その男が私の向かいの席に座った丁度その時、嗅ぎ馴れないにおいが私の鼻腔を刺激した。
――線香のにおいだ。と、嗅ぎ馴れない割に私はすぐにその臭いの正体が分かった。
友人の中にはその独特の臭いを好む者もいたが、私はそのつん、とくる臭いがあまり好きではなかった。しかし何故か、好きでもないのに何度も嗅いでみたくなってしまう。
私の家には仏壇が無い。そのせいで余計にその臭いに敏感、またはその臭いが気になってしまっているだけなのかもしれないが、私は向かいにいる男に気取られぬよう、何度か鼻から息を吸い込んだ。
ああやはり、線香の臭いがする。
葬式でもあったのだろうか、とも思ったが男の服装には黒が一つも無かった。派手な格好をしているわけではないが、上着は茶色い色をしていてどうも葬式帰りとは考えにくい。
では、臭いが服に染み付いてしまっただけなのだろうか。
先にも述べたように私の家には仏壇がないので、仏壇のある家の服は線香臭くなってしまうのかどうかは分からない。だが煙草のことを考えてみると、その臭いが服に染み付いてしまうことはよくあるので線香も同じだろう、とも考えられなくはないが、どうも納得がいかなかった。
線香の臭いがする男は鞄から本を取り出し、そしてそれを読み始めた。
よくよく考えてみればおかしな話である。
なぜ私はこうも、やたらにこの線香の臭いを気にしているのだろう。少々臭うな、で済ましてしまえばよいものを。
「におい、ますか」
男が突然、言葉を発した。
もちろん私はその突然の男の行動に動揺し、すぐに言葉が出てこなかった。
「におい、ますか」
男は再び声を発した。
「え……いや、あの」
ようやく口から言葉が出てきたが、何と答えてよいか分からず私はただ、おろおろするばかりだった。
「少しの間、我慢願います。それは生命(いのち)そのものなのです」
「……は?」
おろおろするばかりの私に男はそのように言った。
意味が解らず間抜けな声を上げた私に向かって、男はこう言った。
「それは私達の人生そのもののにおい。どうか嫌わず、私達を記憶にでも、心にでも、どこでも構いません。刻んで頂けませんか」
本を閉じ、私の方を見つめてきたその男の表情はとても寂しそうなもので、それでいてとても安らかなようでもあった。
私は口を半開きにして、しばらく言葉を失っていた。そしてようやく我に返った時には既に、あの線香の臭いのする男の姿はなかった。
夢でも見ていたのだろうか。
私は腕組みをして唸ってみる。
「うん?」
誰かが窓を開けたのだろうか、そよ風が私の頬を撫でる。
その時、再び線香の臭いが私の鼻腔を刺激した。
「ああ」
あれは夢ではなかったらしい。
その日の出来事と、そして線香の臭いは、深々と私の記憶と心の中に刻まれたのである。
線香