食伊←仙気味


【うるさい、うるさい】


すっかり夜も更けた時刻。
半刻程前に、布団に入った仙蔵であったが、廊下に立つ気配に気が付き、両の眼を開いた。
「伊作か?」
気配の主を察して、彼の名を呼び掛ける。
「仙蔵、起きていたのかい?」
戸の向こうから聞こえてきたのは、予想通り伊作の声だった。
「いや…」
眠っていなかった訳ではない。
ただ身に付けた習性として、外部の気配には敏感になってしまう。
「入ってこい」
そう言えば、遠慮がちに戸が開き、暗がりだった部屋に、月夜に照らされた外の明るさが細く注し込んでくる。
「…ご、ごめんね、こんな時間に」
おずおずと顔を覗かせて、白い夜着の裾から伸びた素足が、ヒタと部屋の床を踏み込んだ。
「あれ?文次郎は?」
「ろ組と鍛練にでも行ったんじゃないか?」
仙蔵はさもつまらなそうに答えながら、布団から身体を起こして、自分の傍へと伊作を手招きする。
伊作が戸を閉めると、再び暗くなった部屋にカチカチと火打の音がしてポッと油皿に淡い火が灯った。
さて…と仙蔵は、下ろされているその長く美しい髪をバサリと背中に払い、目前に座る眉を八の字にした伊作を見る。
「…なんだ?喧嘩でもしたか?」
「留三郎が悪いんだよ!」
即座に返ってきた苛立った様子の返答に、おやと眉を浮かせ、次に苦笑を浮かべた。
「別にお前が悪いとは、一言も言っていないが…?」
落ち着け、落ち着けとたしなめて、事情を聞き出そうと話を進める。
「一体、どうした?」
「うるさくて、眠れないから、ここで寝かせて!」
うるさいと言うのなら、今のお前の声のトーンも、この時刻にはどうかと思うが?そんな事を思ったが、口にはしない方が賢明だろう。
「何やら、委員会の修繕物を部屋でやってるんだよ!こんな時刻まで!トンカン、トンカン、うるさくて眠れやしない!」
成る程。
つまり、留三郎が部屋で修繕物を直す木槌やらの音が耳について、部屋を飛び出して来てしまった訳だ。
だが、しかし、仙蔵から言わせれば、それはお互い様にしか思えなかった。
先日は留三郎が、伊作が部屋で薬を煎じ始めて臭くて敵わないから泊めてくれ、と真夜中に訪ねてきたのだ。
まぁ、その際は寝た振りをして、部屋の戸を開かなかったのだが…。
面には出していないし、出すつもりもないが、“可愛くて仕方がない”と思っている伊作だ。
是非とも、泊めてやろうと思ったのだが…。
「ここで、寝ていくのはいいが、どこで寝るのだ?」
留三郎と伊作の物で溢れた部屋とは違いこの部屋は片付いているので、寝るためのスペースならいくらでもあるのだが、布団の数が無かった。
「布団は二枚だ」
仙蔵の下に敷かれた一枚と、まだ押し入れにしまわれている文次郎の一枚。
文次郎のを使えばいいと、言ってやりたかったが、湖やらで寝てしまう事もあるとは言え、明け方頃、鍛練を終えて帰ってきてしまった場合、布団が無いのも少し可哀想な気がした。
ふむ、と仙蔵が首を傾げると伊作が何やら四つん這いで近付き、キョトンと仙蔵が見ている目の前で、その下に敷かれていた布団の端の横たわってしまう。
「お、おい!」
「いいじゃない!仙蔵、一緒に寝かせてくれよ?」
仙蔵の枕の隣に持参した枕を並べて、そこに頭を置いている。
淡い炎の光に照らされ、明るい茶の髪は温かな色を帯びていた。
彼と共に寝るのが嫌なわけではない。
仙蔵は“伊作が可愛くてしょうがない”のだから。
「全く」
「おやすみ〜」
仙蔵が溜め息を吐いたのを、了承と受け取り、伊作は、ニコと笑うと瞼を伏せようとした。
その時、廊下から聞き慣れた声で問いが投げ掛けられる。
「おい、伊作は来ているか?」
「来ていません」
聞こえてきた留三郎の声に、伊作はムスと表情を固くさせて答えた。
「いるんじゃないか!!」
ガタンと許可もなく戸を開いて、留三郎は部屋の中に足を踏み入れた。
「来ていないって言ってるだろ?入って来るなよ!」
伊作はガバリと仙蔵の布団から身を起こして、中に入ってきた留三郎を睨み上げる。
