箱の中の矛盾
午後も二時を過ぎた頃であるが、その家だけはひっそりと静まり返っていた。閉めきられた襖の奥に蛍光灯の光を見出すことはできなくて、しかし彼は何の戸惑いもなくその家へと上がり込む。姉弟二人が住むにはあまりにも広い家。そして今は十八になる姉が一人眠っているだろう。ひどく不用心だ。彼は次々に襖を開けて奥へと進んでいく。胸のむかつきが咽喉へと這い上がってくるのを、堪える術を知らない。と同時にその理由さえ、見出せない。何ら変わらない朝を迎えたはずだった。そして暫くして彼女の弟がやって来て、姉上の話をし始めたのだ。あぁそのせいだ。彼はそこで図らずも、居間に続く襖を開け損ねた。億劫だったわけでも、躊躇したわけでもない。炬燵の中できっと彼女は身を屈めて瞳を閉じているだろう。手に力が入らなかった。自分は何をしているのだと、思って引き返そうとする。何かおそろしく惨たらしい、そして思ってもみない言葉を彼女にかけてしまうのではないか。彼はそれを危惧した。しかし頭の隅で、それでいいと下卑に笑う声がする。言ってやれ。最低な方法で女を傷つけてやれ。思った以上に襖は軽く、木と木の擦れる柔らかな音が彼の鼓膜を支配する。炬燵机に片頬をつけて、案の定彼女は眠っている。少し濃い化粧や首筋に垂れた後れ毛、部屋に充満する微かな香水の匂いが、彼を些か仰け反らせた。

「起きろよ、お妙」

寄って彼女の薄っぺらな肩を揺さぶる。胸のむかつきが我慢ならない。きりきりと乾燥した空気の中でべスパを走らせたためか、少し声がしゃがれていた。取り返しのならないことをしようとしている。彼はしかし揺さぶるのを止めない。んん、と小さく凡そ午後二時には似合わない唸り声がして、女の瞼が薄らと開いた。


「帰り遅かったらしいじゃねェか」

銀さん、ぽってりと不躾なほど主張するくちびるから漏れ出る、彼女の掠れた声が彼を苛立たせた。闇雲に手を伸ばし、何かを掴もうとする仕草は空振りに終わる。そして訝しげな眼差しではっきりと彼の姿を認めると、彼女は眉間に皺を寄せた。

「えぇそうですよ、わかってるなら寝かせて下さい」

ばたばたと草履を鳴らしてはしゃぐ子どもらの笑い声が聞こえる。美しい彼女は眠ろうとしている。欲にまみれた夜をおぎなうために。

「何でそうなんの」
「…え?」
「お前さ、仕事やめれば」

衝いて出た言葉は、彼女の誰に触られたかもわからないその肩を強張らせるのに充分だった。怯えたような、蔑みを浮かべたような、しかし剃刀の鋭さを思わせる眼差しが、彼を捕らえて離さない。女への支配欲は、彼が思うよりも強く彼の胸中で燻っていた。乾いた笑みを湛えて、男は言う。

「もっと真っ当な仕事あんじゃねェの?昼間働いて日が傾いたら家に帰るって、それが当たり前なんだよ。親父とまずい酒飲んで金稼いで、その薄らきたねえ金で道場復興なんざ、死んだ父上も」

しかし続きを言うことは叶わなかった。父上、彼の口がそう形作った瞬間だった。炬燵の熱で火照っていたはずの彼女の身は驚くほど冷え、彼の胸倉を掴み上げていた。男の虚ろな眼差しに、彼女は歯を食いしばる。

「…他に何か言うことは?」
「そう怒るなって」
「そんなことを…ずっと思ってらっしゃったんですか!」

金切り声にも似た声は、午後の緩慢な日差しの中で密かな嗚咽すらを含んでいる。いたぶる。だきよせる。

「あぁそうだよ、悪いかよ」

なじる。あいしてる。


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