女は腕の中にいる子供を再び抱え直した。少しばかり腕に疲れを感じ始めてはいたが、まだまだ大丈夫、と女はまるで自分を励ますかのように心の中で呟いた。
 子供はすやすやと穏やかな寝息をたてて眠っている。
 こんな状況で泣き叫ばれてはたまらないから、よかったといえばよかったのだが、女はそう思う反面その安らかな寝顔が憎らしく思えてならなかった。

 ――いい気なものね。

 なぜこんなことに、そんな当たり前の嘆きの言葉さえ吐いている暇は無かった。
 とりあえず逃げて逃げて逃げて……何が起こったのかを考えるよりも前に、生き延びるためにまず逃げなければならなかった。
 女は自分の子供を抱えて逃げてきた。夫の居場所は分からない。
 どうせ私達のことなんか心配してないんだわ、と日頃の態度から安易に想像できた女は夫の生死に大して関心はなかった。
 そんなことよりも、肝心なのは自分達が生き残ること。

 深夜だというのに遠くの景色が随分と明るい。もちろんそれは街の灯りなどではなく、燃え上がる炎の明るさだった。
 何から逃げているかも分からないなんておかしな話だわ、と女は思ったのだが無駄に恐怖しなくて済んだのだからよかったのだとそう考えるようにした。無闇矢鱈に現状を追求して、わざわざ己の恐怖や不安を煽るのは莫迦らしい。何より、勝手な憶測を巡らせた挙句竦んで動けなくなったりでもしたら――女にとってはそれが一番恐ろしかった。
 正体が分かろうが分かるまいが、逃げなければならないことに変わりはない。ならば、そう深く考える必要は無いし、止めた方がいい。
 女は実に冷静に物事を考えていた。その冷静さはこのような状況にあるにも関わらず日頃よりも勝っていて、いや、逆にこのような状況だからこそなのかもしれないが、その事に女自身も驚いていた。

 何となく、女は子供をぎゅっと少し力を込めて抱きしめてみた。
 不安を和らげたいだとかそういう意図はなく、ただ何となく抱きしめてみたくなってそうした。
 子供の鼓動、呼吸、温もりを感じる。
 そしてふと疑問に思った。なぜ私は、この子を抱いて逃げてきたのだろうか、と。
 自分の子供なのだから当たり前かもしれない。だが女にはその当たり前のことを、ただ当たり前として受け入れてしまうことが何だか腑に落ちなかった。

 女は夜空を見上げた。そこには深い闇の色と、視界の端の方では赤い色が混じっている。
 女が顔を戻し再び子供を抱きしめると、不意にどこからか声がした。
「重たくはありませんか?」
 その声に、思わず女は深く子供を抱え込む。街を襲ったモノかと思ったのだ。
 女が周囲を警戒しながら何も言わないでいると、再び声がした。
「重たくはありませんか?」
 女は今度は立ち上がった。声との距離が近い。
 逃げられるかどうかは分からないが、とにかくすぐに駆け出せるように立ち上がった。
「だ、誰なの……!?」
 女は何かを堪えきれなくなり、声を発した。
 突然の何者かの声によって、女は日頃より勝っていた冷静さを欠き始めている。その証拠にうるさいくらいに心臓が脈打っていた。
 女がしばらく周囲を見回していると、物音一つ立てず目の前に白い装束を纏った髪の短い女が姿を現した。
「誰……なの」
 女は絞り出すように声を発した。いつの間にかひどく喉が乾いている。
 白装束の女は優雅に微笑むと女の問いには答えず、再びあの言葉を発した。
「重たくはありませんか?」
 そして女は首を少し傾げてみせる。
「な、何なのよ……あんたは!! 何が目的なの……!」
 女はなんとか怒鳴ってみた。そしてその直後、自分の声に驚いて子供が目を覚ましてしまったかもしれないと不安に思い、顔を覗いてみると、子供は相変わらず穏やかな顔をして眠っていた。
 女は思わず溜息をつく。
「大切ですか」
 白装束の女が今度は別の言葉を発した。
 一体何をしたいのだろう。この白装束の女が何を目的としているのかが分からず、女は苛立ちあるいは焦り、を感じ始めていた。
「何なのよあんた……さっきから! 何がしたいのかはっきりしなさいよ!」
 女の言葉に、白装束の女は口を半月状に歪めただけだった。あくまでも、優雅に。
 い、いや……。
 いくら優雅に笑ってみせても、それはひどく不気味で怖ろしいようにしか見えない。
 女はたまらず駆け出した。
 いや、正確には駆け出したつもりだった。だが。
 身体、が……。
 女は片足を踏み出した格好で硬直している。どうがんばってみても、固まった身体が動かない。早く、早く動かさなければあの女が……。
 私達に危害を加えてくるかもしれないというのに。
「重たくは、ありませんか?」
 突如、耳元であの女の声がした。とてもうれしそうな、楽しそうな声だ。
 女は悲鳴を上げたつもりだったが、これもまたつもりで終わってしまった。

 いつの間にか白装束の女は、硬直した女のすぐ目の前にいた。
 相変わらずの優雅な微笑みを色の白い顔に湛えながら、白装束の女は両手を差し出してくる。
 
 何故……?

 あ……。

 頭に浮かんだ疑問符は一瞬にして女の頭から消え去ってしまった。
 女は分かってしまった。自分が、どう思っているのか。
 白装束の女は促すように、首を少し傾げて女に向かって微笑んだ。
 その微笑が初めて温かいものに見えた。そして――。
「もう、大丈夫」
 白装束の女の腕には、すやすやと穏やかな寝息を立てている赤ん坊がいた。
 その赤ん坊の母親は目を見開いたまま眠っている。
 冷たい身体を、荒野に晒して。




重み


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