ヴヴヴヴヴ、ヴヴヴヴヴ。
右ポケットの中で震える携帯電話が、ちょうど彼の脇腹辺りをくすぐっている。折原臨也は忙しなく周囲を見渡しながら薄いグレーの手袋を外した。途端に指先がかじかむ寒さは、白い息を吐くたび否応無しに彼自身の目に映り込み、思わず身を固くする。
「もしもし」
携帯電話から聞こえたのは、よく聞き慣れ親しんだ女の声だった。女のくせにちっとも柔らかくはなく、敬意や好意は勿論のこと、何の遠慮もなく電話をかける間柄にあるとは到底思えぬ、しかし緊張や敵意とは無縁の、ひやりと素っ気ない声色に臨也は顔を綻ばせた。彼女の声のその奥からはがやがやとした雑踏、渋滞を成した車のエンジン音、屋外の広告テレビから溢れ出る姦しいナレーションが途切れることなく流れている。
「波江さん、俺、着いてるよ」
「私だって着いているわよ。もう十分前には」
「ごめんごめん、待たせちゃったね。俺がどこかわかる?」
「……どこよ。見えないわ」
臨也はくるりと身を翻し、人混みに彼女の姿を見つけようと目を凝らす。見渡すかぎりの人々が皆一様に待ち人を思いあぐね、携帯電話に目を落とし、あるいはそれを耳に押し当て、そうして見つけた待ち人の名を呼び、お互いを見とめた二人はそれぞれはにかみながらこの待ち合わせ場所を後にする。
「あ、いたいた。左の方を見て」
「なに?聞こえない」
都会的な美しい横顔が、そっぽを向いて立っていた。革のブーツに、彼女のからだのラインに合わせて裾がすとんと落ちた生成色のノーカラーコート。白いマフラーは今年新調したばかりのものだ。長い黒髪が首元に巻かれたマフラーの中を通って、胸元に弛んでいる。彼女は寒さのせいか無駄に動かないようにして、くちびるを動かすのも億劫そうに目を細めている。
「俺の方はとっくに君を見つけてるんだけどな。左を向いて」
臨也がそう言えば、波江は彼の言葉通り上体を左に捻り、どこかもっと遠い場所を見つめるように、雇い主の姿を探した。黒いコート、黒いスラックス、艶やかな黒髪に、そう、薄いグレーの手袋を握りしめたまま、軽く此方に手をあげている。
「ほら」
目が合った瞬間を、臨也は逃さなかった。朗らかに得意げな上司の声が少しばかり遠くに聞こえ、次いでそれに被せるように携帯電話から同じ声が波江の鼓膜を打った。二人の間にさほど距離は無く、臨也はすごすごと携帯電話をコートのポケットに仕舞い込み、手袋を嵌め直した。その間に彼女が自分のもとへ駆け寄って来るのを、言外に待っているようだった。
「あんまり人が多いから」
ようやく待ち人と落ち合えたというのに、波江はにこりともせず開口一番そう言って、ご覧なさいよ、とでも言わんばかりにちらと周囲を見遣ってみせた。
「待ち合わせ場所にはぴったりだと思ったんだよ。若い子たちがそうしてるだろう? でも今度からはどこか違う場所にしよう。わかりやすくて、人気(ひとけ)はあるけどあまり人がいないようなところがいいね」
臨也は彼女の機嫌を取るようにその仏頂面を覗き込み、ややあって付け加える。
「波江さんと外で待ち合わせることなんて、そうそうないからさ」
「事務所から一緒に出ればいいのよ」
「それはそうなんだけどね、こう、たまにはね」
二人は歩き始めた。すっかり日の暮れた駅前は、恋びとたちが身を寄せ合い浮足立っている。この人混みに決して広くはない歩道で、目の前を歩く学生らしき男女が腕を絡ませ合い、ああでもないこうでもないと言いながら歩く。そのおかげで、宙ぶらりんになったお互いの手などには見向きもしない臨也と波江の歩みもまた少し、遅くなる。商談相手には死んでも見せない、気の抜けた表情で臨也が言った。
