なんてことだ。
なんてことだ。
なんていう人だ。
元から少し鈍いというか、感覚がズレた人だとは思っていたが、まさか、ここまでアレだとは…。


【君の全てが愛おしい】


滝夜叉丸は、ズンズンと足音を立て長屋の廊下を歩く。
夜着姿だから、大股で歩くと裾が崩れてくるというのに、彼にしては珍しく気にしていない。
時刻はそろそろ子の刻だが、そんな事はお構い無しだ。
六年長屋から、五年長屋の前を通り、四年長屋の自分の部屋の前に辿り着くと、入室の断りも告げずに思い切り障子を開いた。
「おやまぁ」
部屋の中には、既に敷かれた布団の上に、今、正に眠ろうとしていた様子の寝巻姿の喜八郎がいた。
滝夜叉丸は同室の彼の驚きの声には、何も答えずに、用意されていなかった自らの布団を押し入れから取り出し、畳の上に敷きはじめる。
喜八郎の驚きの声といっても、彼は顔も態度も至って普段通りで、彼が驚いている様子に気付いけるのは、おそらく、同室の滝夜叉丸、同学年の三木ヱ門、もしくは、同じ作法委員会の者位だ。
喜八郎が見ている間に、滝夜叉丸は布団を敷き終え、アッという間に布団に入っていた。
「どうしたの?」
喜八郎は、自分に背を向けて横になっている滝夜叉丸の背中に声を掛けた。
だが、滝夜叉丸からは返事がない。
「今日は七松先輩の部屋で寝るんじゃなかったの?」
「うるさい!」
途端に声を荒げた滝夜叉丸に、おやまぁと喜八郎は首を傾げた。
実際、滝夜叉丸が部屋に帰ってきた時点で何かあったのはわかった。
だが、別にこれが初めてな訳でもない。
いつも、小平太と何かあると「聞いてくれ、喜八郎」「起きろ、喜八郎」と昼夜を問わずに喚くのだ。
それが、今夜は随分と静かだ。
静かというより、殺気立っている。
喚かれなくて幸い、と無視して寝てしまおうかと思ったが、滝夜叉丸の背中が震えているのに気付いて頭を掻いた。
「泣いているのかい?」
「泣いてなどいない!」
返された返事は鼻声だ。
全く素直じゃない。
滝夜叉丸は、喜八郎に言い当てられた涙を掛け布団で拭う。
「やっぱり、泣いてる」
「うわぁっ!」
顔を上げると、いつの間にか、音も無く目の前で喜八郎が覗き込んでいた。
「一緒に寝てあげようか?」
喜八郎は、滝夜叉丸の指触りの良い頭髪を撫でてやる。
「いい」
顔を隠すように、布団で隠して滝夜叉丸は言った。
「そう?いいの?」
「いらんと言ってるだろう!?」
滝夜叉丸が声を荒げるが、自分が上げた声音のキツさにハッとして、布団から顔を出した。
「あれ?」
しかし、そこにいた筈の喜八郎の姿はなく…
「素直じゃないなぁ」
「うわっ!」
背後からの声に振り返ると、既に布団に潜り込んで、横たわっている喜八郎の姿があった。
滝夜叉丸と向かい合わせに寝転んだ喜八郎は何も言葉を発さずに、ただ滝夜叉丸を見る。



「今日、中在家先輩がいらっしゃらないから…、部屋に呼ばれてた」
「うん」
滝夜叉丸が怖ず怖ずと話し出したのに、喜八郎は相変わらずの無表情のまま、相槌だけを打った。
長次がいないから、今晩は私の部屋においで、と、委員会が始まる前に耳打ちされた。
その言葉に思わず彼を見ると、小平太が浮かべていた満面の笑みに滝夜叉丸は黙って頷いた。
阿呆みたいに山を何度も往復して、挙げ句に方向運痴の後輩も毎度の如くの行方不明になり、最後には一年坊主は力尽きて眠ってしまった。
漸く見付けた無自覚な方向運痴の手を握り、もう片方の手には疲れ切った二年生の手を握り、一年生を背におぶさり歩く小平太の背中を追って、赤い夕日が照らす道を帰ってきた。
ハッキリ行ってクタクタだった。
だけども、今日は小平太と供に夜を過ごせるのだと思うと疲労感も吹っ飛んで、風呂では泥だらけになった全身を念入りに洗った。
殊更、乾いた髪は綺麗に梳いて……。
さて、そろそろ就寝時間だと、喜八郎に一言告げて滝夜叉丸は四年長屋を抜け出した。

