「起きろよ、お妙」
寄って彼女の薄っぺらな肩を揺さぶる。胸のむかつきが我慢ならない。きりきりと乾燥した空気の中でべスパを走らせたためか、少し声がしゃがれていた。取り返しのならないことをしようとしている。彼はしかし揺さぶるのを止めない。んん、と小さく凡そ午後二時には似合わない唸り声がして、女の瞼が薄らと開いた。
「帰り遅かったらしいじゃねェか」
銀さん、ぽってりと不躾なほど主張するくちびるから漏れ出る、彼女の掠れた声が彼を苛立たせた。闇雲に手を伸ばし、何かを掴もうとする仕草は空振りに終わる。そして訝しげな眼差しではっきりと彼の姿を認めると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「えぇそうですよ、わかってるなら寝かせて下さい」
ばたばたと草履を鳴らしてはしゃぐ子どもらの笑い声が聞こえる。美しい彼女は眠ろうとしている。欲にまみれた夜をおぎなうために。
「何でそうなんの」
「…え?」
「お前さ、仕事やめれば」
衝いて出た言葉は、彼女の誰に触られたかもわからないその肩を強張らせるのに充分だった。怯えたような、蔑みを浮かべたような、しかし剃刀の鋭さを思わせる眼差しが、彼を捕らえて離さない。女への支配欲は、彼が思うよりも強く彼の胸中で燻っていた。乾いた笑みを湛えて、男は言う。
「もっと真っ当な仕事あんじゃねェの?昼間働いて日が傾いたら家に帰るって、それが当たり前なんだよ。親父とまずい酒飲んで金稼いで、その薄らきたねえ金で道場復興なんざ、死んだ父上も」
しかし続きを言うことは叶わなかった。父上、彼の口がそう形作った瞬間だった。炬燵の熱で火照っていたはずの彼女の身は驚くほど冷え、彼の胸倉を掴み上げていた。男の虚ろな眼差しに、彼女は歯を食いしばる。
「…他に何か言うことは?」
「そう怒るなって」
「そんなことを…ずっと思ってらっしゃったんですか!」
金切り声にも似た声は、午後の緩慢な日差しの中で密かな嗚咽すらを含んでいる。いたぶる。だきよせる。
「あぁそうだよ、悪いかよ」
なじる。あいしてる。