映画とそれから
「映画のチケットなんざ、初めて貰った」

春先である。このご時世何とか決算期を乗り越え、人事異動や新卒配属(こんなろくでもない会社で社会人一年目をやり過ごそうとする若者がいることに、静雄は驚きを隠せないのだが。)やらで胡散臭いオフィスの顔ぶれが一新され、ついでに俗に言う"お宅訪問リスト"の顔ぶれもまた更新されることとなった。人々が新しい環境に少しばかり浮き足だち、お客様方が春の陽気に誘われいかがわしいビデオにせっせと借金をこさえている頃、しかし静雄はまったくもって浮かない顔をしたまま、半期に一度客が来るか来ないかの応接室のソファに座り込み、テーブルの上のそれを見つめていた。隣にはヴァローナがきちんと膝を揃え、僅かに身を乗り出した格好で同じようにその紙切れ二枚に目を落としている。

「日本では映画のチケット取引が横行しているものと認識します」
「ロシアでもよくあんのか?」
「否定します。日本の文化においての話です」

凡そ見当違いだが素朴な静雄の問いに、ヴァローナは話を戻そうと即答した。

「いやあ、ねえだろ」

そもそも静雄は映画などあまり興味もない。最後に映画館に行ったのは小学生の頃だ。母親に連れられ、夏休みに上映されていた子供向けの冒険ファンタジー物を観た。弟も一緒だった。開始五分、スクリーンに映った犬だったか猫だったかが器用に口を動かしてべらべらと日本語を話すのに我慢ならず、静雄少年はそこでキレた。それ以来映画館には行っていない。映画の無料招待券とかいう"ベタ"ではあるが実際には誰も見たことのないような代物が、まさか自分の手に渡ってくることになるとは。

「しかし書物で読みました」
「そんなに出回ってんのか、これ」
「恋愛関係未満の若い男女が思いがけず映画のチケットを入手。動物園の入場券に成り代わることもしばしば。その後男女が肉体関係を結ぶ展開は日本において極めて一般的な事例であると推測します」

静雄はぎょっとしてヴァローナを見た。これで当の本人は至って大真面目に話をしているのだから敵わない。別にヴァローナは映画の後で静雄にそういう展開を期待しているわけではない。わかってはいるのだが、陶器のように白く滑らかな四肢を惜し気もなく晒け出して、無償で映画を見ることの出来るチケットを前に何故かぱっとしない表情の静雄を、不思議そうに観察している、そんな純粋で聡明な可愛い後輩の口から、肉体関係などという不埒な言葉はあまり聞きたくない。

「ヴァローナ、そりゃあなあ、恋愛小説の話だ」
「成る程」
「それにほら見ろ、『コスモ星人vsスーパーミドリムシ』だぞ」

ヴァローナは、静雄がそう言って溜め息を吐き出しながら時計をちらと見、のろのろと立ち上がって喫煙所へ向かう背中を見送った。先輩の不満事項を言外に窺い知り、改めて置き去りにされたチケットに目を遣る。

「…スーパーミドリムシ」

全く未知の生物である。それに加え、ヴァローナはあと五分もすれば一服を終えた静雄が何だかんだと言いながらも自分を連れて出かける用意を始めるだろうことを知っている。静雄とは対称的にはやる気持ちを抑えきれずそそくさと室内履きのスリッパを脱ぎ捨てブーツに足を通すヴァローナの姿に、トムは書類を片手に目を細め、俺も一服してえなあとごちた。

そもそも、二人に映画のチケットを渡したのはトムだった。四月も下旬、報告書に月報にとてんてこ舞いのトムは、この金髪二人の部下を文字通りもて余していた。ストッパーとなる自分がいなければ静雄もヴァローナも取立てには行けない。一度だけ二人で行かせたことがあったが、あんな報告書は二度と御免である。そんなこともあって、ちょうど部下二人が事務所内で押し黙り印鑑押しに徹していた時、取引先のオーナーがひょっこり顔を出した。何しろ映画配給会社の株がどうとかで、トムとは長年の付き合いもあり、手短に仕事の話を済ませるとそのチケットを愛想笑いのトムの手に押し付け、嵐のように去っていった。背を猫のように縮こまらせて今にも爆発しかねない静雄と、一見何時間でも同じ姿勢で社印を押し続けるヴァローナの両足が動き出したくてたまらないといった風にせっかちなリズムを刻んでいるのを見て、トムは左手に握ったチケットをそのままに二人に声をかけたのだった。


