久しぶりに暇ができたので、今夜は月を酒の肴に、一人の酒宴をのんびり楽しもうと思っていた。ここのところ、何だかんだで忙しい日々が続き、月を眺めるどころかのんびり酒を飲む暇さえなかったのだ。
 月を眺めるのも久しぶりだったが、こんな鈍色の空も久しぶりに見たな。
 丈徳(じょうとく)はそう思い、こうして空を眺める余裕があって、やはりゆっくりできるのはよいことだと改めて暇ができたことを喜んだ。

 徳利を傾け猪口に注ぎ、久しぶりにのんびりできることに対しての祝いの意味を込めて、月に向かって杯を軽く上げる。
 そして最初の一口を飲もうとした、ちょうどその時。
「丈徳先生」
 弟子の小さな、この上なく申し訳なさそうな声が耳に入った。
「……何だ」
 明らかに不機嫌な声で、丈徳はそう答えた。そして直後に、些か後悔する。
 師に久方ぶりの暇ができたことなど、弟子は十分承知しているのだ。それでもそれを遮るように声を掛けたのは、つまりそれが後回しにしてもよいようなどうでもいいことではないことを意味する。
 さらにこの弟子は滅多に……偶にはあるが、問題を起こすような奴ではないから、私事ではないだろう。
 つまり、弟子に非はない。
 考えたりせずともそんなことぐらい分かっているのだから、明らかに不機嫌な声で答えたのは大人気なかったと、そう丈徳は後悔したのだった。
 そんな後悔をしながら、何故弟子が自分を呼んだかについては今のところ、丈徳には一つ、いや正確には一人、しか思い当たるふしがなかった。
「あの、阪内(ばんない)様が」
 弟子が相変わらず申し訳なさそうな声で、丈徳が予想していた通りの人物の名前を告げた。
 やはり、そうか。
 嫌な予想が当ったにも関わらず、同じようなことはもう何度も経験してきたせいか、溜息さえ出はしなかった。
「仕方がない、通……」
「悪いな丈徳、上がらせてもらうぞ」
 屋敷の主の許しも得ずに、ずかずかと入ってきたがたいのいい男は手に大きな酒瓶を持っていた。
「飲まずに放ったままにしていた酒があったことを思い出してな。今晩はお前も暇だろうから持ってきてやったんだ」
 と、突然の来訪に腹を立てている丈徳に向かって、恩着せがましく持ってきてやったなどと阪内は言う。この言葉を聞いて弟子の瓔堂(ようどう)はいつものことながら、これから自分の師がどれだけ青筋を立て声を荒げるのかと思うと、ひやひやせずにはいられなかった。
「おい、阪内……」
「相変わらず、質素な部屋だな。俺も人のことは言えんが、お前の部屋はなんと言うか……人が住んでいる匂いがしない」
 さすがは妖怪だな、そう言って阪内は大声で笑った。

 あぁ、もう駄目だ。
 瓔堂は素直に諦めた。

「この野蛮人め……! 貴様、せめて私が通せと瓔堂に言ってから入ってこい! ここはな貴様の家ではないぞ。何がお前も暇だろうから、だ。あぁ、私は確かに暇だ。だがな、別に誰かと過ごそうなんぞ思ってはいない。私は久しぶりにゆっくりできる晩を、一人で酒を飲みながら楽しもうと思ったいたんだ。それをこんな猿顔の野蛮人に邪魔されるとは……!! 貴様、嫌がらせなら余所でやれ!」
 自分が、丈徳を怒らせるような言動をとっていたにも関わらず、阪内は負けじと言い返す。
「猿顔の野蛮人だと!? お前こそ、俺が親切で酒を持ってきてやったというのに、それを嫌がらせだとほざくのか、えぇい、この妖怪め!!」
 何故丈徳が妖怪と呼ばれているのかと言えば、元々顔が整っている上に色白なのと、さらに歳をとってもそれ程老けないことから、同僚がからかいと羨望の意を込めてそう呼んだのだが、幼馴染である阪内はさらに今まで見てきた丈徳の様々な面を加味して偶にそう呼んでいた。

 いい年をした大の男二人が、猿顔だ妖怪だと口喧嘩をしているのを見て、瓔堂は半ば呆れつつもどこかでほっとしていた。
 ――前線では猛将の名を轟かせる二人も、こうして普通の人のように、子供のような喧嘩をすることがある。
 その事実が、自分を少しでも救っているような、そんな気がしたからだ。

「……耀堂(ようどう)!!」
 昔の記憶の中の声が、瓔堂を呼んだ。
 いや、違う――今の私は、耀堂ではなく瓔堂だ。

 これ以上考えると、深みに嵌ってしまいそうな気がした。
 いけないいけない、と軽く頭を振り、瓔堂は再び目の前で起こっている男二人の喧嘩に集中した。珍しく二人はお互いの胸ぐらを掴み合っている。
 お、お止めしないと……!
 瓔堂は慌てて喧嘩の仲裁に入った。

「この手を離せ、野蛮人!」
「お前こそ、手を離さんか妖怪め!」
 鈍色の月夜の下、男二人の大人気ない喧嘩は続く。




『に』
鈍色の月夜の下



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