「…めーちゃん?」
それから暫く経った頃、ふいに私を呼ぶ声がして驚いて顔を上げる。まだ小さかった時からの呼び名と聞き慣れた柔らかい声色に、私はまた泣きそうになりながら振り返った。新聞配達に少し煤けた白いシャツを腕まくりして、湿った夜風に汗を拭く彼が、確かにそこにいた。
「カ、イト」
「こんなところで何してるの、夏風邪だっていうからさっきめーちゃんちにお見舞いに行ったのにいないし、おじさんもおばさんも心配して、」
彼は一気にまくし立てると隣に座って私の顔を覗き込む。いつもの彼だった。
「…ごめん、」
「何かあった?」
「…な、にかあったのはカイトの方でしょ…?」
絞り出た声は驚くほど情けない。そっか、そう言って私の背をとんとんと叩いてはあやす彼が、ひどく大人気に映る。頑として泣き出すまいと海を見つめる私に、彼もまた同じようにその静かな海に目を遣ったようだった。
「…わ、私、」
「うん」
「そんな、うれしいとか、思えない」
「うん」
「…いやだよ」
声が震えた。
「そっか、参ったな」
彼は眉を下げて少し笑い、そう言ったきりぼんやりと海を見つめたままでいる。背を叩いていた無骨な手の平は今私のそれに優しく置かれて、存外冷ややかな温度に私は縋った。何がこの手に銃を握らせるのだろう。国か、時代か、それとも決まりきったことなのか。私はきっと許すことができない。
「めーちゃん」
「うん、」
「秋が来たら京都に行って、冬は四国がいいなあ。春は鹿児島の桜を見て、夏には北海道のラベンダーがあったね」
「…え?」
「遺骨も何も残らないだろうからさ、せめてめーちゃんが思い出す俺を連れてってくれないかな」
新聞配達の仕事をし始めた頃くらいから、彼は学校を出たら旅をするのだとよく私に話して聞かせたのだった。
「カイト、そんな…」
「あっというまに一年が終わるよ。そしたら俺を忘れてくれたって構わない」
「やめて…、」
戻って来てよ。そう言い出せなかったのは戦死を尊ぶ悍ましいこの国のせいで、涙で喉が押し潰されたせいでもあった。行かないで。あんたがいなきゃ私、どうして生きていけばいいの。とうとう泣き出してしまった私に彼は私の肩を横抱きにして、止まらない涙を拭う。
「めーちゃんは綺麗なんだから、俺なんかのためにくよくよ泣いてちゃもったいないよ。ちゃんとご飯食べるんだよ?たくさん恋して…あ、だけど変な男に引っかかっちゃだめだよ?」
心配だなあ、と言って彼はまた笑った。本当に優しい笑顔で、彼は私に意地悪を言う。彼じゃなきゃだめなのに、彼はそれを知っているのに。
「明日、見送りに来てくれる?」
「…待ってる、ずっとここで、帰って来るの待ってるから」
あの時、彼は私に来ていた縁談の話や、私の両親が彼の家柄をよく思っていないということを知っていたのだと、私は今になって知り得た。息子は家の名誉なのだと言う彼の母親はしかし目を真っ赤に泣き腫らしていて、彼の日記帳を私にくれた。私のことばかりでろくに自分のことは書かれていない、日記というよりも走り書きやメモに近いそれを、私はもう何度も何度もめくっている。終戦は、彼が亡くなったという知らせが入った次の日のことだった。
春は桜、夏はラベンダー。私は京都であなたを待つ。