一度だけ、留三郎と寝た。

もう一年も前の事だ。
五年生の秋の頃だった。
「男との色事って、どんなものか試してみようよ」
僕は酒に酔っていた。
仙蔵が手に入れてきた酒を、文次郎、小平太等、お馴染みの面子で一頻り飲み干した後だった。
留三郎は、委員会があるから…と参加はしなかった。
留三郎から不参加の返事を得た時、僕は今日しかない…と、そう思った。
留三郎と関係を持つなら、今日が好機だ。
酒の酔いで気分は上がって、普段は言えない様な言葉がスラスラと口から出た。
赤面してしまうような言動も、酔いの赤ら顔で誤魔化される。
冗談は止せと言う彼を、押し倒して、無理矢理に口付けを迫った。
思いの外、拒否無く受け入れられた口唇を離し、開けた視界に写った留三郎の顔に、なぜだが、僕は涙が溢れそうになった。
よっぽど情けない顔だっただろう。
きっと、輪郭は酒で浮腫み、肌は赤らんでるに違いない。
しっかりと開かない目蓋から、目頭に涙が溜まっていく。
多分、凄く不細工な面をしている。
今、思えば、留三郎は同情してくれたのだろう。
そのあまりに情けない僕の姿に…。
一度舌打ちをすると、留三郎は何も言わずに僕を組み敷いた。
最中の事は、今でも思い出せる。
酒に酔っていたが行為が始まってしまうと、それも醒めた。
ああ、遂に留三郎の肌を知れる。
留三郎の欲を知れる。
今でも、まだ思い出せる。
きめ細かい君の白い肌の触り心地。
肌の下の硬い筋肉の感触。
上昇する肌の温度。
僕の体を探る薄い骨ばった手。
発情した荒い息遣い。
時たま漏れる快楽の声。
愛しい君の身体の熱さ。
重なる視線の先、熱に浮かされたような君の顔。
しなやかな、だけども力強いその腕で抱き締められたら、
まるで、君も僕を想ってくれていたかのような…、
そんな錯覚に陥る。

翌日の朝、僕が目覚めると、既に彼は目覚めていた。
二日酔いで頭が重いし、それ以上に初めて男を受け入れた箇所が痛んだ。
ゆっくりと身を起こすと、僕に背を向けて座っていた彼が、こちらを振り向いた。
その時の彼の顔といったら…。
彼の困惑の表情を見た瞬間に、昨晩、彼に抱かれながら、迂闊にも少しだけ抱いてしまった希望が、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
しかし、それは、予定外の希望であり、僕は最初にこの朝は、こう言おうと決めていた言葉を吐いた。
「あれ?僕、いつの間に部屋に帰ってきたんだろう?」
それは、つまり、何も覚えていないという事を告げた訳だ。


この記憶があれば、生きていける。
一方的な恋慕を抱いてしまった“友人”に抱かれたこの記憶があれば…。
欲張ってはいけない。
僕は、これで満足だ。



【だきしめて】



「雪でも降りだしそうな寒さだな」
留三郎と2人、学園長からの使いの仕事を任され学園への帰路を辿る道すがら、どんよりと曇った重たい空を見上げて彼は言った。
「そうだね、酷い冷え込みだ」
僕はあまりの寒さに、いい加減耐えきれなくなり、自分の両腕をモゾと組んだ。
留三郎が見ている空を、彼の少し後ろに立つ位置から見上げた。
灰色の空。
葉の落ちた木々。
肌に刺さる冷気。
ああ、もう、冬なのか…。
そんな風に季節の移り変わりを感じて、落胆をした。
6年の冬だ。
留三郎と共に過ごせる、最後の冬。
春が来る頃には、僕等は別々の道を歩く事になるのだ。
このまま、永遠に冬のままでいいのに…。
寒さが苦手な自分を棚に上げて、そんな事を祈った。
「このまま、冬ならいいのにな…」
「えっ?」
留三郎が漏らした言葉に、僕は驚いて彼を見た。
だって、それは、今、僕が考えていた事で…。
彼は、美しくも無い淀んだ空を、眩しい物でも見るかのように見上げ続けていた。
胸が高鳴る。
寒さからではない震えが腕を伝う。
期待してはいけない。
期待してはいけない。
僕は留三郎の“友人”なのだから…。
五年の秋のその夜の事は、あれから互いに口にする事は無かった。
当然だ。
無かった事になっているのだから…。
留三郎は、優しい男だ。
僕の彼に対しての想いが“友情”のそれでは無いと気取られてしまえば、きっと困らせてしまう。
だからこそ、その優しさに付け込み、利用して、
彼を諦める事にしたのだ。
ただ一度でも彼に抱かれた記憶があれば、それを糧にして、生きて行ける。
そう割り切っていた。
だから、わざと酒に酔って彼に迫り、その肌の温もりを記憶の中に刻みつけた。
しかし、なぜだろうか。
あの日から、留三郎の顔を見る度に切なさに駆られて、泣き出したい気持ちに陥る事がある。
そうして、それが成就を諦めた恋への未練だと気付いた。
…手に入れたい。
…触れたい。
…欲しい。
こちらを見て欲しい…。
ああ、僕はなんて欲深いのだろうか…。
求めてはいけない。
求めてはいけない。
欲張ってはいけないのだ。
「ねぇ、留三郎」
僕は、ぼんやりと空を向いたままの彼の名を呼んだ。
灰色の空から、こちらを向いた顔に薄く浮かんだ笑み。
ああ、僕の好きな留三郎の顔だ。
「最近、通ってる娘でも出来たのかい?」
「えっ?」
「毎夜、抜け出すじゃない?」
それも、わざわざ就寝の挨拶を交わして、互いの床に潜った後に…。
ここ数か月の間だ。
ひたひたと胸の内に押し隠して来た嫉妬と、絶望。
到頭、留三郎は他人の物になってしまった…、と。
気取られてはいけない。
腹の底に渦巻くドロリとした負の感情。
「隅におけないなぁ、羨ましい!」
自分の内側を覆う様に、燥いだ調子で声音を上げた。
「あっ、誰にも言ってないから大丈夫だよ。仙蔵にも、文次郎にも。」
そう言って、クルリと勢いよく振り向く。
留三郎は、眉を顰めて僕を見ていた。
僕の嫌いな顔。
「いいな、僕も恋がしてみたいよ…」
「…御法度だろ?」
「人生は一度しかないんだよ?」
僕等に悩んでる時間は無いよ、と抱えてる想いとは裏腹な明るい言葉を吐いて、僕は再び歩き始めた。




