どうして、逃げなかったんだ。こんなことになる前に。
 傘に当たる雨粒の音を聞きながら、痛みを伴ってその思いは彼を過る。
 ――君には翼があったんじゃないのか。

 彼と彼女との間にはクラスメイトという些細な関係しか存在していなかった。たった一年間。それも五年前のことだ。
 部活動が一緒だったわけでもなければ、班も同じだったことはないように思われる。挨拶を交わしたことがあったかどうか、それさえも怪しい。けれど一方的な視線だけは彼から彼女へ、数える程度ではあるものの送られたことがあった。
 それが恋であったのか何だったのか。彼は自分のことながら未だによく解らない。ただ、何となく彼女が気になった。
 成人式でもなく普段着の、着物を着た彼女の写真は儚げな印象を受けた。色が白いせいかもしれないし、穏やかな彼女の性格がそう思わせたのかもしれない。僅かに上げられた口角が寂しい笑みに見えるのは気のせいであって欲しいとそう思う。
 焼香の列に並んでいると周囲から他の参列者の声が聞こえてきた。その話はどれも決して楽しい話題ではなかった。
「お姑さんに虐められてたって本当かしら」
「違うわよ、一族全員からでしょ。当たり前だけど、血の繋がりがないのはお嫁さんだけだもの」
「嫁に入っても余所者には違いないものね」
 若いのにかわいそうだとか、他に言うことはないのかと彼は思った。
「旦那さんが庇うなり気を遣ってやるなりすればいいのに」
「そういうのって意外とできないもんよ。そもそもそんな気なかったのかもしれないけど」
「まあ古くからある大きな家だものね。しきたりっていうのかしら。面倒そうよね」
 聞きたくないのなら耳を塞いでいればいい。それをしなかったのは自分の中に少なからず野次馬根性のようなものが存在しているからではないのか。そう考えて彼は自己嫌悪に陥る。
 自分も他の参列者と何も変わらないのだ、と。
 傘の柄を握った手が冷たい。どんどん体温を奪われているようだった。
 他の参列者と自分は違う。自分だけは真摯に彼女の死を悼んでいる。そんな妙な驕りが存在していた。彼女自身は彼のことなど覚えていなかったかもしれないというのに。
 窓から差し込む光に包まれながら休み時間に本を読んでいた彼女。漆黒の髪が煌く。白い肌。柔らかな笑顔。
 それらが彼の彼女に対する幻想なのだとしても、例えるならそう――彼女は天使だった。

 焼香を終えて、帰ろうとしたところで彼はかつてのクラスメイトに会った。
「俺も驚いたよ。まさか自殺だなんてな……」
「何が、あったんだろう」
 彼女に問い掛けるように彼は呟いた。クラスメイトとの会話は正直どうでもよかった。誰かと話したいと今は思えない。
「嫁ぎ先に馴染めなかったのかもな」
「……馴染めなかったからって死ぬことないじゃないか」
「え?」
 独り言のように、いや彼は相手に聞かせるつもりで言葉を発してはいなかったから、ようにではなくそれは確かに独り言だった。いつの間にか彼女の死に対して悲しみだけでなく、怒りが湧いてきていたのだ。
 ――君は天使じゃないか。
 何故そこから出て行かなかったんだ、その翼で。 
 随分自分勝手な主張だとは思う。彼女が抱えていたかもしれない悲しみや辛さをほんの僅かでも理解してやれているわけでもないのに。彼女が死んだ後でいくら喚こうと、もうどうにもできないというのに。
「死ぬこと、ないじゃないか」
「おい、どうした」
 目から突如涙が溢れ出た。クラスメイトも彼の様子に驚いて思わず顔を覗き込む。
「お前……そっか」
 何かを納得したのか、クラスメイトは彼の肩に軽く手を乗せると数回叩いた。そして何も言わなかった。

 彼女の本当の姿を目の当たりにしても、当時抱いていた彼女への幻想は恐らく生涯消えないと彼は思う。
 その背中に翼を持っていなかったのだとしても、彼女の天使の面影は消えない。そして同時に本当に天使であったならと切に思った。
 どこにでも彼女が望むところへ行くことができたならと。

11/1/28




もしも彼女が飛べたなら


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