言われていた書類の処理を全て終わらせても、上司は帰って来なかった。洗濯物を干して、掃除機をかけて、夕飯を用意しているうちに外は真っ暗になって、それでも帰らない。遅い。いつも意味も無く電話を寄越すくせに、今日に限ってそれもない。どこかでのたれ死んでいるかもしれない。東京湾に沈められたりして。
「ただいまー」
そんなことを考えていた矢先に、玄関の方から鍵を開ける音がして、すぐに間延びした声が続いた。東京湾は免れたらしい。
「お帰りなさい」
「…今日は疲れた」
「ちょっと、コートのまま寝っ転がらないで」
「ごめん」
「夕飯は?」
「いらないや」
「そう」
焼かずにオーブンにセットしていた茄子のグラタンはラップをかけて、冷蔵庫に仕舞った。明日の昼食にでもすればいい。キッチンに用意した二つずつの食器やグラスも棚に仕舞う。
「どうしたの」
「疲れたんだよ」
居間では上司が着の身着のまま身を投げるようにソファに突っ伏して、顔を埋め、それきり動かないでいる。背中を丸めてぐったりして、覇気の欠片もない。私はもう一つのソファに腰掛けて、読みかけの雑誌を手に取って、頁を広げて、それから閉じた。またキッチンへ向かう。珈琲を入れてテーブルに置いてやると、上司はむくりと起き上がり、何かぼそぼそと口を動かしたが、あまりにも小さい声だった。特に伝える気もないのだろう。膝の上に置いた雑誌を読み始める私と、黙って珈琲を啜る上司。
「…俺、車持ってないんだ」
「知ってるわよ」
暫くして、突然そんなことを言い始めた。
「波江さんさあ、どこに置いてるの、車」
「マンションの駐車場だけど」
「どこかドライブに行こうよ、海沿いをさ、適当に」
「何が楽しくてあなたとドライブなんかしなきゃいけないのよ」
「だって俺、免許すら持ってないし」
「ほんと甲斐性なしね」
「いいだろ。それにまだ九時だ」
「もう九時よ。海沿いだろうが山道だろうが真っ暗じゃない」
「別に自然の景色を見たいわけじゃないよ」
「じゃあ何しに行くのよ」
「だからドライブしに」
「何のために」
私はずっと雑誌から目を離さないまま、上司は空のカップを両手で包むようにして持ったままだった。
「波江さん、そういう不毛な思考はどうかと思うよ」
「ドライブほど不毛な行為もないと思うけど」
私が雑誌を置くと、上司もまたカップを手離した。
「さっさと上着を脱いで、ハンガーにかけて」
「これからドライブに行くのに?」
「行きません」
「頼むよ」
「お断りします」
「じゃあ一生のお願い」
「その台詞、今月に入って四回目」
「波江ー」
ついさっきまでの死に際の猫みたいなしおらしさが懐かしい。こうなったらてこでも動かない。
「本当にうるさいわね。一生のお願いの使いすぎで、早死にすればいいんだわ」
トレンチコートを羽織って、鞄を肩にかける。本当にこの上司は馬鹿だ。今から二人連れ立って、マンションまで二駅電車に乗って、それから車に乗って行くあても無く私に運転させて、そうしてまたマンションに戻って、二駅電車に乗って、帰って来るのだ、此処に。こんなに無駄なことってない。
「えっ」
「早く仕度しなさいこの幼稚園児」
「いいの!?」
「部屋の電気消して、あとエアコンも」
帰って来てから茄子のグラタンを食べる。そう決めた。