「ヴァローナ、ポップコーン食うか?」
「映画鑑賞にコーラとポップコーンは付き物です」
「俺もそう思う」

映画館の入ったショッピングモールまでは歩いて行った。二人とも少し小腹が空いていて、迷うことなくLサイズのポップコーンを買う。塩味もあったが、勿論キャラメル味を選んだ。ヴァローナは自分でコーラと言っておいて、少し考えた後に烏龍茶に決めた。静雄はやっぱりコーラを買った。こういう時に型に捕らわれないのは案外ヴァローナの方だったりするし、静雄は静雄で映画はコーラに限ると思い込んで聞かない。そんなお互いのことが少し気になるものなのだ、おそらくは。

「トムさんに何か買ってかねーとな」
「映画関連商品のいずれかを示唆します」
「後で買いに来んの忘れないようにしねーと…まあヴァローナがいるから大丈夫か。お、そういやあここって…」
「今話題のロールケーキ専門店が二階フロアに存在、今朝の情報番組で視聴しました」
「よし、映画の後に食いに行くか、ロールケーキ」
「同意します」

それからあっちにこっちにとその後の予定を立てながら、静雄とヴァローナはポップコーンと各々の飲み物を両手にシアターに入った。開始十五分前になって席についても、客は二人の他に数人程度だった。

「静雄先輩」
「ん?」

照明が少し落とされて、スクリーンでは近くの美容整形外科のコマーシャルが流れている。ヴァローナの呼び掛けに、静雄が左横を向く。

「先輩の不機嫌は払拭されたとの認識は可能ですか?」
「…不機嫌って、俺がか?」
「肯定します。しかし現在は微小ながらも口角の向上を確認。不機嫌と異なる感情を抱いているように推測します。感情の提示を要求します」

ヴァローナは静雄を見つめた。静雄の不満事項が映画の内容であることに変わりはなく、むしろ映画が上映されようとしているにも関わらず、静雄は穏やかな表情で大人しく席についている。スーパーミドリムシが気に入らないんじゃなかったのか。

「いや、楽しい」

静雄はできるだけ優しく聞こえるよう、そう言った。一刻前までは確かに不機嫌だったかもしれない。映画というだけでもどうにも気が進まなかった上に、スーパーミドリムシって何なんだ。映画チケットがトムからのものでなければ、とっくに破り捨てているところだ。だが今はそんなことなどどうでもいい。後輩に気遣いをさせてしまったことが情けなくて、此方を見つめる真っ青な瞳を真摯に見つめ返し、静雄はヴァローナの頭にぽんぽんと軽く触れて答える。

「ありがとな。お、始まるぞ」

静雄はそう言ってスクリーンを見た。ヴァローナは禍々しいBGMと共にタイトルロゴが消えるまで静雄を見つめていたのだが、何も言わず同じくスクリーンに向き直った。静雄に触れられた拍子に、耳にかけていた金髪が一束落ちて頬にかかるも、ヴァローナには何故だか直してしまうのが勿体無いと思われる程だった。


「おお、おかえり。どうだったよ?」

静雄とヴァローナがオフィスに戻ったのは日も暮れた頃だった。二人が不在の間、トムはすっかり書類整理を終わらせて、事務の女性社員らの二人に関する噂話をのらりくらり交わしていた。映画デートを仕向けるなんて田中さんも粋ですね、云々。そこへ渦中の部下二人が帰還し、女性社員たちは蜘蛛の子を散らしたようにデスクへ戻り、好奇心に満ちた眼差しで此方の様子を窺っている。

「コスモ星人の卑劣とも呼べる戦闘能力にスーパーミドリムシは成す術無し、残念無念」
「…は?」
「あ、これトムさんにお土産っす。大したもんじゃねえんすけど」
「おう、悪ぃな、気遣わせちまってよ。…こりゃあ、何の柄だ?」

ハンドサイズの布切れに、得体の知れない黄色い人型の生物がびっしりプリントされている。

「コスモ星人の眼鏡拭きっす」
「静雄先輩がコスモ星人に肩入れする理由を把握しかねます。私はスーパーミドリムシの眼鏡拭きをと再三…」
「だってお前、わざわざ全滅した方の柄ってそりゃねえだろ」
「…敗者の奮闘の証です」

ヴァローナがわかりやすく頬を膨らませたところで、トムは頭を抱える。

「待て待て、お前ら、映画観に行ったんだよな?」
「…?うっす」
「肯定します。トム先輩の健忘症の可能性を心配します」

けんぼうしょーって何だよ?そう言って首をかしげた静雄の口元に生クリームが付いているのを見つけ、トムは自分が映画のタイトルを確認しなかったことを忘れてけらけらと笑った。そんな春先の事である。



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