「俺、今日昼飯を食いそびれちゃってさ。腹が減ってしょうがないんだ」
「午前中に入れていた粟楠との仕事が終わったら、昼食をとりに一度帰って来るんだと思ってたわ」
「帰る予定が、なかなか話がまとまらなかったんだよ。四木の旦那だったらやりやすかったんだけどねえ。俺には言わなかったけど、どうやら明日機組との談合があったらしく不在だったんだよ。代わりにペーペーの自称幹部が出てきてさ、こいつがまた面倒で……波江さん、会ったことあるかな」
波江は臨也の顔を微塵も見ないまま、歩道に敷き詰められたコンクリートの染みや汚れをじっと見つめて歩を進めている。その実、きちんと臨也の話を聞いて記憶の糸を手繰り寄せていることは、彼もこれまたきちんとわかっているから面白い。
「風本じゃないかしら。四木が不在の時は大方あの男が窓口になっているようだから」
「ふーん。粟楠もなんだか嫌な感じに転がり始めてるよねえ。俺は四木の旦那が直接取り引きしてくれるって言うから波江さんを粟楠にやってるのに」
「私はいつあの茜って子に見つかるかしらと身の竦む思いであなたのお遣いに行ってやっているのよ」
彼女の恨めしそうな視線に、臨也がクツクツと身を揺らして笑う。波江にはそれが益々気に入らないものだから、革のブーツがコンクリートを叩く靴音も自然と大きくなる。
「ハハ、大丈夫だよ、奈倉さん。君を粟楠に遣って寄越しているのは茜ちゃんが学校に行ってる時間帯を見計らっているからさ」
「……どうだか。あんまり無茶をしているといつかボロが出るわよ。奈倉さん」
「わかった、わかった。肝に銘じます、っと」
いつしか二人は国道沿いに出ていた。人通りはあまりなく、車が低く唸りをあげて通り過ぎるたびに、橙色のヘッドライトが彼女の青白く痩せた頬をぬるく照らした。会話の無い間も、二人は律儀に並んで歩を進めている。時折肩が、腕が、コートの裾と裾が触れ合いそうになったが、その寸手のところでどちらかがさっと身を躱し、そして再び二人にしか理解の及ばぬ、ある一定の柔らかな距離を保っていた。波江の後ろから自転車が迫れば臨也が黙って脇に避け彼女を自らの方へと誘い、身一つしか通れない狭路や人混みの中に差し掛かれば、波江が立ち止まって臨也を先に行かせ、その後に続いた。彼らにはそれがどうにも馬鹿馬鹿しく滑稽だったが、二人の間には共有するべき笑みなど持ち合わせが無いばかりに、ただ黙々と足を動かした。波江は伏し目がちながらも幾度かは臨也を盗み見たが、こんな時に限って彼女の上司は言葉少なにしている。
「ここ、右でしょ?」
信号を渡り終え、波江が通い慣れた横道を指差すのを、臨也はあっと言いたげな瞳で引き止める。
「ん。こっちだよ」
「え?」
反対方向を指す臨也が、少し先に行ってしまった波江を呼び寄せようとする。波江は振り向いたまま上体を傾け訝しげに臨也を見つめ、しかし渋々来た道を戻ろうとしたばかりに、後ろから歩いてきた三十代頃のサラリーマンがちょうど進行方向にいる彼女のもとへ向かって来るのを認識することができなかった。彼女が咄嗟に目を見張り、ぶつかる、と身構えたその矢先。
「おっと。すみません」
力強くも決して強引ではなく、さりとて波江の重心を引くには十分の力を以てして、臨也が彼女の手首をぐいと引き寄せ、その拍子に波江は彼の肩口に鼻の頭をこつんと打った。途端に視界が真っ暗になり慌てて顔をあげると、ヒールを履いているせいかすぐ斜め上に見える臨也の顔がにこやかに微笑みを形作ったのがよくわかった。彼は愛想良く、なおかつ申し訳なさそうにサラリーマンに謝罪すると、軽く会釈してみせた。冴えなさそうなサラリーマンは少し遅れて会釈を返し、困惑したまま動かない波江の顔を見つめ、何を思ったか二、三度瞬きを繰り返した後、のそのそと背を向けて歩き去っていく。波江の手首を掴んでいた臨也がその時するりとその手を波江の薬指に絡ませたのを、彼女はとうとう指摘しそびれた。
