ずっとあなたを探してた
火傷をしていた。客に火を付けて寄越すのに思いがけず手間取り、焦りから手が滑ったのだ。親指の腹が少し焼け、薄桃色に爛れている。咄嗟に粗相を謝り、弾みで落としてしまったライターを拾い上げながら、燃料が空っきしであることに気付いたが、指摘はしなかった。ライターは客の物で、私に煙草の火を付けさせるためその男がわざわざ寄越したのだった。男は存分に小言を宣い、サービス料を免除しろと喚いた。ボーイは渋ったが私が頷いた。結局サービス料どころか飲食代も払わないまま、男はふんぞり返って店を後にした。男の後ろ姿が見えなくなった途端、同僚たちが口々に怒りを露にし、私を気遣い、慰めた。ここの女たちは強く、たくましい。私はその後他の女の子のヘルプに付き、おりょうの計らいで少し早めに切り上げた。ナンバーワンのお妙ちゃんにヘルプなんかやらせちゃって、何だかこっちが申し訳ないねえ。常連客がそう言って頭をかく様子に愛想笑いさえ引き吊り気味の私を、長年の付き合いである彼女が見かねてのことだった。

「待って待って、お妙。これ着けてってよ。あんたにあげる。今日薄着だったでしょ、外寒いんだから」

身仕度を終え、裏口から帰ろうとすると、彼女がそう言って私を呼び止め、軽く柔らかな襟巻きを私の首に巻いた。とても質の良いものだと一目でわかるような。確か幕府の高官から贈られた物だったはずだ。父親くらい年の離れた男だった。

「…おりょう、ごめん」
「まったく水臭いんだから。この間セクハラ野郎退治してくれたお礼よ」

店を出ると、まだ夜も更けきらないせいか彼女の言う通り、身を芯から凍らせる底冷えの寒さに震えた。襟巻きに顔を埋めながら、歓楽街を通り抜けて行く。見慣れているのは仕事帰り、しんと張りつめた空気が清々しい朝焼けばかりである。子供騙しの玩具にも似た安っぽいネオンを振り撒いて、男女が肩を寄せ合って、客引きが盛んに声を上げ、とても同じ街とは思えない。渦中にいれば何だって見えなくなるというもの。ふと、先程相手にした男の顔がちらついた。立ち止まって俯く。親指の痛みを意識する。意識し出すと、痛みは後から後からやって来る。薄皮が赤味を帯びてぷっくりと腫れていた。そう言えば、ろくに冷やしもしなかった。男の顔が脳裏にこびりついて仕方無い。何か違うことを考えようとするが、無駄だった。少し道の脇に逸れて電柱に手をつき、ああ、家に帰りたくない。そう思った。

「帰りたくない」

小さな声でも言葉にすれば、益々帰りたくなくなった。そうなるとわかっていて声に出した。身の内だけで収まりそうもなかった。帰りたくない、帰れない。どんな顔をして弟にただいまと言っていいのかわからない。親指が痛い。私は来た道を引き返した。大通りから少し入ったところにある場末の焼き鳥屋、昔からあるカラオケスナック、常連なのだというおでん屋台。どこにもいなかった。スナックお登勢は避けて通った。こんな夜中に万事屋へ押し掛けるつもりもなかった。ただ、彼は煙草を吸わないから。ライターを持たないから。言い訳にもならない言い訳は彼に言ってやるつもりなどなく、私自身への言い訳にすぎず、しかしそれは私にとって十分事足りる理由であった。彼が贔屓にしているラーメン屋も、さすがにこの時間は閉まっていた。これで最後にしようと向かったのは、馴染みの親父がいるという立呑屋だった。いなければ大人しく家に帰ろう。きっと弟も眠っている。くたびれた暖簾をくぐりかけて、それよりも先に店の引き戸が開いた。

「ごちそうさん、また来るわー」
「うそ、ほんとに…」
「え?あれ、何、お前何でこんなとこ」

着流しの合わせ目に片腕を突っ込んで、彼の身丈にすれば随分と低めの暖簾を払い除けようとする、その手が宙で止まる。

「もう、またそんなに飲んで、新ちゃんも神楽ちゃんも…心配…して…」
「おい、」

堰を切ったようにぼろぼろと泣き出す私の肩を、彼が驚いたように触れた。襟巻きに幾つもの涙が跳ねて、彼が身を屈め、頬のそれを拭ってくれる。

「どうした?」

彼が言う。わからない、一体どうしたというのだろう。嫌な客に当たったとか、暴言を吐かれたとか、同僚の優しさに救われたとか、夜のネオンに当てられたとか、家に帰りたくないだなんてことを初めて思ってしまったとか、どこに行ってもあなたがいなかったとか、だけどそんなことより、ねえ聞いて。親指を火傷しているの。その痛みをすっかり忘れて、ずっとあなたを探したの。


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