既に何度か訪れた事がある六年長屋。
小平太の部屋の障子の前に立つと、途端に障子が開いて中に引きずり込まれた。
驚いた滝夜叉丸を、小平太は笑って抱き締める。
「ちょっと!先輩、私じゃ無かったらどうするんですか?」
「私が、お前の気配を間違う筈がないだろう?」
その言葉に頬を赤らめた滝夜叉丸の唇へと、小平太は触れるだけの口付けを落とした。
「待ちくたびれたぞ、滝夜叉丸」
「すいません。ちょっと、明日の支度を整えて…」
小平太に比べれば、背丈も身体の線も細く小さい滝夜叉丸は、そう言う間に簡単に布団の上に組み敷かれる。
「先輩…」
性急な動作で夜着の前を開こうとする小平太に、滝夜叉丸は、この後の恍惚を期待し目を閉じたが…。
ふと思い出す。
ずっと聞いてみたかった事があったのだ。
いつも2人になると、情交に及んでしまって聞き出す隙を逃してばかりだ。
今日もまた、このまま傾れ込むと聞けぬ仕舞いだ。
だから、今聞いてみようと、滝夜叉丸は口を開いた。
「先輩は、私のどこを好いていてくれているのですか?」と…。






「そうしたら…」
「うん」
滝夜叉丸は向き合った喜八郎から、目を逸らし俯いた。
「何も答えられなかったのだ…」
小平太はその問いに、えっーと、うーん…等と唸り声を上げて、首を傾げたのだ。
小平太のその様子が、見ずともに喜八郎に想像がついた。
「それで、飛び出してきたの?」
小平太が悩みだしてから、数十秒。
自分の上で、首を傾げて悩む小平太を押し退けて、部屋を飛び出した。
「そうだ」
「ふーん」
「元から、人と感覚が少し違う人だとは思ってはいたが、まさか…、まさかここまでだったとは…」
喜八郎は“少し”ではなく、“凄く”違うだと思ったが突っ込みは入れなかった。
「先輩は私の事など、好きではないのかもしれない…」
もしかしたら、自分の欲望の為に自分を利用しているのでは…。
そんな人ではないと思っていたのに…!!
一度、泣き止んだ滝夜叉丸の瞳が再び潤み始める。
「ねぇ、滝夜叉丸」
いつも通りの、どこか気の抜けた声で名前を呼ばれ、涙が零れそうだった瞳を拭い、滝夜叉丸は喜八郎を見た。
「滝夜叉丸は七松先輩のどこが好きなの?」
「えっ?」
「そんな風に聞くって事は、滝夜叉丸も考えてたんだろう?」
小平太のどこを好いているのか?
喜八郎は、ジッと滝夜叉丸を見詰める。
「あっ、あたりまえだ!」
赤面しながらも、声も大きく言った。
好きでもない男に、なぜ男の自分が足を開くというのだ?
小平太が好きで、小平太に触れられたいからに他ならない。
「例えば、どこが?」
「なっ、なぜ、お前に言わなくちゃならん?」
「いいからさ、言ってごらんよ」
喜八郎の坦々とした調子に次第に滝夜叉丸も乗せられ、普段の強気な表情に戻っていく。
そして、口を開いた。
「真っ直ぐなんだ。強引だし、単純だし、人の心中も察さない事も多いし。でも、自分の信念は絶対に曲げないし、意志が強い」
「うん」
「大抵の事には寛大だし、暖かいし。ああ見えて、面倒見はいいんだ。実は、結構寂しがり屋だったりするし」
「へぇ」
「あと、あの身体だって。私がどんなに鍛えたって、きっと、ああはなれない。骨の太さが違うし、私とは、何もかもが違う…」
「そっか」
性格に、外見に…要は、全部じゃないか。
喜八郎は、内心で溜息を吐きたい気分になる。
そんな喜八郎の心情も察さずに、話は続く。
「この間の委員会でも、次屋を探して、うっかり、私とした事が、本当にうっかりだが、落とし穴に落ちたのだ。その時だって、七松先輩は………」
滝夜叉丸はいつもの調子で、自分ではなく、小平太の武勇伝の数々を語り続けていたが、肝心の喜八郎の瞼が閉じている事に気付いた。
「って、おい、聞いているのか?喜八郎!」
「…聞いてるよ」
喜八郎は、瞳を開いた。
今の間はなんだ?と、唇をムッとして言う滝夜叉丸に、まぁまぁ、と誤魔化すように言った。
「それを七松先輩に言ってみたら?」
「えっ?」
「滝夜叉丸が七松先輩をどんな所が、どれ位好きなのかを言ってみなよ」
喜八郎は、布団を口元まで引き上げる。
目線だけは滝夜叉丸を向いたままだ。
「悪いけど、あの人、あんまり賢くはないと思うから、滝夜叉丸が何を考えてるか、何を求めているかなんて、ハッキリ言わなきゃわからないよ?」
「…そうか」
「そうだよ」
「そうだな!」
うんうんと、滝夜叉丸は納得するように頷いた。
「ありがとう、喜八郎!って…」
自信を取り戻した表情で、滝夜叉丸が喜八郎を見ると、彼は既に目を閉じて、穏やかな寝息を立てていた。
「全く…」
滝夜叉丸はクスリと笑うと眠ってしまった喜八郎を起こさぬよう、ソッと布団を出た。
そして、喜八郎の布団へと潜り込み、目を綴じた。
喜八郎とは絶対に同じ布団では寝たくない。