「こっちこっち」
臨也は何食わぬ顔で波江の白い指からさっと手をほどき、表向きの微笑みが消えぬうちに横道へと入っていく。都心だというのにこうも街灯の疎らな小路は車道も一方通行で、時折歩道に立てかけてある、似たような飲食店の看板が二人の足元にそっと影を落としている。
「年末に移転したんだよ、あの店」
「知らなかったわ」
「俺も知らなくてさ。昨日予約しようと思って電話したら、そう言われたんだ」
「予約したの?」
「うん。混んでるかと思って。ま、世間はこんな日だしね。七時って言っておいたからまだ少し時間には余裕があるけど、どこか寄りたい場所なんかあるかい?」
「平気よ。買い物なら朝のうちに済ませたから。ゆっくり歩いていたら頃合いのいい時間になるんじゃないかしら」
「そうだね。そうしようか」
二人は穏やかにぽつりぽつりとそんな会話を交わした。その間、臨也の携帯電話に幾つか着信があったが彼は素知らぬ顔でバイブレーションが鳴り止むのをひたすらに待ち、ポケットから携帯電話を取り出すこともなかった。波江は彼の携帯電話の着信音に耳聡かったが、上司が敢えて取らない着信についてとやかく言及する必要はないとでも言うように、彼同様、生真面目にその振動が鳴り止むのを待つことにしていた。
「ここの信号、長いのね」
身を切るような寒さに堪え切れず、言葉をぼそぼそとアスファルトの上に落とすようにして波江がつぶやく。成る程、マフラーに顔の半分を埋めているせいで声がくぐもって聞こえる、と臨也は彼女を見つめ、思わずふっと安堵にも似た表情で破顔する。
「波江さん、耳が真っ赤だ。耳当てをすればいいのに」
「うるさいわね。そんな年じゃないの」
波江は口早に答え、しかめっ面を隠しもせず、食えない笑みで此方を窺う上司に何かもう一言でも嫌味を言ってやらねば気が済まない思いでいたが、ふいに何か思い出したらしい、毒の抜けた年相応の表情を浮かべ、それはそうと、と臨也に話を切り出した。
「お昼頃、あなたの妹達から連絡があったのよ。もうすぐ三者面談だからあなたの代わりに来てほしいって」
「えぇー。あいつら、何やってんだか……適当にあしらってくれていいよ。まったく、最近波江さんに甘えすぎだ」
「そんなことないわ。もう行くって返事したもの。勿論、あなたも一緒に」
今度は臨也が、何にも外付けされない年相応の表情を浮かべる番だった。彼はまじまじと波江の、寒さに赤く色付いた頬や黒く濡れそぼった睫毛を見つめ、波江がめずらしく真っ直ぐに見つめ返してくるのを、様々な感情を持って享受した。
「あなただってわかるでしょう。まだ高校生なのよ、子どもなの。子どものそばにはいつだって、無条件に愛してくれる父親と母親が必要なのよ」
彼は言葉を欠いたままでいる。二人は示し合わせたかのように歩みを止め、そして二人の思考を繋ぐ細く撚った糸が胸のあたりに漂うのを、彼と彼女は確かに目にした。糸はきつく結ばれているわけでもなく、ただ彼の首元、それから彼女の左肘にくるりと回り込み、その色は赤い糸とはとても呼べぬ、筒抜けにほの白く透明な光を放っているようだった。少なくとも彼には、彼女には、それがはっきりと見えたのだ。
感傷に浸る自分を追い出そうと、波江はおだやかに首を振った。臨也もまた、あまり街灯が無くて良かった、と言い出そうか迷ったが、口に出してしまっては勿体無く、やぶさかで、暗がりの空を見上げるに留まった。二人は立ち止まった時と同じように、ひたむきに何も言わず、調子を合わせて歩き出す。
