「それじゃ」
「あぁ」
私はコートを羽織り、紙袋を提げ、ハンドバッグを肩にかけた。彼は椅子に座って、此方を見ていた。彼の背後の窓から西日が差し込んで、彼の頭部、身体、それらの輪郭が塗り潰されたようにくっきりと浮かび上がり、目に焼き付く。私は目を細め、しかしすぐに背を向けて立ち去ることはしなかった。黒一辺倒の輪郭の中で、彼は何か私に最後の言葉をくれてやるつもりなのだと私にはわかっていて、その言葉がどんなに酷い餞別のそれだとしても、私は受け取りたいと、掬い取りたいと願った。
「波江」
「何」
「次また秘書を雇うなら、俺は波江以外ないと思ってる」
予想だにしない言葉、柔らかな語調が鼓膜に突き刺さり、私は思わず俯いた。
「…首にしておいてよく言うわね」
そう言って、何故だか妙に胸がざわつくのを気取らせるまいと、呆れたように溜め息を吐く。
「私はもう懲り懲り」
「はは、俺も随分嫌われたもんだねえ」
彼は椅子を少しだけ揺らして、肩を竦めて笑い、携帯電話を開いた。そうして何度か操作すると、液晶画面を此方に向ける。その四角い画面は、黒塗りの輪郭の中で異様な眩しさをもって私の視覚を刺激した。画面の文字などが見えるはずもなく、私はその明るさにぎゅ、と瞬きを返した。彼が口を開く。
「ピザ屋の番号はまだ消さなくてもいいかな?」
「…そんなこと聞くわけ?」
アドレス帳を開いているらしい。彼が黙ったまま続きを急いているように見えるのは、その語調のせいか、未練がましさの滲み出る軽薄なそれに、彼自身、気付いているのだろうか。
「ピザが食べたくなったらどうするのよ」
「…そうだね、まさしくその通りだ」
この二年間で、彼はしいたけを食べるようになった。あまり無茶をしなくなった。私が怒るから。ファイルを日付順に並べる癖がついた。昼食のあとも歯を磨くようになった。ちゃんと歯磨き粉を付けて。カーテンを開けっ放しで寝室に行くこともなくなった。だけど、やっぱり人参は嫌いなままだし、体調管理が下手で季節の移り目などは特に風邪を引くし、仕事のメールはどれも無題ばかりで私を苛立たせたし、トイレットペーパーの芯は痺れを切らした私が捨てるまでトイレに置いたまま、それにいつもへらへらと笑って食えないのは相変わらずだった。
「さようなら」
私は。私は変わっただろうか。夕食を取りながら、書類の整理をしながらでもいい。然り気無さを装いでもして聞いておけばよかった。彼のことだ、きっと嬉々として指折り数え上げたに違いない。
♂♀
『次のニュースです。銃刀法違反の疑いで現在行方不明の折原臨也容疑者について、警視庁は本日未明、東京・新宿区の自宅を家宅捜索しました。折原容疑者は暴力団と関係があったものとみて捜査が進められており、その他にも複数の余罪などから、警察は折原容疑者の行方を追っています。』