信じていたわけじゃない。だからといって信じていないって事でもない。見たことがあるとか、何かを感じるとか、そんな経験だって勿論無くて……。
なんというか、それまでの自分には関係の無い、縁遠い世界のことでしかなかったのだ。

まだまだ冬の温度が身に凍みる冷たい季節。
アパートの敷地内に生えた大きな枝垂れ桜の、花も葉も無い枝だけの不気味なその姿は、あと二カ月もすれば美しい色を纏うなんてとても思えない。そんな頃だ。
暖冬の今年。雪に凍える事もないが、外出の際の厚手のコートは必所品で、夜の冷え込みは一層激しく、ベッドの上の羽毛布団はまだ当分の間、手放せそうもない。
俺は一度寝ると朝まで起きない事が多いのだが、その日は何か恐い夢を見た。どんな夢かは覚えていないのだが、それが夢だと気付き目が覚めた。
目が覚めるというか、意識が覚醒したのだ。
自分は眠っている。
目を覚ましたい。
けれど、目は開かない。
だが、部屋の映像は見えている。
これは、どういう事だ?
身体が動かない。手足に力を入れているのに、ビクともしない。
「……っ、ぅ」
声も出なかった。
もしかして、金縛りというやつだろうか?
そう気付いた途端。
部屋に誰かがいる気配がした。
俺は一人暮らしだ。自分の他に誰かがいるはずがない。
でも、いるのだ。凄く近くに、いる。
「!?」
瞬間、フッと全身の硬直が解ける。
開けた視界に映ったのは今し方の金縛りの最中に見えたのと同じ、常夜灯に照らされる薄暗い室内。
でも、一つ、とんでもなく大きな違いがあり――
「あ、起きた」
「っっっ!!」
自分の顔の前に、誰か知らない顔があったのだ。
見たこともない、男の顔が!
叫び声を上げてもいい状況だ。しかし、人間、本当に驚いた時には声も出ないというが、まさにその通り。あまりの衝撃に声も出ない。
「あれ、見えているのかい?」
俺が目を見開いて絶句していると、目前の男も驚いた表情を浮かべた。
目前と言っているが、そんなに距離が近いわけでない。
仰向けに横たわっている俺の真上にある顔が、近い距離ではないなんて普通は有り得ない。簡単な話だ。地球には重力というものが存在するのだから。けれど、実際には男は離れていて、身体の一部分だって俺と触れ合ってはいない。
なぜなら、男の身体は宙に浮いているのだ。
「おま、え、……な、なに?」
やっとの事で紡ぎだした言葉は、自分自身も驚くほどに普通の質問だった。
「すまない、驚かせてしまったね。見えてないと思っていたから」
「ゆ、幽霊?」
そう、どう考えたって生きた人間ではない。
でも、男は生きた人間がするのと全く同じように笑った。
「い、いつからいたんだよ?」
「うーん、わからない」
ヘラッと笑ったその顔に、それまで硬直していた身体中の筋肉が解れた。急激に脳が酸素を求めて呼吸が荒くなる。
まともに息をするのも忘れていたようだ。
「留三郎、大丈夫かい?」
心配そうに眉を八の字に寄せて、男はそう問い掛けてきた。
「留三郎って誰だよ?」
呼び掛けられた名前は俺の名前では無かった。
「あ、そうだよね! 君が知り合いによく似ているから、つい、さ」
男は、自分の頭を掻きながら笑った。寄せられたままの眉のせいか、どことなく寂しそうに見えてしまう。
しかし、「留三郎」とは、まるで三代前の爺さんの様な名だ。
でも、確かに男の服装は三代前の、いや、それよりももっと前の時代のようだった。
薄い紫の上衣に、裾のつぼまった濃紺の袴。
幽霊? の割に、ちゃんと見えている彼の足は素足で、長い髪は高い位置で一つに結い上げられている。男にしては、かなり長い。今風に言えばポニーテールだが、髷と言った方が正しいのだろう。
こういう服装や髪型は、おそらく江戸よりも前。
「お前、何時代の人間だよ? 戦国時代辺り?」
「なにじだい?」
「だから、お前の生きてた時代の元号は?」
「天正、とかだったかな?」
男の口から出たのは、日本史には疎いがそれでも現役大学生をしている俺が辛うじて知っている元号だった。
室町幕府から織田信長による安土桃山時代に切り替わった元号。つまり、こいつは織田信長と同世代ってことだ。
「長篠の戦いかよ」
「何それ?」
俺が上体を起こせば、男はふわふわと浮いたまま俺の顔を覗き込むようにして話しかけてきた。
「ねぇ、君、幾つ?」
「二十歳だけど」
「ああ、なるほど!」
「なにが?」
「いやいや」
何を一人で納得しているのか知らないが、おかしそうに笑っている。男の豊かな髪が宙を舞ってふわふわと揺れた。
「お前は幾つなんだよ?」
「僕? 三十路街道に突入したとこだったかな」
こいつが本当に室町時代の幽霊なら、その時代の年齢は数えなので二十九歳くらいと思っていいだろう。年上だろうとは思っていたが、そんな上だとは思わなかった。
常夜灯の元ではっきりと見えているわけではないが、この男はおそらく童顔だ。
「最近さ、あの可愛い子、来ないね」
「……」
男は、こっちの都合など知らないとばかりに質問を繰り出してくる。
何言ってんだ、こいつ、と思ったのだが――
「ほら、あの髪の長いさ」
それを言われてピンと来た。
おそらく、それは二ヶ月近く前に分かれた彼女の事だ。
度々、この部屋を訪れてはいたのだが、しかし、ってことは、こいつは二ヶ月も前からここにいたということだ。
「いつからここにいるんだよ?」
「だから、わからないんだって。気が付いたら、この部屋で君を見ていた」
「ずっと?」
「ああ」
あっさりと肯定され、俺は消え入りたくなった。
いつからどこから見ていたのか明確にはわからないが、少なくとも二ヶ月間の生活をずっとこいつに見られていたのだ。
彼女と寝ているのも、別れ際の大喧嘩で殴られたのも、泥酔して帰宅した部屋で吐いて床を汚したのも、いやいやいやいや、それよりも、もっと恥ずかしいのは、俺が一人で――
「大丈夫! 若いんだから自慰くらい毎日」
「わー、わー、わー!!」
まさに思い当たった、もっとも恥かしい事を口に出されたものだから、俺は慌てふためいて男の言葉を遮った。
「わかった、とにかくお前がずっとここにいたのはわかったから!」
「そんな恥ずかしがる事じゃないのに」
「恥ずかしいわ!」
ハァと俺は溜息を吐いて、枕元の携帯電話の液晶を見た。
午前四時十五分。
まだ、起床の八時までは大分時間があるし、何より眠りについたのが二時過ぎだったのを考えると、まだ眠った方がいいだろう。
最初こそ、この男に驚いたものの次第に状況に慣れていき、不思議なものでそうすると再び眠気に襲われる。
「とりあえずさ、明日二限から行かないとだから寝てもいい?」
多分、この時の俺は眠気で思考が麻痺していた。
じゃなかったら、こんな幽霊を放置して寝ようだなんて思わない。
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」
そうだ。まともな思考ではない。
こんな“幽霊と就寝の挨拶を交わして眠る“なんて。
きっと夢だ。
朝になって目覚めたら、またいつも通りの一人の朝だ。
全部、全部、夢のはず。







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