伊作が仙蔵の布団に寝転んでいるのを見て、留三郎は表情をピクリと引き吊らせた。
「…」
「僕は今日、ここで仙蔵と寝ることにしたから、君は部屋で思う存分に委員会活動をしてくれていいよ?」
「伊作!」
伊作の物言いに留三郎が声を荒げると、伊作はガバリと立ち上がって、文句があるのか?とでも言わんがばかりに留三郎の前に立ち、不機嫌な顔を付き合わせる。
留三郎の元より鋭い目付きは、さらに鋭さを増している。
しかし、普段は笑顔の多い伊作の怒りの表情にも恐ろしいものがあった。
「…お前だって、部屋でとんでもない異臭を発生させてんじゃねぇか!お互い様だろ?」
「異臭?別に異臭なんて出してないよ、勝手に君が出ていくんじゃないか!」
「異臭が出てるんだよ!お前の薬作りは!!鼻が馬鹿になってるから分からないんだろ?」
「馬鹿になんてなってないよ!ただ、そんなに耐えきれない程じゃないって言ってるの!」
二人の言い争いは、勢いを増していく。
争う声の大きさは、両隣どころか、廊下伝いに響いてそうな位だ。
仙蔵は困ったものだと、二人の言い争いを止めるタイミングを計り、黙って二人の会話を聞いていた。
「耐えきれないだろ?どんだけ臭いと思ってるんだ?関係ないのに、あの異臭が染み付いた部屋で過ごすこっちの事も考えろ!」
「鼻で息をしなきゃ済む話だ!!」
「普段、喉風邪の原因になるから、鼻呼吸しろって言って来るのは誰だよ?」
「それは、…君の、健康を考えて」
「…伊作」
今まで目前の顔を睨み付けていた伊作が途端に口ごもると、ゆっくりと俯いてしまった。
「…悪かったよ、もうしない」
「いや、僕も…、部屋を飛び出て怒る程じゃなかった…」
留三郎は吊り上げていた眼を戻し、それどころか心無しか頬を赤くている。
「いつも、部屋で薬草を煎じて、ゴメン。臭い、キツイよね」
「大した事ないさ。その薬に助けられることも多いしな」
「それにしたって…」
「あああ!っもう!!」
いつの間にか、喧嘩から、二人の世界へと変わってしまった空気を、耐えきれなくなった仙蔵の叫び声が切り裂いた。
「満足か?満足であろう?」
静かに怒りを浮かべる美しい顔が二人の顔を交互に見ると、ニコリと微笑みを浮かべた。
その表情に思わず二人は後退りする。
「では、帰れ?」
「せ、仙蔵?どうし…」
「うるさい!すぐ、帰れっ!!」
「あーあー、悪かったよ、悪かった!」
仙蔵の上げた声に、留三郎は慌て伊作の手を引いて部屋をバタバタと飛び出していった。
「全く…」
ワナワナと怒らせていた肩を下ろすと、溜め息を一つ吐く。
人の気も知らないで。
睡眠を妨害された上に、仲裁に入るまでもなく仲直りとは迷惑極まりない。
自分が巻き込まれる必要など無かったではないか!
怒らせていた肩を下ろし、油皿の火を吹き消すと、伊作が乱した布団を整えその中に潜り込んだ。

2人が去った部屋は、途端に静けさに包まれる。
先程までの賑やかさの半面、静寂が深く感じられた。

あー、嫌だ。

静寂に、よくわからない寂しさを感じて、ゴロリと寝返りを打つ。
賑やかなのは、好きではない。
静けさの方が性に合う。

だと、言うのに…。

「あー、疲れた、疲れた。ギンギンに寝るかっ!」

物音を立てぬように等の遠慮も無く、バンと盛大な音を立てて、その男は帰ってきた。
ドタドタと足音を殺すこともなく、部屋に踏み入ってくる。
「…きさま」
「なんだ?仙蔵、起きてたのか?」
「お前の、隠そうともせぬそのむさ苦しさ、寝てても起きるわっ!!」
「なんだ、そりゃ?いつも寝てるじゃねぇか?」
「うるさい、うるさーいっ!」
仙蔵は、枕を投げ付けてから、再び、布団に横たわったのだった。

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10/11/20

留伊企画「不運サンドの召し上がり方」に提出




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