ああ、寒い。
これは、きっと、多分、遂に降って来てるだろうな…。
僕は、包まった布団から覗かせた顔の鼻に感じる冷たさに、明日の雪の予感を確信する。
寒いのは苦手だ。
昔からそうだった。
そんな僕を、軟弱だ、だらしがないという文次郎とは打って変わって、留三郎は、寒いのか?しょうがねぇな…と言っては、なんだかんだと世話を焼いてくれていた。
一番、最初は、まだ2年の時だった。
確か、その年の初雪の晩の事だった。
部屋の中央に置かれていた一つだけの火鉢を、留三郎は、寒さに凍える僕のスペースに寄せてきた。
慌ててその厚意を遠慮する僕に、留三郎は笑って言った。
俺が風邪を引いたらお前が治してくれるけど、お前が風邪を引いたら皆が困るだろ?
それ以来、火鉢はいつもこちらのスペースに置かれている。
ボンヤリと過去の思い出に浸っていると、静かだった室内の中、衝立の隣から音がした。
ああ、今日も行くのか…。
いつもどれだけの時間で帰って来てるのかはわからない。
彼が部屋を出る頃に、僕はうとうとと眠りに付き、僕が目覚める時刻には、既に彼はこの部屋に戻っている。
どこに行くの?
行かないで…。
行かないで欲しい…。
どうして僕がそんな事を、彼に言える?
ただの“友達”が、そんな事を言える?
僕は、どうにもならぬ現実から目を背けるように、寝返りを打って衝立に背を向けた。
「…なぁ、起きてんだろ?」
突如、掛けられた声に僕は驚いた。
心臓が跳ねたような衝撃。
暫くの間の後に、なに?と短く返事を返した。
まるで、凄く眠いような口調で。
「…」
「なんだよ?」
自分から話し掛けておいて、黙りとなった留三郎に僕は背を向けたまま、声を掛けた理由を問いただす。
「…雪が降って来た」
「そうだろうね、こんなに寒いんだから」
「覚えてるか?」
留三郎のその言葉に、僕は内心焦った。
それが、5年の秋のあの晩を指しているのではないかと思ったからだ。
しかし、予想は外れる。
僕の押し潰している心が喜ぶ方へと…。
「何年か前の初雪の日、お前の方に火鉢やった日」
ああ、まさか…。
どうして、こうやって、同じ事を思っていてくれてるのか…。
悪戯に、僕の心を喜ばせないで欲しいのに…。
「…4年前だ。2年の時だよ」
「ああ、そうだった。…本当はさ、俺、あの時寒くてよ」
留三郎はハハと愉快そうな笑い声を交えて昔話を始めた。
「だっていうのに、お前の方見たら、お前なんか歯ガチガチ言わせててさ。なんか、差し出しちまったんだよな」
僕は、相変わらず衝立に背を向けたままだ。
だから、彼が立っているのか座っているのか、はたまた、自分と同じように布団に横たわっているのか、わからなかった。
「ガキながらに格好付けたはいいけどよ…。あの晩、寒くて寒くて眠れなかった…」
「…知らなかった」
「そこで寒いから、やっぱり真中に戻そう、なんて言えないだろ?」
「なんで?なんで、黙ってたの?」
「格好付けたかったんだよ」
「どうして?僕の前で格好付けたって、なんも良い事無いのに…」
僕は衝立に背を向けたまま、掛け布団を擦り上げた。
「これで最期だな」
「そうだね」
最期とは、つまり、互いがいる状態で過ごす冬の初雪が…。
「冬のままでいいのにな、って、さっき、言ったけどよ。やっぱり、冬は駄目だ、寒い」
「そうだね、僕も冬は嫌いだよ」
会話の合間に沈黙を挟みながら、他愛ない会話を続ける。
わかってる。
彼が切り出したいのは、そんな話じゃない。
「なぁ、聞いてもいいか?」
「嫌だよ」
僕の即答に、彼はどんな思いを描いただろうか。
「人生は一度なんだろ?少しくらい答えてくれよ」
溜め息も笑いも含まない静かな返答は、僕の心臓をギューと鷲掴みにした。
「去年の秋…」
「留三郎」
逃げないと。