なぜなら、彼は物凄く寝相が悪いのだ。






翌日の放課後、授業が終わると、すぐに委員会の集合場所である体育用具準備室に滝夜叉丸は向かった。
「七松先輩…」
そこには、既にバレーボールを磨く小平太の姿があった。
「滝夜叉丸、早かったな」
「授業が終わって走ってきたので…」
「そうか」
小平太は、まるで昨日の事など覚えていないかのような笑顔を滝夜叉丸に向けた。
なんで?
もしかして、やはり、小平太は自分の事等、好きではなく…
だから、昨日、滝夜叉丸が怒って部屋を出て行ってしまった事も、気にならないのかもしれない。
「滝?」
入り口に立ち尽くして、動かない滝夜叉丸に小平太は声を掛けた。
見る間に元より白い顔色が、青褪めていく。
「どうした?具合が悪いのか?」
「いえ…」
滝夜叉丸は漸く室内に入ると、俯いて小平太の前に座る。
「昨日は申し訳ありませんでした」
俯いたままでそう告げる滝夜叉丸の頬に、小平太の大きな手が触れた。
「真っ青じゃないか?」
そう言って自分を見る小平太の顔が不安気で、本当に自分の事を想い心配してくれてるのだと、そう思えた。
そうすると、余計に泣き出したい気分になった。
「どうした?辛いのか?」
「…辛い、です」
ああ、なんて、自分は女々しいのだろう。
「私は、こんなにも七松先輩が好きなのに…、先輩が私を想って下さらないのが…」
「何を言ってるんだ?」
「昨日、伺ったじゃないですか?私のどこが好きなのですか?と」
「そうだ。その話をしようと思っていた」
「えっ?」
俯いて涙を堪えてる間に、気付けば小平太に抱き締められていた。
滝夜叉丸が俯いていた顔を上げると、小平太と目が合う。
どこか動物の目を思わせる大きな瞳で、真っ直ぐに自分を見ていた。
「昨日、あの後、考えたんだ」
滝夜叉丸が自分を押し退けて部屋を出て行ってしまった後、それを追おうとした。
だが、その前に滝夜叉丸が自分に投げ掛けた質問を考える事が先だと思った。
「滝夜叉丸のどこを好きなのか…、目とか、唇とか、肌とか、髪とか、足とか、頭が良いのに馬鹿な所とか…」
考えれば、考えるほど、キリがなかった。
悪しき所すらも、愛しく思えるのだ。
そうしてる間に、夜が空けてしまったのだ。
自分は、滝夜叉丸のどこが好きなのか?
「私は、滝夜叉丸の全部が好きだ」
笑顔でそう言った小平太の腕の中で、遂に滝夜叉丸は、その端正な顔を崩して泣き出した。
それに、小平太は焦って滝夜叉丸の髪をポンポンと撫でた。
「なぜ、泣く?」
「…先輩が、好きだからです」
滝夜叉丸は、困り顔で自分を伺う小平太の様子に、涙を流しながら笑顔を浮かべた。
「そうか、私も大好きだぞ」




「あーあ、こりゃ、当分、入れないな」
体育用具準備室の扉の隙間から、中を伺う後輩3人の姿があった。
三之助を一番てっぺんに、その三之助に目隠しをされている四郎兵衛に、さらに四郎兵衛に目隠しをされている金吾と、三人の顔がトーテムポールのように連なっている。
「ああ、もう、いつ入ったら、いいんだよ…」

3人は、同時に大きな溜息を一つ吐いたのだった。


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09/10/04



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