梅雨だというのに久しぶりに雨が降った、そんな日のことだった。
 雨月(うげつ)という青年が、まだ幼く、そして雨男と呼ばれていなかった頃の話である。


「母さん、どこへ行くの」
 母親が戸を開け家を出ようとしたその時、雨月はそんな問いを投げかけた。
 特別な意味などはない、ありふれた問いだった。

 雨が降っているとはいえ、出かけることぐらい誰にでもあるだろう。買い物だって何だって、行きたい時には外が雨であっても行くし、行きたくない時であっても行かなければならない時は雨が降っていても行く。
 もちろんそんなことは雨月にも分かっていて、ならば何故そんなことを訊いたのかといえば、それは、珍しく母親が行き先を告げずに家を出ようとしていたからだった。
「どこ……って、お買い物よ。それがどうかしたの」
 戸を半分程開けた状態で、母親はほんの一瞬だけ体を硬直させた。
 突然声をかけられて驚いた、というのもある。――しかし、本当のところは違っていた。
 いつもと何ら変わらない行動をとっていたはずだ、と母親は思っていた。

 いつものように起き、いつものように身支度をして、いつものように夫と息子を起こし、いつものように家族三人で朝食を食べ、いつものように……。
 そう、何もかもがいつも通りのはずだった。自分に限らず、息子も。
 いつもなら、ただいってらっしゃいと自分を見送っていた息子。だが今日に限って。

 ――母さん、どこへ行くの。

 何故、行き先を問うのだろう。
 母親はいつもと変わらない行動を自分は完璧にしていたと、そう思い込んでいたのだった。
 それ故に、息子の問いに対しての動揺はなかなかに大きい。
 しかしそれを悟られてはならなかった。

 母親はゆっくり振り向いて、いつもと変わらない笑顔を作ろうとして作った。
 動揺などしていないと、強く自分に言い聞かせながら。
「……そっか。そうだよね。何訊いてるんだろ、俺」
 本人の心配をよそに実際は、母親の動揺などに雨月は気がついていなかった。
 しかし雨月に限らず子供はどこか鋭い。
 母親の動揺ではないにしろ、いつもとは違う母親を明らかに感じ取っていた。
 もし母親が行き先を言っていたとしても、どこへ行くのかと雨月は改めて母親に尋ねていたことだろう。
「じゃあ、母さん出かけてくるから」
 そう言って母親は、ゆっくりと戸を閉めた。

 雨が強くなったのか、今まで聞こえていなかったざぁという音が聞こえ始める。
 父親はいつものように働きに出、そして母親はいつものように、少なくとも本人はそう思い込みながら買い物に出かけた。
 ひっそりと静まり返った家の中に、雨音はとてもよく響いている。
 その音に耳を傾けながら、雨月は後悔をしていた。
 何もかもいつも通りであったのだから。
 ――たとえそれが最後だとしても。
「いってらっしゃい、って言えばよかった」
 そう呟いて、雨月は自らも雨を降らせた。

 その日からかどうかは分からないが、雨月にとって出会いと別れの日は、いつでも雨になった。




『ろ』
六月、水無月の頃の別れ。



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