逃げないと、心臓を潰されてしまう。
「もう、僕、眠たいから寝るね…」
「伊作」
「早く行きなよ、誰か待ってるんでしょ?」
「伊作!」
留三郎の僕の名を呼ぶ鋭い声に、僕は脅えた。
怒らないで。
嫌わないで。
「どうして、俺に抱かれた?」
折角、諦めたのに…。
思い出の中にしまい込んでるのに…。
「何のこと?意味がわからないんだけど…」
「惚けるなよ」
その声は思いの外、近くて…。
衝立を越えて、いつの間にか、背後に回っていた彼は僕の顔まで覆っていた布団を剥いだ。
視界に入った留三郎の顔。
彼の感情を読み取る前に、反射的な声を上げた。
「…怒らないで」
「怒ってない。どうして、怒るんだよ?」
「…思い出が欲しかったんだ」
自分の顔がみっともなく歪むのが分かる。
涙が出そうになるのを耐えるから、余計に、表情がひきつる。
「君と離れて生きて行く為に…、思い出が欲しかったんだ」
口を突いて出てしまう真実から逃れるように、両腕を交差して顔を隠す。
「一度だけして、そうしたら、友達に戻るからって…」
耐えきれずに溢れ出した涙を腕で拭う。
鼻が詰まるし、息が苦しい。
なんて、情けないんだろう。
「嫌わないでくれ。軽蔑しないでくれ」
たった数秒の間の無言。
それがうんと長く感じた。
留三郎は、今、どんな顔をしているだろうか?
酷い軽蔑か、憎しみか、怒りか、冷めきった白い目か…。
恐くて、眼前の腕を退けられない。
カタカタと身体が震えた。
その時、額に冷たい物がペタリと触れる。
「…お前はさ、いつもそうだよな。最初に自分を否定する」
想像してた、どの感情とも違う声が降ってきた。
そして、僕はその冷たい物の正体を知る。
「考えた事無いだろ?」
額に当てられた彼の手のひらの冷たさは、次第に僕の熱を吸って温かさを含んで行く。
ただ呆然と彼を見る僕の顔は、どれだけ間抜けだっただろうか。
でも、それ以上に、君の顔が嫌になる位に、僕の好きなそれだった事に…。
ああ、勘違いしてはいけない。
勘違いさせないでくれ。
「思い付きもしなかったんだろう?」
いつだって夢に見てたさ。
夢に見るだけなら自由だからと、僕を見詰めて微笑む君を。
「俺もお前が好きだなんて事」
だって、有り得ないだろう。
君も、
僕が
好きなんて。
彼の掌が、僕の輪郭を撫でる。
それから、僕の頬を擦った。
状況に追い付けない頭が、それは涙を拭ってくれた動きなのだと気付く。
「思い出だけで満足出来るのかよ?」
留三郎のその顔に、沸々と興奮が胸に込み上げる。
思い出だけでいいと思ってた。
思わなくてはいけなかった。
だけど、今、彼は、目の前に…。
「…出来ないよ、馬鹿野郎!」
僕は思わず、上体を起こして、ガバリと留三郎の首に、腕を回してしがみ付いた。
うわっ、と留三郎は、驚いた声を上げて、脇に付いた手で、僕を支えた。
ああ、馬鹿だな。
これから、春には忍としてやってかなきゃいけないのに…。
留三郎も僕も馬鹿だな。
「留三郎」
「なんだよ?」
欲張ってはいけない。
わかっている。
だけど、今、せめて、これ位は言ってもいいだろう?
「だきしめてよ」
しなやかな、だけども力強い留三郎のその腕の感触。
心地よい圧力。
「もっと、強く」
ああ、きっと、また僕は欲張りになってしまう。




「ところで、いつもどこに行ってたんだい?」
「普通に考えろよ、自主練だよ」
「なんだ、つまらないの」
「おまえな…」


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10/05/01

食伊企画「ペアが出来たらあがれるからね」に提出




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