戸惑いと驚きを胸に抱きながら見つめた。それを紛らわそうとコーヒーを飲んでみたが、すっかり冷めてしまっていて不快なだけだった。
「私はいつか、取り戻せるでしょうか」
 彼もまたコーヒーを口に含んだが、冷めたコーヒーの不快感を感じられる気分ではなかった。

 若々しい生命の輝きに溢れた、草原のような開けた場所だった。そこに、少年と少女が立っている。二人は離れないように、しっかりと手を握って微笑み合う。
 少年は思った。
 妹を守り、二人で強く生きていこうと。
 少女は思った。
 悲しいこともあったけれど、兄と一緒に二人支え合って生きていけたらいいと。
 二人はまだ再会を果せていない。




『つ』
繋いだ手は僕の誇り、交した笑顔は僕の歓び



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