彼女の齢にしては少しばかり幼稚な本を読んでいる。沖田はその様子を眺めて、それからほぼ無意識にシャツの襟元を緩めた。上空数百メートル、強化ガラス張りに閉め切られた空間は未だ井草の匂いの残る和室で、広さは数十畳、とても彼の目には推し測ることのできないだだっ広さが、またたく間に沖田の覇気を削いでゆく。和室には襖がいい、それも少し色の褪せた、紙の繊維が外光に透けて木目の間を泳ぐような。もとより代謝の良い沖田はじんわりと汗ばんでいる。照りつける日差しが近いせいだ。空調は完璧に制御されているが、彼女が卸したてと見まがう足袋の先を擦り合わせるところを見ると、一体誰のための冷暖房自動システムであるのか、ちゃんちゃらなっていない。彼女も彼女で寒いだの暑いだの言えばいいものを、姫様のくせにうんともすんとも言ってはやらない。沖田はだんだんと腹が立ってくる。ここからでは蝉の声も聞こえない。打ち水のしぶきも、子どもらのはしゃぎ声も。彼女はとても庶民の手には届かない装丁の、美しい挿絵が入った大判の本を広げている。花のせせらぎ、水のにおい――彼女はすぐそばにある夏を夢みて、うっとりと絵画に魅入っている。そーちゃん。沖田は姉の声を思い出している。
「沖田さん」
はっと顔をあげると、彼女が首を傾げて此方を見ていた。子ども特有のつやつやした黒髪に、きらびやかな簪がよく映えている。
「どんなものかしら」
「……さあ、俺にはさっぱり」
「沖田さんは、武州のご出身だと伺いました」
彼女が何か期待を込めた眼差しでそう言うのを、沖田は他人事のように聞いた。武州のご出身、とはまったく物も言いようである。どうせ土方の野郎があれこれ喋ったのだ。沖田はこの仕事が心底嫌になる。この年頃の子どもでも、例えば万事屋のチャイナ娘なんかとの方が、よっぽどうまくやれる自信があった。土方が大層この姫様をかっているのも気にくわない。武州の思い出話なんぞ聞かせでもしたのだろうか。花も水も到底腹の足しにはならない。きっと彼女には思いもつかない。
「直接行って確かめてみるといいです」
「武州へ?」
「何処へでも。江戸から少し離れでもすりゃ、花だって水だって適当に綺麗なのが拝めまさァ」
「まあ」
彼女はやおら口に手を当てて、沖田の端正な横顔を見つめた。
「私、江戸から出たことがなくて」
「知ってますよ」
「この街に咲いている花のことも、よくは知らないんです」
沖田は答えなかった。交代の時間はすでに五分を過ぎている。強化ガラスに映る顔は情けなく口をへの字にしたままであった。絵本を傾けた机の下では、幾重にも身に纏った暑苦しい着物から白い足首が所在無げに揺れている。彼女は黙って本を閉じた。土方さんなら何と言ってやるのだろう、柄にもなくそんなことを考えていると、長く冷たい廊下を無遠慮に走る足音が聞こえてくる。山崎の野郎、姫様の護衛に遅刻とは大した度胸である。沖田は刀を携え部屋を後にした。彼女は沖田の方を向かなかった。山崎は大慌てで何か弁明していたが、特に聞かないまま胃のあたりをグーで殴った。少しすっきりしたが、入れ違いざまに山崎が「そよちゃ、あっ姫様……」と言い直して沖田を盗み見た。今度は下っ腹をグーで殴ったが、あまりすっきりはしない。沖田は長く冷たい廊下を行き、階段を降りてゆく。冷房は効いていないはずだが、汗が冷えて少し寒い。
花のせせらぎ、と聞いて、沖田は何故だか姉のことを思い出した。姉のこと、武州の家のこと、それにつられるようにして、中庭に植えた茄子や胡瓜の花のことも。彼は曖昧な記憶をあまり深追いする気にはなれないでいる。あれから、もうずっとだ。大通りを抜けて屯所には戻らずぶらぶらと繁華街を歩くと、見慣れた四つ角を曲がり小さな公園にたどり着く。よく顔を知った子どもらが遊んでいる。よもや花の匂いをかぎ、水しぶきの軌跡に手を叩く殊勝な子どもはいない。沖田はのろのろとベンチにもたれかかり、土方さんならここで煙草の一本や二本吸い始めるかもしれないと考えた。今日は非番だったはずだ。あまり顔を合わせたくはない。
「何やってるアルか、税金ドロボー」
ふと軽やかな気配、その直後、後頭部の方から不機嫌な声がする。沖田は目を瞑ったまま動かない。
「おい、聞こえてんだロ返事しろヨ」
「……ったく、うるせェな」
いつものように軽くあしらおうと胸ポケットからアイマスクを取り出したところで、彼は何かふと思い立ち、動きを止めて彼女を見た。頭のてっぺんから靴のつま先までを、その少女の出で立ちを。目鼻立ちはあどけなく、手先の形など瓜二つであった。
「何アルか気持ち悪い」
「そうか……まだガキじゃねェか」
「いよいよ頭でも湧いたアルか」
神楽は胡散臭そうに彼を一瞥したが、それでも構わない。沖田はようやく目が覚めたようにぶるぶると頭を振り、ベンチから立ち上がる。幾許か思案した後、おもむろに口を開く。
「お前、兄貴がいただろィ」
「はァ?」
「お前の兄貴」
脈絡のない会話に、彼女は些か面食らった。
「……喧嘩売ってるアルか」
「最後まで聞きなせェ。兄貴がいた。遊び相手だ、兄貴がいて、それから家があっただろ、お前の家族の家。姉上が手入れして……あぁ、その周りに花は咲いてたかィ?一つくれェあっただろ、そうに違いねェ。別に何の花だっていいんでさァ、茄子だって胡瓜だって。それなりに咲かねェと実がつかねェんだ。姉上の植えた、花が咲いて……」
沖田は矢継ぎ早に言い足していった。頭の中の記憶がこぼれ落ちる前にと、継ぎ接ぎした文章がとっかえひっかえ口をついて出てきた。武州の家、それはもはや彼が自身の奥底にしまい込んだ記憶上のものにすぎなかった。そこには姉がいた。今はもういない姉の記憶。沖田はそれをこじ開け、神楽はそれを見つめ、目を凝らして理解しようとした。二人はそれぞれに途方も無く愛しい過去を抱え、抱えたままそれ自身に押し潰されまいと足掻いていた。
「姫様には、いつ会うんでィ」
「……そよちゃん?」
上ずって、枯れた声だった。
「たぶん明後日……ううん、明日、明日会うアル」
「それを、言ってやんなせェ」
「え?」
「俺ァ姉上のことになるとどうもダメでねィ、ひどいこと言っちまった。いや、その逆かも知れねェ、何にも言わずに帰ってきちまった。あの塔の一番高いところから。あそこはガラス張りでいけねェや、透明なくせに何にも見えやしねェ」
町の真ん中に聳える鉛色のビルディングがくっきりと彼女の青い瞳に映り込むのを見て、沖田は息を吐いた。
「私だって、にーちゃんのことになるとダメダメアル」
そう言って目を細める神楽の頬を、定春がぺろりと舐める。沖田は眉を下げて小さく笑む。花がせせらぐことを、二人は記憶のうちに知っている。