京都か鎌倉、あるいは神戸

臨也はもう五時間ばかり、テレビの前のソファに深く腰を下ろし、ぼうっと旅番組の再放送を見ている。四季の美しい自然、気ままな街歩き、郊外にひっそりと佇む温泉宿。そういう在り来たりな映像も、この部屋の中ではちっとも魅力的に映らない。胡散臭さしかない空間、打ちっぱなしのコンクリート、ファイリングされた事務書類、二階の隠し扉、全身黒ずくめの男が一人。最近購入したばかりの薄型テレビは42インチで、無駄に液晶画面が大きく美しいせいもあり、なおのことそこだけが異次元のようにして殺風景な空間に所在なく浮かんでいる。
二時間のスペシャル番組が続けて二回分、それから毎日昼時に放映されている三十分の番組がこれも続けて二回分。この五時間、彼は一言も口を聞かなかった。コーヒーのおかわりを注ごうと立ち上がることもなく、好んで視聴する夕方の子供番組が放映される時間になっても、彼はリモコンに手を伸ばすことさえしなかった。身を乗り出すわけではないが、それでも彼は少しもその液晶画面から目を逸らさなかったし、午後一時過ぎからの緩慢な時間帯全てをもって、微塵も表情を変えることなく休日の大半を費やした。
「旅行しよう」
ぽつねんと彼がそう言ったとき、波江はシンクの水垢を磨いていた。上司の言葉に彼女はやや遅れて顔を上げ、腕まくりして熱心に動かしていた右手を止めた。
波江が情報屋の秘書としてここに雇われてから、およそ三ヵ月が経っている。この短期間のうちに、波江は世間体では得体の知れぬ折原臨也という男を、大方理解したつもりでいた。蓋を開けてみれば何らそこらの男と変わらない、ただ人より幾らか容姿が整って、その上口が立つばかりに非常に面倒かつ生意気だが、どこか抜けているところもある。仕事でミスもする。風邪も引く。たまに階段を踏み外す。食べ物の好き嫌いだってある。彼女は些か拍子抜けさえしていた。人づてに聞いた物語の大魔王は、何てことはない、鼻持ちならないがごく普通の若造だった。
「行ってらっしゃい」
どこぞにでも、ご自由に。興味のない様子を微塵も隠さずに波江は言って、再びシンクの水垢を取る。一方的に大魔王と構えられ、その後ただの人間の若造として、いやそれどころか一上司としても彼女に軽んじられているこの優男は、一拍置いて彼女の言葉を飲み込みづらそうに咀嚼し、慌ててキッチンの方に声をかけた。
「俺、今、旅行しようって言ったんだ」
「聞いてたわよ。だから言ったでしょう、行ってらっしゃいって。本当は無言のところを、あなたが今日一日馬鹿みたいに旅行番組なんか見てるのがあんまりかわいそうだったから、樹海なり廃墟なり楽しいピクニックにでもさっさと行ってくれないかしらと願ってあげたのよ。行ってらっしゃいと言ってあげたのよ」
「俺、旅行しようって」
「うるさいわね」
「波江さんを誘ってるんだけど」
ソファから腰をあげ、臨也は珍しく億劫そうに言って、頭を掻いた。かれこれもう数時間前には空になっていたコーヒーカップを彼女に差し出し、彼女は瞬き一つできないまま、黙ってそれを受け取った。
「独り言じゃないの?」
「あぁ。独り言じゃない」
如何せん、矢霧波江は驚きを隠せない。弟のこと、それから三ヶ月前までは首の研究のことだけを考えていれば彼女の世界は等しく回っていた。極端だがとてもスマートなその頭で、彼女は今目の前の男の心理をはかりかねている。件の男もまた腕組みなんぞして、気難しげに眉間に皺を寄せている。
「……どうして私が、あなたなんかと旅行に行くのよ」
訝しむ彼女の表情に彼は一つ呼吸を置いて、んん、と短く唸った。彼もまた、彼にとって何か理解の及ばない問題を抱えているようだった。
「いや、俺、考えてみたらさ、旅行ってしたことないんだ」
「それで?」
「それで?」
オウム返しに臨也が言う。彼女は続きを待っている。
「うん。だから、行こうかなって思って」
「だから、どうして私を誘うのよ」
「えぇ……?だって俺に、余暇を、君なしで過ごせって言うのかい?」
波江はここでようやくスポンジを手放した。ゴム手袋からほっそりした両手を抜き取り、流水で軽く手を洗い、横髪を耳にかけるついでにこめかみを押さえた。
「あなた、何か悪いものでも食べたんじゃないの」
「別に食べてないさ」
げっそりした彼女に反して、臨也は大真面目な顔で彼女の批判に首を振る。
「この三ヶ月、波江さんの料理しか食べてない。まあ、食べる気にもならないんだけど」
午後六時を告げる懐かしいメロディが新宿に響いている。二人はそれを部屋の中から、窓の内側から耳にした。貴重な休日を思う存分旅行番組に費やした情報屋と、家中の水周りを磨きあげたその秘書の、今日一番の会話らしい会話だった。
「あなたって、ずっとこうなの?これからずっと?」
「何がだよ」
煮え切らない秘書の態度に、臨也はとうとう不貞腐れ始めていた。新宿に悪名を馳せる大魔王の頭の中には、五時間分のテレビ番組で得たありとあらゆる旅のプランが溢れてる。
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