「オネーサン、暇ァ?」
しかし冴えない男がへらへらと笑って、横にぴったりくっついて歩くのに気付き、そこでヴァローナの苛立ちは頂点に達した。歩みを止め、向き直る。
「目的地に向かって歩行中でしたが、現在正体不明の男性に歩行を阻害され大変遺憾です。私の視界からの即刻退去を要求します。何をどう推測し私を暇だと認識するのか、甚だ疑問です」
「えぇ、何ですかそれ、日本語?中国語?」
男はけろっとしたままヴァローナの側を離れない。相手にすべきではないと頭ではわかっているのだが、このような類いの連中に何か一言言ってやらねば気が済まなかった。これで本日七回目である。
「日本語ですが」
「これから何するの?暇でしょ?」
ヴァローナの最大限苛立ちと怒りを込めた口調は、悲しいかな目の前の男に通じない。
「暇、再度否定します。昼食を取って…」
「おっ昼飯?いいねえ、俺も腹減っててさあ」
次第に二人の周りを避けるようにして人が通り過ぎて行き、そこだけぽっかりとよくわからない空間が生まれる。若い外国人女性に絡む柄の悪い男。ヴァローナもヴァローナで相変わらず生真面目なので男の質問にはきちんと答える。
「なぁてめえ、何やってんだよ?」
男がヴァローナの右手首を取った時、真後ろから低く唸るような声がしてヴァローナははっと振り返った。自分に向けられた言葉かとも思ったが、サングラス越しの眼差しは男の方に注がれていて、ヴァローナの方など見向きもしない。
「お前誰?」
「こっちが聞いてんだよ、俺の後輩が嫌がってるだろうが。とっとと失せろ」
ヴァローナは、こんな表情の静雄を初めて見た。静雄の感情というのは大まかに言えば基本的に二つで、怒り狂うか、そうじゃないかだ。それが今は、眉間に皺を作り確実にキレている、キレているのだが、それをなんとか収めようと必死で歯を食いしばっている。
「このネーチャンは今から俺と昼飯すんの。先輩は引っ込んどいてもらえますかねえ」
「…わりィ、間違えたわ」
この男は平和島静雄を知らないとでも言うのだろうか。当事者のくせに二人の間でそんなことを考えているヴァローナだが、男に掴まれたままの右手がさっと払われ、ふいに両の膝裏を持ち上げられ思わず抱き付いた先が静雄の首元であることに気付いた頃には、いつもより高い視界に野次馬の視線を浴びることとなった。
「俺の彼女」
静雄はそう言うと、踵を返して歩き始める。
「お、おい、てめえ!」
横抱きにされたまま、ヴァローナは何度か口を開き、閉じ、また開きかけては閉じてを繰り返した。静雄は依然としてヴァローナを見もせず、声もかけず、長い足で人々の流れをすり抜けて行く。ぎゅっとしがみついた首筋から、煙草の匂いがする。
「先輩」
合流場所の近くのベンチに体を下ろされ、ヴァローナはようやく静雄に声をかけた。静雄もよっこらせと隣に腰掛け、そこで初めて目が合った。眉間の皺はいつの間にかなくなっている。
「んですか、彼女さんよ」
「感謝と、あと、それと、謝罪します…」
「お前、いつもあんなんなのか?」
「五分五分です」
静雄はその意味を計り知ることも無く、ただ蝶ネクタイに軽く手を遣りながら、そうか、と言った。
「暫くは撤回しねえからな、彼女って」
「…了解しました」
ヴァローナはこくりと頷く。
「はあ、まじで、肝冷えた」
二人ともが、柄にも無く緊張していた。