「このまま一緒に逃げちゃおうか」
新宿駅の改札を出ながら、臨也は後ろをついてくる波江に声をかけた。首を傾げて、照り返しの強い雑踏の中、彼女が聞き取りやすいようにと僅かばかり声を張りさえした。彼女はうすぼんやり臨也の背中を見つめたまま、肩にかけたバッグへICカードを放り込み、彼の言葉をゆっくりと反芻する。
「それを言うのなら、電車の中がベターじゃなかったのかしら」
「いやなに、今思いついたんだ。電車の中じゃ、そうだな、前に座っていた若い男がいたろ、俺くらいの年の。そいつが君のことちらちら見てて、それであんまり頭が回らなかった。今考えてみると確かに、電車の中で言えば良かったな。君の言う通り。さっきは何線に乗ってたんだっけ」
臨也はわざわざ立ち止まって彼女の横に並び、それから歩を進めた。二人は人混みが好きではない。つい今しがたこの街から逃げることを考えた頭で、早くあのマンションへ帰りたいとも思っている。二人はこの上なくクーラーが好きだ。彼女の額に滲む汗を、臨也は少し気にしている。
「…逃げたいのね?」
「うん」
二人はお互いにしか聞こえない声の大きさで言葉を交わした。真夏日だった。それきり黙って歩き続け、途中、家電量販店に寄って炊飯器を物色する予定だったが、二人ともがそれについて触れることはなかった。二人の足はまっすぐに新宿で一番高いタワーマンションへ向かっている。それしか行き場を知らない。二人は他に行き先を知らなかった。それが酷くもどかしく、ひどく現実的で、臨也は彼女の手を取らずにはいられない。波江はただじっとして、乱暴に繋がれた二人の指先を眺めている。じりじりと灼かれるような力に波江は目眩を覚えた。どこかに連れていくつもりかしら、彼女は額から耳元へ、つう、と流れる汗を拭うことなく考えて、乾いたくちびるを無理やりこじ開け喉を鳴らす。
「臨也、暑いわ」
「そうだね。早く帰ろう。クーラーをつけて、室温は二十五度にして、麦茶には氷を三つ入れよう」
ひんやりと脊髄に触れるような臨也の声を、波江はこくりと頷いて咀嚼した。氷は四つでもいいくらいだ、と彼女は思ったが口には出さなかった。二人はわかっていた。二人は二人が共に暮らし始めたあの日から、もうずっと逃げ続けている。それがあんまり心地よいものだから、少し言ってみただけなのだ。少し言ってみた、それだけだ。
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