ふたりよがり
朝九時。絶対に意味のないタイムカードを押してオフィスに入る。私一人の為にわざわざ玩具みたいな機械を買って、彼自ら私の名前を書いて、それから秘書の二文字を綴る様を私はその時呆れて眺めていた。彼はさも嬉しそうに口角を上げて、遅刻でもしたらこれですぐわかると、意気揚々に捲し立てたものだ。無機質な数字で徐々に埋まっていくカードが、あれから随分経ったことを如実に示している。二枚目はきっと彼が私の知らぬ間にこっそり準備しているのだろう。そして新しく取り替えられたことに驚く私を見て、彼はやっぱり悪趣味に口角を上げるのだ。見え透いた彼の行動を思い浮かべて、私は溜め息を溢す。今日はどんな憎たらしい物言いでくだらないジョウホウを露見してくれるのだろうか。私たちの間に挨拶はない。無言でオフィスのドアを開けて、目も合わせないまま無言でコーヒーを用意する。そしてデスクにそれを置いてそこで初めて、せわしなくキーボートを叩いていた彼が私の方を向き、今日も定刻通りだとまるで遅刻を期待していたかのようにわざとらしく肩を竦めるのだった。だがしかし、私がドアを開けてみると、そこには革張りのチェアに身を縮こまらせて顔を伏せるいつにない上司の姿があった。パソコンの電源は切られたままだ。私が入ってきたことに気付いて、彼は徐に顔を上げる。気だるそうな、それともただ不機嫌なだけか。此方をぼうっと見つめて、その癖何も言い出さない彼に辟易としたから、私は来賓用ソファにバッグを放り投げてデスクの方へとスリッパを動かす。

「どうかしたの?」
「頭が痛い。それから寒い」

近付いてみると小刻みに震えていた。その一方で前髪がびっしょり汗に濡れている。呆れたものだ。彼の額に手を遣る。されるがままの彼の、湿った視線が絡まる。こういうのは余り当てにならないのだが、それにしてもすぐに普通より熱っぽいと思った。再び両膝に顔を埋める彼を余所に、私は戸棚をあさる。前に持ち込んだ薬箱の中に、確か体温計があったはずだ。彼は依然うんうんと呻っている。

「熱計って」
「あぁ、もうだめだ、死にそうだ…」
「大丈夫よ死なないから」

伸びきった黒いVネックが更に伸ばされて、そこから痩せぎすに浮き出た鎖骨が覗いていた。脇に挟んだ体温計が時折ずれるのも気に留めず、彼は堰を切ったように身振り手振りを交えて話し出す。今しがた死にそうだと宣った奴がよくもまあいけしゃあしゃあと。私が薬箱を引っ掻き回して目もくれないことなどまるでお構いなしだ。

「風邪なんて久し振りだなあ、あぁ、たった今誰かが俺を殺しに来たら俺は間違いなく死んでしまう。なーんにもできずに。返り討ちにすることも逃げることもできない。死ぬ前に波江の手料理が食べたかったよ、せっかく親知らずが揃ったばかりなのに」

ほらここ見て、彼はそう言って(言ってる間にもぶるぶるとその膝を震わせ、そして咳き込みながら)口を大きく開いてみせる。親知らずが揃ったから、だからってどうかなるわけじゃない。私の料理がより美味しく感じられるわけでもないだろうに。この人はたまに矛盾だらけの、常識に欠落した言いがかりをさも理屈っぽく口にする。そしてすぐに生死の問題として事を荒げるのも、また得意とするところだ。ピピ、ようやく体温計が鳴って、彼はその液晶画面を一瞥もせずぐいと私に差し出した。エラーの文字が点滅している。思った通り。

「減らず口叩いてるからだわ、もう一回」
「面倒だな…波江、計ってよ」
「黙りなさい」

水を注ぎにキッチンへ行く途中そう言い捨てると、彼は堪忍したのか今度は何も喋らずに、一度体中を大きく震わせて、そしてまたうんうんと呻り始めた。まるで子どもだ。私は思った。それもどうしようもなく我儘で身勝手で、大人の神経を逆撫でするような、癪に障る厄介な子ども。幾つかの薬と水の入った紙コップをデスクに置く。これを飲ませたら寝室に行かせて、それから今日の仕事はキャンセルだ。あまり使っていないらしい寝室の準備をしようとソファを立つと、タイミング良く二度目の体温計が鳴った。今度こそ計れているだろう。彼が液晶画面を見て、何やら嘆き声をあげている。もうだめだ、彼は言って私にそれを見せる。39.6℃、重症だった。べらべらと口を動かす気力すら残っていないらしい。私が言うより早く、彼は錠剤を水で流し込む。もうだめだ、彼はそう繰り返した。

「どうしてこうなるまで放っておいたの」
「弁明の余地もないね」
「医者を呼ぶ?」
「…いやだ、あんな闇医者まっぴらだ。ベッドに行くよ」
「じゃあ先に着替えればどう?」
「あぁ、これも部屋着みたいなもんだし」

熱く汗ばんだ彼の手を引いて寝室のベッドに寝かせる。いつもソファで眠ってしまうのだという彼の、その寝顔を私は見たことがない。彼が目を瞑ったのを見届けて、私は部屋の明かりを消した。寝苦しそうに眉間に皺を寄せている。後でこっそりあの医者を呼ぼうか。そっと部屋を後にしようとすると、布団からはみ出た彼の右腕が私を呼び止めた。

「どこ行くんだい?」
「どこにも行かないわ。眠れば治るから、ね?」

言い聞かせるように私が布団を掛け直しても、なおその右手は私の手首を掴んで離さない。緩やかで、しかし燃えるような力があった。私はゆっくりとベッドの端に腰掛ける。前髪を掻き分けてやれば、彼がうっすらと目を開けて自嘲気味に笑った。

「…嫌だな、なんだか俺だけが不幸みたいだ」
「いつも人の不幸を面白がってるのは誰だったかしら」
「意地悪言うなよ」

言って目を閉じた彼のあどけない寝顔を、私は暫く見つめていた。一日の始まりを知らせる喧騒がかすかに聞こえて、それが彼を起こしてしまわないかと、思いがけずそんな心配さえしながら。


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