「どうしたんですか、珍しい」
「何もねーよ」
彼は顔を洗い、洗面所を出て行きながらひどく面倒そうに答えた。そういう人だった。
「そういやさあ、」
干しっぱなしの洗濯物を取り込んでいる間に、質素な朝食が二人分、湯気を立てて並んでいる。徐に声を出したせいか、かすれたような低い声が鼓膜を擽った。今までずっと無言でいたことに、私は否が応でも気付かされる。
「ストーカー、いたろ?メスの方」
「猿飛さんですか」
「そうそう、それ。あいつ、結婚したんだとよ」
淡々とした、実に冷酷な口調だった。と同時に、芝居がかってもいた。下手な物言いを、彼は味噌汁を啜って溜め息を溢すことで、やんわりと誤魔化そうとしているように思えた。最後に彼女を見かけてから、ゆうに二年以上経っている。髪を肩口まで切って、それからどこか落ち着きのない様子でかけていったのを、私は遠くから見たのだ。その嫌悪に満ちた表情がどうにも気にかかっていた。
「あら、どなたと?」
「Sっ気のないつまらない男だって手紙が来てた。確か同じ忍の」
「あんなに銀さん一筋だったのに」
「良かったんじゃねえの?年も年だしよ、あいつ取り憑かれたように俺のこと好きだったからな。まぁ手紙の様子じゃ今もそうみたいだけど」
何の躊躇いもなく、彼は彼女を受け入れている。そして彼女の知らぬ間に、それを私の前で曝け出しては丁寧に千切り捨てていく。幾許かの許しを乞いながら、彼はなお自分に向けられていたはずだった無条件の愛を名残惜しそうに、いとしそうに見つめるのだ。
「何て?」
「俺が違う女と結婚して後悔するのを楽しみにしてるって、悪趣味な野郎だぜまったく」
「ふふ、女としていい趣味だと思うわ」
そういうところが、彼のいけないところだった。男女の常識的な感情をひどく嘲笑うように、しかしその薄い笑みさえひた隠しにしてしまう。箸を動かす手を止めて、彼は私の首元あたりを容赦なく眺め回した。交わされる穏やかな会話にはあまりにもそぐわない、何か劣情を秘めた空気が息苦しい。しかしそれは確かに待ち焦がれた、空気でもあった。
「お前は、」
「…え?」
「もし俺が結婚したら、どうする?」
その浅はかな問いが、単なる戯れであることを、私はずっと知らないでいたい。