気が遠くなりそうなくらい長い時間をかけて殺してよ
先輩方より遅く出勤するわけにはいかないと、律儀な彼女は頑なだった。トムさんが気を使うなと散々説き伏せても一向に聞く耳を持たず、結局俺がどんなに早く事務所へ赴いたところで彼女はいつもソファに姿勢を正して待っているから、俺もトムさんも半ば諦めてしまっていた。彼女が俺たちを出迎える際、無表情の片隅に満足げな笑みをこぼすことに気付いたのはつい最近のことだ。

「…おい、ヴァローナ?」

だから、まるで主人を待ちわびる子犬のように喜々として出迎えにすっ飛んで来るはずの彼女が幾ら待てど現れないこと、そして明らかに彼女の気配のする事務所の一室が電気すら点されていないことに、俺は違和感を覚えずにはいられなかった。厚いカーテンの隙間から僅かに漏れ出す光を頼りに電気を点ける。そこに彼女はいた。背を伸ばし足を揃え、しかしどこか一点をぼんやりと見つめている。俺は思わず目を見張った。ノースリーブのシャツから剥き出された細く青白い二の腕には幾重にも掠り傷がつけられ、ところどころに痛々しい打撲傷が赤黒く彼女のその四肢を色付けている。ほっそりした脚を包むデニムはあられもなく破かれて、そこからどくどくと血が滴っていた。金色をした綺麗な髪は土埃に霞み、口の端から垂れたのであろう血痕は乾ききって、そのくせ顔にいかなる表情すら張り付けず、ただただ座っている。

「先輩、お早う御座います」
「ちょっ…お前、その傷」

あっけらかんと、彼女は此方に気付くとそう言って、ぺこりと頭を下げる。何でもないのだと俺に、そして自分に言い聞かせるような、そんな視線だった。動揺する俺に彼女は続ける。

「心配は無益です」
「どうしたんだ。何があった、誰にやられた」
「質問過多、答えること困難です。先輩」
「ぼろぼろじゃねえか」
「肯定です、しかしすぐに回復可能。よって心配の必要性は存在しません」
「んなわけねーだろ、」

同じような遣り取りが押し問答の如く繰り返され、これでは埒があかないと、俺は押し黙ってしまった彼女の手当てをすることにした。どうやらこの原因について言及する気はさらさらないらしい。此方とて特に問い詰めるつもりもないが、言い知れぬ苛立ちと焦燥に駆られたのもまた事実で。

「…ありえねえ」

消毒液で滲みるはずの傷口を人事のように無表情で見つめる彼女が、俺の呟きにふと顔をあげた。きっと痛いだろうにと思った。暗闇の中で、きっと心細かっただろうにと。

「あーなんか沸々とムカついてきた。ほんとまじでよ、ただじゃおかねえから」
「待機を要求します、先輩出る幕異なります」

微かに慌てた素振りを見せて、彼女が立ち上がった俺のシャツの袖を握って引き止める。俺には関係ないとでも言うつもりだろう。そうやって一人で何もかも片付けようとして、結果この有様じゃないか。ああ、我慢ならない。

「いや、お前のこと言ってんの俺は」
「…はあ」
「何やってんだてめえ。アホか、つーかアホだろ。可愛い後輩にこんなこと言う俺もアホだけどなあ…今度一人でのこのここんな傷こさえてみろ、ぶっ殺すぞ」

はっと気付いた時には口走った言葉を飲み込むことすらできず。本末転倒の様な脅し文句に、俺はシャツを握って離さない彼女の手を咄嗟に取り、

「あ、今のは言い過ぎた。なんだ、その、殺すから」

よくわからない弁明を一つ。彼女を見遣れば怯えるふうでもなく、しかしはっきりしない遠回しな俺の言葉をこれ以上追及するふうでもない。ただ俺の目を真っ直ぐ見つめ、こくりと首を縦に振る。

「…了解しました」
「わかればよし」

血に塗れた薄い手の平を、俺はこれ以上傷付けてしまわぬよう、決して綺麗とは言い難い瘡蓋だらけの両手でそっと包み込んだ。眉を下げて微笑む彼女に、気を緩めると抱きしめてしまいそうだった。



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