「誰が劣等感なんざ感じてるっつったよ」
確かに坂田の浮ついたような話は聞いたことがない。顔を合わせれば、軽口を叩いたり酒の話をすることはあっても女の話はしなかった。それは彼女、ミツバを亡くした俺に遠慮してのことかもしれないし、未だ独身を貫き通しているということは本当にめぼしいのを見つけていないからなのかもしれない。それに、そこまで考えて俺は隊服を軽く羽織った。それに、奴には伴侶は居ずともすでに所帯がある。ちょっと出てくると言う前に、総悟が車に轢かれるようお気をつけてと相変わらずの餞別を寄越した。
「へぇ、総一郎くんもうそんな年になったの」
坂田はなぜか俺の正面ではなく隣に座って、俺が来たときのために買っていたのだという酒のつまみを、苺牛乳でせわしなく流し込んでいる。ここに来る前に煙草をめいっぱい吸っておくべきだった。この家は禁煙だったことを忘れていた。坂田は煙草の匂いに弱い。それにガキ二人にも良くない。手持ち無沙汰に空になった苺牛乳のパックを弄ぶ。指がべたべたで気持ち悪い。
「うちの新八もそろそろ彼女の一人や二人紹介してくれてもよくね?早いとこ親離れしてほしいもんだよまったく。あいつ、なんやかんやで甘えたなとこあるからな。あ、いや神楽は別だけどね、銀さん彼氏とか同棲とか絶対認めないから」
「その調子じゃ、てめェが嫁さん貰うのはまだ先の話になりそうだな」
「嫁さん?」
そうだ、俺はこの話をしに来たのだ。サイレンけたたましくパトカーをぶっ飛ばして、そのくせ坂田の様子を探り探り窺っている情けない俺の姿を、総悟にだけは見られたくないと思った。
「俺そんなん一生貰うつもりねェけど」
特に考えて用意した答えでもなさそうだった。もともと喉元あたりにあった言葉が俺の些細な後押しをきっかけにするするとでてきたみたいにして、坂田は俺の顔を見て言った。押し入れの中でチャイナ娘が昼寝をしているらしい。寝返りを打って頭を壁にぶつけでもしたのか、呻くような寝言が聞こえた。坂田の手がぴたりと止まって、暫く押し入れを見つめる。
「…なんで」
「なんでって…老後は一人でのんびり過ごすって決めてる」
言いながらよっこらせと腰を持ち上げて、押し入れの襖をゆっくり開ける坂田の一つ一つの動きから、俺は目が離せなかった。薄い毛布から飛び出た両手足を元に戻してやる。額にかかった髪を流してやる。それから襖を閉めるまでのすべてが、チャイナ娘に向けられた坂田の慈しみだった。
「だいたいお前も俺と似たようなもんだろ」
「どこが似てんだよ」
「だからァほら…嫁さん先立たれて義弟育てて、んで手ェ離れたら一人で庭いじり、みたいな」
この時ばかりは言いにくそうにしたかと思えば、急に核心を突いてくる。なにも義弟を育てている覚えはない。それに残念ながら彼女を娶った覚えもない。
「嫁っててめェなあ…」
「だって土方もう結婚とかする気ねーじゃん」
俺がそれきり黙ってしまったおかげで、そこには坂田の何か口を動かす音だけがあった。奴の言う通りだ。俺こそ結婚なんざさらさらする気はない。彼女に面目が立たないからとか、彼女よりいい女を見つけられないからとか、そんな陳腐な理由よりも、ただ時々彼女を思い出しては、静かに歳を取っていくことが素晴らしいと思えたから、ただそれだけだ。奴は四袋目の煎餅に手を伸ばしている。それにしてもよく食べる。
「坂田」
「ん、なに」
「老後の庭いじりは勘弁してくれ」
「じゃ俺とゲートボールな」
待ち構えていたように坂田が言った。