「うわ、くせェ」
彼が帰ってきた。鍵を開ける音を聞きそびれたらしい。慌てて起き上がる。まだ半乾きのマニキュアが思いっきり枕カバーに擦れて、嫌な感じがする。
「お前また爪塗ったんだろ。この部屋で。やめろっつったのによ」
「おかえりなさい」
やめろと言われたかは覚えてないけど、彼がマニキュアの匂いを嫌がっていたのは何となく思い出した。マニキュアの瓶を倒して中身をほとんどクッションに溢してしまったとき、彼はクッションを捨てた。カバーだけ洗えばいいのにって言ったけど聞いてくれなかった。基本的に彼は私の言うことを聞かない。彼のお母さんは随分前に亡くなったらしいけど、きっと子育てには苦労したはずだ。そして今天国で息子のことをとても心配してるに違いない。私が彼のお母さんだったら気が気じゃない。
「しかも下手くそ」
彼が私の指を掴んでよく見ようと持ち上げる。ちょっと笑ってる、それはもちろん小馬鹿にした感じで。だけど枕カバーについたショッキングピンクの染みには気付いてない。
「今塗り直そうとしてたところっス」
「何だそれ」
「除光液。これで拭き取るんスよ」
彼の手を払って鞄を漁り、今度は小さなボトルを取り出す。キャップを回してティッシュに浸すと、つんとしたアルコールの匂いが鼻をついた。
「ひでえ匂い」
文句は聞き流して、マニキュアを払拭していく。派手な色がティッシュに滲む。期間限定のピーチフローラルの香りが食欲を削いでいくのがわかる。 確かにひどい匂いだ。口には出さないけど。彼が我慢できないといった様子で呻いた。限界らしい。
「…もういい、やめろ。どうせお前の爪なんざ俺しか見てねェよ」
沈黙だった。俺しか見てねェよ。明日槍が降ってもおかしくないような、突然すぎるその言葉にやや間を置いて、恐る恐る彼の顔を見上げる。彼もまた、はっと表情を固くして此方を見下ろしている。また幾分あって、彼が取り憑かれたようにキャップを締めにかかって、私はとうとう堪えきれずに少しだけ笑った。今なら枕カバーについた染みのことも許してくれるかなと思ったけど、それとこれは別とか言いそう。 枕は捨てないでほしい。彼が照れ臭そうにして私の頭を小突く。これが結構痛い。