街灯の明かりだけが辺りを照らす中、静かな夜の街を男女はゆっくりと歩いていた。吐く息は微かに白い。少し湿り気を帯びた寒さに身を震わせ、男は上着のポケットの中に手を突っ込んだ。そして先を行く女の背中を見つめる。どちらかといえば小柄で、背はさほど高くはないはずだが、背筋のきれいに伸びたその歩き方のせいか実際よりも高く見える。
 好意というものはつくづく厄介なやつだと、男はそこで思った。
 恐らく彼女の歩き方とは、ごく普通のありふれたものに違いないし敢えて言う程背筋もきれいに伸びていやしないのだ。それを背筋がきれいに伸びているだとか、その後姿をいいなと思ってしまうのは、紛れもなく彼女に対する想い、好意がそうさせているに違いなかった。
 きっかけは忘れてしまったが、気が付けば彼女のことを目で追うようになってしまった。そんな自分に舌打ちをしつつも、いくら腐っても己も人間なのかと、どこか感慨深い思いもあった。そんなことを彼女の背後であれこれ考えている自分に突如羞恥を覚えて、それを紛らわすように相変わらず彼女の背中を見つめながら、男は呟いた。
「お前も冷たい女だな。陳腐な言葉だが、好き合ってた仲なんだろ」
 彼女は足を止めたりはしなかった。
 女は今まで個人、フリーで仕事をしていた。彼女の一匹狼ぶりというのはその筋では有名で、多くの組織が彼女の腕を欲したが今までスカウトに成功したものはいなかった。しかしどういう方法を用いたか、男の上司が交渉を重ねに重ね、ようやく組織の一員になることを承諾したのである。組織のトップに会う為、二人は行動を共にしていた。
 そんな彼女には想い人がいた。
 彼女が決断したこととはいえ、彼との、愛しい男との突然の別れにも関わらず、少しも慌てることなく既に纏めてあった荷物を手に男と共に来たのだ。
 ――嫉妬なんてものは混じっちゃいない。男は自分にそう言い聞かせていた。それでも、茶化すように言葉が出てしまったことに幼稚さを感じて、決まりが悪かった。もしこの場に、憎たらしい同僚のあの男がいたら会う度にこのことをネタにされていただろう。そんなことをふと考え、今ここに二人きりであるのがこの上なく幸いなことのように思えた。実際、好意を抱いている相手と二人きりなのだから幸いには違いない。
 女は言葉を発さなかった。無視しているというより、話す気がないのかもしれない。
「まあ、別れを惜しんだところでどうにもならないか」
 嫉妬やその他のあれこれは置いておくとして、彼女の冷淡に思えるその素振りに男は疑問を覚えていた。単純に、その真意を知りたいという気持ちがあったのだ。
 期待を込めて彼女の背中に視線を送るが効果はいまいちのようで、男が諦めかけた時、ようやく彼女の口は開かれた。
「私の、自己満足です」
 小さな声だった。静寂に包まれた夜の街では、その声量が相応しいものに思えた。
「自己満足だって? ろくに別れを言わないのがか」
 彼女に反応があった、そのことを素直に喜んだのも束の間、彼女の意図が見えないことに思わず大袈裟な声を上げてしまった。彼女の声に比べると、実に荒っぽい声である。
「真実を知りすぎる。それは時に不幸になるということですよ」
「俺にはさっぱりだな」
 彼と別れの言葉は敢えて交わさなかった。最後だからと言い訳をして自分を甘やかせば、心は揺らぎ、離れられなくなると彼女はそうなる自分を解っていたからだ。しかしそれだけではない。
 別れ際に抱き合いながら言葉を交わして――その時、認めたくないものを彼の雰囲気から予感してしまったらどうすればいいだろう。彼女はそれを恐れていた。
「待っていてくれる人がいるというのは、とても幸せなことなんです。私達のような、人を殺すことを生業としている者は敢えて感じないようにしているのかもしれませんが。でもそれは思っている以上に幸福なことです。そして待っていてくれると、信じることも」
「あんた……」
 いつの間にか二人は立ち止まっていた。それでも彼女は振り向かない。だから、男は女の前に回りこんだ。そして彼女を正面から見る。
「待っていてくれないかも。勘違いでも、そう思ってしまったら終りです。幸せではいられない。だからこれは臆病な私の、エゴ以外の何物でもないんです」
 その声音は弱々しかった。悲しみで震えていたのかもしれない。それなのに彼女は微笑んでいた。まるでエゴを貫き通せたことに満足しているかのように。
 自分が彼女の姿を目で追ってしまうように、彼女が自分のことを目で追ってくれる日が訪れることは生涯無いであろうことを、彼女を見て男は悟った。失恋だった。だがそんなことよりも、今も絶えず穏やかさを湛えている彼女のことが心配で仕方がなかった。
「そんな話、どうして俺にするんだ」
 虚勢を張るのも忘れて俯き加減で呟いた。彼女の視線を感じる。それがあの男に向けるものと異なっているのだとしても、そこに嫌悪は含まれていないように思えて顔を上げた。
「これから仕事仲間になるわけですから、チームワークは大切、でしょう? ひとりが長かったもので協調性はやはりまだまだ足りないでしょうけど」
 顔を隠すようにかけられた黒い縁の眼鏡の向こう、眉を下げて笑う彼女の表情が見えた。普通の人間らしいように現れるそれに心を動かされる。想いが相手に届くかどうかなど関係なかった。――これが自己満足か。男はひとり納得していた。
「真実はうやむやにします。それで幸せでいられますから」
 決意を新たにするように彼女は言った。そしてそっと歩き出す。暫く後姿を見つめてから、男も続いた。
 街灯の明かりに彼女の色素の薄い髪が透き通って見える。彼女への好意による贔屓目だと分かっていながらも、やはり彼は、それを美しいと思った。

10/11/20




もしも彼が待ったなら


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