「……私やあなたのように、血も涙もない悪人になったらどうするのよ」
「あ、波江さん、悪人の自覚はあるんだ」
母親を見失った幼い子どものような心細さでついぞ心中を吐露した波江が、堪らずおどけてみせた臨也の二の腕に肘鉄を食らわせるのに、そう時間はかからなかった。
「いてっ」
臨也は大袈裟に二の腕を擦り擦りして、つんと先を歩く波江の、まあるく頼りない後頭部を眺めている。彼女が両親について彼に言い及ぶのは、これが初めてのことだった。彼女とその弟を育てた、いや、或いは育てなかった父親と母親について、臨也は一人思いを巡らせていた。同時に、自身の両親のことも。平々凡々に愛に溢れ、しかし仕事で海外に赴任したまま数ヶ月に一度会えるか会えないかの両親。二人の顔を覚えていないと言って屈託無く笑う幼い頃の妹達。かの有名な新宿の情報屋にとっても、両親の思い出はあまりにも些細で取るに足りぬ記憶の一片ですらなかった。
「……帰りも歩こうか?」
邪念を振り払うように絞り出した声は思いの外うわずっていて、臨也は勘の鋭いこの秘書に動揺を悟られまいと、取って付けたように口元を歪める。
「どちらでも」
波江は彼の表情からその機微をじっと見つめ、世界中きっと臨也にしか聞こえない小さな声でそう言った。ひんやりしたその声が、彼の中でしつこく燻る熱を解熱剤のごとく心地よく溶かし出す。七センチのヒールがついた彼女のブーツに目を落として、
「足が痛くなってやしないかい?」
と尋ねる、その在り来たりな男の優しさに、波江は首を振った。
「平気よ」
「じゃあ歩いて帰ろう。酔い覚ましにちょうどいい」
「あなた、そっとやちょっとじゃ酔ったりしないじゃない。今日は何を飲むつもり?」
「何がいいかな。また店長におすすめのワインを聞いてみないとね。波江さんは?」
「どうせボトルを頼むのでしょう」
「まあ、そうだけど。飲みたいものを頼んでいいんだよ」
「……あなたと同じでいいわ」
二人はとりわけワインを、それもチリ産の赤ワインを好んで嗜んだ。他にはフランス産の白ワインや、時折きりっと辛口の日本酒なんぞが食卓に並ぶこともある。酒の好みについてはぴたりと嗜好が一致しているものだから、こうして外に夕食を食べに出ることもままにある。店はいつも臨也が選んだ。どの店にも二人好みの料理と酒が並び、二人はカウンター席に横並びに座ることもあれば、テーブル席に向かい合って座ることもある。臨也はあまり物騒でない種類の話を酒の肴とともにつまみつまみ聞かせ、波江は言葉少なに相槌を打つが、臨也があんまり余計なことを宣えばそれに呆れたり釘を刺したりもする。
「お、ここだ」
ふいに立ち止まった臨也をよそに波江は知らずその店を数歩ばかり通り過ぎた。臨也が少し中の様子を伺い、ここ、ここ、と手招きし、振り返った波江はつられて、あたたかな木製の扉から香る食事の匂いに辿り着く。臨也が指差した先には、よく知る店の名前が白抜きになって二人を迎えていた。
「外観はあまり変わらないのね」
波江はほうと白い息を吐き臨也を見上げる。いつもと変わらない二人がそこにいる。臨也が店の扉を開け、募らせた思いに笑みを浮かべて彼女をうながす。
「寒い寒い。ささ、早く入ろう」
「二名で予約している、折原です」
ーー二月十四日なんだけど、予約できるかな。この日はなんとなく、どうしても、君のレストランで彼女と食事をしたいんだ。
電話越し、常連の情報屋が照れくさそうにすんと鼻をすすりながら話したのを、この店のオーナーはすでに予約でいっぱいの席を咄嗟に工面し快く引き受けた。カウンター席の端、少々窮屈ではあるがきっと問題はないはずだと、彼はそう踏んでいる。