「待って待って、お妙。これ着けてってよ。あんたにあげる。今日薄着だったでしょ、外寒いんだから」
身仕度を終え、裏口から帰ろうとすると、彼女がそう言って私を呼び止め、軽く柔らかな襟巻きを私の首に巻いた。とても質の良いものだと一目でわかるような。確か幕府の高官から贈られた物だったはずだ。父親くらい年の離れた男だった。
「…おりょう、ごめん」
「まったく水臭いんだから。この間セクハラ野郎退治してくれたお礼よ」
店を出ると、まだ夜も更けきらないせいか彼女の言う通り、身を芯から凍らせる底冷えの寒さに震えた。襟巻きに顔を埋めながら、歓楽街を通り抜けて行く。見慣れているのは仕事帰り、しんと張りつめた空気が清々しい朝焼けばかりである。子供騙しの玩具にも似た安っぽいネオンを振り撒いて、男女が肩を寄せ合って、客引きが盛んに声を上げ、とても同じ街とは思えない。渦中にいれば何だって見えなくなるというもの。ふと、先程相手にした男の顔がちらついた。立ち止まって俯く。親指の痛みを意識する。意識し出すと、痛みは後から後からやって来る。薄皮が赤味を帯びてぷっくりと腫れていた。そう言えば、ろくに冷やしもしなかった。男の顔が脳裏にこびりついて仕方無い。何か違うことを考えようとするが、無駄だった。少し道の脇に逸れて電柱に手をつき、ああ、家に帰りたくない。そう思った。
「帰りたくない」
小さな声でも言葉にすれば、益々帰りたくなくなった。そうなるとわかっていて声に出した。身の内だけで収まりそうもなかった。帰りたくない、帰れない。どんな顔をして弟にただいまと言っていいのかわからない。親指が痛い。私は来た道を引き返した。大通りから少し入ったところにある場末の焼き鳥屋、昔からあるカラオケスナック、常連なのだというおでん屋台。どこにもいなかった。スナックお登勢は避けて通った。こんな夜中に万事屋へ押し掛けるつもりもなかった。ただ、彼は煙草を吸わないから。ライターを持たないから。言い訳にもならない言い訳は彼に言ってやるつもりなどなく、私自身への言い訳にすぎず、しかしそれは私にとって十分事足りる理由であった。彼が贔屓にしているラーメン屋も、さすがにこの時間は閉まっていた。これで最後にしようと向かったのは、馴染みの親父がいるという立呑屋だった。いなければ大人しく家に帰ろう。きっと弟も眠っている。くたびれた暖簾をくぐりかけて、それよりも先に店の引き戸が開いた。
「ごちそうさん、また来るわー」
「うそ、ほんとに…」
「え?あれ、何、お前何でこんなとこ」
着流しの合わせ目に片腕を突っ込んで、彼の身丈にすれば随分と低めの暖簾を払い除けようとする、その手が宙で止まる。
「もう、またそんなに飲んで、新ちゃんも神楽ちゃんも…心配…して…」
「おい、」
堰を切ったようにぼろぼろと泣き出す私の肩を、彼が驚いたように触れた。襟巻きに幾つもの涙が跳ねて、彼が身を屈め、頬のそれを拭ってくれる。
「どうした?」
彼が言う。わからない、一体どうしたというのだろう。嫌な客に当たったとか、暴言を吐かれたとか、同僚の優しさに救われたとか、夜のネオンに当てられたとか、家に帰りたくないだなんてことを初めて思ってしまったとか、どこに行ってもあなたがいなかったとか、だけどそんなことより、ねえ聞いて。親指を火傷しているの。その痛みをすっかり忘れて、ずっとあなたを探したの。