軽く膝を曲げて、かぴかぴになった目やにをこすってあげながら、彼女はうんと優しい声でそう言った。稽古に行ったばかりの彼女の弟君がひどいふくれっ面で下駄を脱ぎ、それらをきちんと揃えた後でようやく、彼女は弟の眼差しを捉えた。泣きべそをかいてはいないものの、まるで原稿を前にしてちっとも筆の進まない短気な近代作家も顔負けの、そんな表情をしている。
「おねーちゃん。姉上。ぼくは今、とても怒っています」
きっと彼の持てる最大限の力を費やしたであろう低い声色は、それでも子どもらしいあどけなさが拭えるはずもない。重大な問題を語ろうとしているらしい弟に、彼女は吹き出しそうになるのを堪えて負けじと真面目くさった顔を取り繕い、外へと続く縁側に仁王立ちの小さな武士を前にして裾を整え正座した。
「あら、それは大変です。どうしたのですか、そーごさん」
「土方のヤローが」
「土方さん、ですね?」
わかりきったように彼女が柳眉をあげてたしなめる。彼は口をへの字にして続けた。今は意固地に土方のヤローと言い張るよりも、まずは姉上を味方につけたいのが弟君の正直なところである。
「…土方、さん、が、ぼくには何にも言わないで、近藤さんの一番稽古を付けてもらっていたのです。一番はいつもぼくなのに」
「まあ」
「ほんの今朝のことです」
彼女はさも大変なことを聞いたと言わんばかりに、弟と同じ色の瞳を丸くした。弟がこんなにかしこまった言い草を好きこのむようになったのも、道場に通い始めてからだ。大人たちに囲まれてすっかり甘やかされやしないかと不安半分に送り出した彼女だが、まだ十にもならない男の子が毎日覚えたての礼儀を披露する様は紛れもなく近藤や土方らの真似草である。自然と頬が緩む彼女に、弟君がいてもたってもいられず姉上、と彼女の同意をせがんだ。
「でもねそーちゃん…いえ、そーごさん。それは昨日そーごさんが、少しお寝坊なさったからじゃないかしら?」
「近藤さんが歯みがき大事って言ったから、ぼくはいつもよりうんと長いこと歯みがきしたんです」
少し食い気味な様子で弟はそう弁明し、ぐしゃぐしゃっと袖を絡ませ腕を組んだ。確かに昨日の歯みがきは長かった。いつもは小鳥のように口を濯ぎ前歯に歯ブラシをあてて三往復、それでおしまいである。それでも弟の目覚めが悪かったのは事実で、彼女はその要因を思いあぐねる必要もなかった。現に、刀を模して丸められた新聞紙はチャンバラごっこに最適で、未だ寝室に投げ出されているのを彼女は知っている。
「どうやら意見が分かれたようです。姉上は昨日の夜、そーごさんが土方さんと夜遅くまでお遊びになっていたからではと考えます」
「遊びなんかじゃありません!あのヤローがぼくの頭を叩いたんだ」
「土方さん」
今度こそぴしっと言いつける彼女の表情に、弟君はもうだめだと深く項垂れ両腕を垂れた。寝室でぎゃあぎゃあと騒がしく戯れたかと思えば急にひっそりと静かになり、それからがさがさと新聞紙を丸める音がしていたあたりから、彼女には何となしに今朝の顛末が見えていたように思う。遊び疲れて眠った弟を布団に寝かしつけて、ばつが悪そうな顔で頭をかきかき居間へ顔を出した土方を引き止めたのは彼女の方だったが、この話は弟にまだ少し早い。
「近藤さんはちゃんとそーちゃんのこと大好きよ。そーちゃんが一番知ってるじゃない。それに土方さんも、もちろん姉上も」
弟の頭をぽんぽんと撫でて、彼女は畳張りに手をつき立ち上がり、夏草の茂る外道にその美しい目を細めた。
「さ、そーちゃんの大好きな土方さんがお迎えに来てくれたわ」
なだらかな丘の向こうから長い黒髪を束ねた青年が歩いてくる。弟は彼の姿を見留め、何か意を決したように今度は迷うことなく下駄を履いて彼女に向き直った。
「姉上」
おねーちゃん、なんて格好悪いものね。ぱきりと芯のある口調に彼女は日に日に成長してゆく弟を見上げ、そんな様子は微塵も見せずにこてんと首を傾げた。
「なあに?」
「土方のヤローはそーちゃんのこと大好きだけど、そーちゃんは土方のことちっとも好きじゃありません。……あ、土方のヤローじゃなくて土方さん。土方さんです姉上」
「ふふ、はいはい」
くるりと駆け出して行った弟を見送り、彼女は顔を綻ばせながら襷を取って家事に向かう。自分のことをそーちゃんと言ううちは、まだまだかわいい弟君でいてくれそうだ。