二人はずっと、互いの名前を呼んでいない。金時はたまのことを呼ぶとき、おいとかなあとか言って彼女を振り向かせる。たまは毎朝綺麗な鏡の前で三つ編みにした後ろ髪を揺らし従順に振り返って、続く金時の言葉を待つ。金時は何かしら話し始めるが、彼はいつも仏頂面で不機嫌そうにして、滅多に笑うことはなかった。たまのことを言うときも、お前とかアンタとかてめえとか、実に横柄で何の感慨も無いような口調でいる。そうすれば、彼女はそのこと全てについて咎めもせず呆れもせず、いつも黙って金時の話を聞く。二人はスナックお登勢の暖簾の向こうで数十年を暮らしていた。何となく、その暮らしを終える理由もないままに。
「土地も家も、売っぱらってきた」
ある夕暮れ、金時がそう言ったとき、たまは膝を折り曲げて床を磨いていたところであった。彼女は最初振り向かなかったが、やおら立ち上がり、誰にも似つかない金時の青い瞳を見つめた。
「源外様の土地と家を?」
「他にねえだろう。立地のいい此処の方がよっぽど金になるが、最低限雨露しのぐ屋根は必要だからな」
彼女は前掛けで手を拭いた。そうして金時が腰掛けているカウンターに自らも座り、金時と膝を突き合わせたまま黙り込んでしまった。何か言い出してしまいそうな、しかしそれはきっと金時と彼女自身を深く傷付ける言葉だった。たまは彼女に命を与えた源外を、賑やかな通りに面したあの家を、土埃の舞って仕方ないその土地を、そしてそこに集うたくさんの人々、今は亡きたくさんの愛すべき、拍子抜けに明るく、絶え間ない笑い声の、その思い出を胸に握り締めていた。
「有り金はたいて手に入れたせっかくの特注品だ。メンテナンスは泣いた後にするか」
ぶっきらぼうな言い草しか知らない金時のブーツの爪先が、彼女の下駄の赤い鼻緒に触れる。たまの指先が、彼の着流しの皺をくしゃくしゃに掴んでいる。二人の膝がこすれ合っている。これが夢暮らしか、と金時は嘲るように蜘蛛の巣の張った天井を見上げて笑い、そして二人はすすり泣いた。疲れを知らないその体を抱きしめて。