月の無い新月の晩。 厚い雲が星すらも覆い、辺りは闇と化す。 風も少なく、雨の予感も無い。 こんな夜は、絶好の仕事日和だ。 「先輩は、所帯を持たれる気はないんですか?」 まだまだその顔に幼さを残した後輩の彼は、そう問いかけてきた。 確か、三つ下のそいつは留三郎の事をよく慕い、普段から稽古を付けたり、共に任務をこなす事の多い相手だった。 彼の、その自分を慕い付いてくる様子に、学生時代の後輩を思い出し、留三郎もよく構ってやっていた。 「家族が増えたって、忍には支障が増すだけだろ?」 黒の忍装束を纏った留三郎は、足の筋を伸ばしながら答える。 「そうですか。僕は、てっきり、先輩には、奥さんがいらっしゃるものだと思っていました」 長期の休みの度に、どこかに行かれるし、休みの前になると嬉しそうです。 そう言って、留三郎と同じように黒の装束を纏った彼も腕の筋を伸ばす様に振り回した。 「そうだな。所帯っていうには、大分独立しているが…」 懐に手を入れ、伊作の傷薬が入ったそれがある事を確認した。 「共にありたいと願う相手はいるよ」 彼の姿を思い出し、一瞬だけ頬の筋肉が緩む。 「さて、お喋りはここまでだ」 口布を引っ張り上げ、顔を半分覆った。 「行くぞ」 留三郎は地面を蹴って、闇の中を駆け始めた。 今も、たまに夢に見る。 今思えば、とても“平和”だった学生時代を。 まだお前と出会ったばかりの10歳だったり、 自分の抱く想いに気付いてしまった13歳だったり、 想いを伝え合った14歳だったり…。 あの頃、自分達の周りには、たくさんの気の許せる仲間がいて…。 たまに、ごくたまに、思ってしまう自分がいる。 あの頃に戻りたい…と。 「伊作が、学園を辞めるそうだ」 食堂で、少し遅めの夕飯を取っている最中の事だった。 演習の後片付けやら何やらで、皆より少し遅れ、文次郎、小平太、長次と留三郎は共に一つの机を囲んでいた。 先刻までは、伊作も共に片付けをしていたのだが、それが終わると、保健委員の仕事が終わらないからと、夕飯も取らずに保健室へと駆けて行った。 時刻が遅いせいか、食堂は人が疎らで静かだった。 突如、現れた学年一の秀才は、夕飯はもう済ませた様子で、文次郎の隣に座ると偉そうに足を組んだ。 「それは本当か?仙蔵」 「嘘を言ってどうする」 最初に、驚きを声に出したのは、彼の隣に座る文次郎だった。 仙蔵はそれにツンと顔をそっぽに向けて答えた。 「俺は聞いてねぇ」 「同室のお前には言いづらいのだろう?」 あまりに突然の話に留三郎が、眉をしかめて仙蔵を見ると、彼は首を傾げて自分を見返した。 一同が驚きに箸を止めている。 「三日後には、発つそうだ」 三日後、と言う言葉に留三郎はガタンと席を立った。 箸を乱暴に盆の上に置くと、足早に食堂の出入り口に進む。 「おい、留三郎?」 文次郎の呼び止める声にも振り向かずに、その後ろ姿は廊下へと消えた。 シンと食堂が静まり返る。 しかし、それも束の間で、小平太が再び、豪快に夕飯を口に運び始めた。 「これ、いらないのか?じゃあ、貰うぞ!」 誰にともなくそう言って、留三郎のまだ大分残りのある夕食まで箸で摘み、口に入れる。 「“お残し”はいけないからな!」 ああ、と仙蔵は小平太に頷いて、笑みを浮かべた。 先刻の今で、笑みを浮かべる仙蔵を文次郎は訝しげに見た。 「テメー、何を企んでやがる?」 「知りたいか?」 「…いや、い」 「教えてやろう!」 仙蔵の不敵な笑みに、文次郎が拒否の言葉を吐く前に彼は口を開いた。 「その代わり、お前も手伝え」 授業の終了時には、保健室に行くと言っていたが、まだ彼が保健室にいるかどうかはわからない。 まずは、保健室、それから自室、そこにもいなかったら、どこかで落とし穴か塹壕にでも落ちているかもしれないから…。 と、頭の中では冷静に彼を探す道順を立てているが、落ち着いているようで焦っている。 その証拠に、彼を見付ける事にしか頭がいかない。 とにかく、伊作に会いたかった。 「留三郎!どうした?」 折角、考えた彼の居そうな場所候補も空しく、先刻の言葉通り、彼は保健室にいた。 「また、怪我したのかい?」 「いや…」 障子から顔を出した伊作のフニャリとした笑顔を見ると、なんだか、先程までの自分の慌てぶりが嘘の様に落ち着いていくのがわかった。 そんな気はなかったが、頭にすっかり血が上っていたようで、スーッと身体の緊張が解けた。 「腹でも壊したのか?にしては、顔色はいいね」 黙り込んで、自分を見ている留三郎に、伊作は首を傾げて、どれどれ?と額に手の平を当てた。 伊作の後ろで保健委員の後輩達が、何やらセッセッと動き回っているのがわかる。 「熱はないね」 「随分、多く薬を作ってるな」 「えっ?ああ、今、6年の先輩が風邪で寝込んじゃっててさ。僕も、三日後には出なきゃならないからね。可能な物は作り置きしとかなきゃ…」 三日後。 仙蔵の言っていた事と、同じだ。 という事は、本当に三日後に伊作は、学園を…。 「…そうか」 「あっ、ねぇ、留三郎、これにさ、なんか解りやすいように印を付けてよ」 そう言って、伊作は保健室の中に一度戻ると、何やら手にして来た。 手の中にあったのは、蛤の殻だ。 軟膏入れとして使われる物であるが、中身は入っていなかった。 「なんで?」 「いいから!留三郎が好きなようにしていいよ」 伊作は、頼んだよ?と留三郎の手に空の軟膏入れを握らせた。 理由の解らない留三郎が、口を開こうとするが、その時、伊作を呼ぶ後輩の声が聞こえた。 「今、行くよー」 伊作は、保健室を振り向きそう言った。 そこには、今にも泣き出しそうな顔で伊作を見る二年生の三反田数馬の姿があった。 「じゃあ、宜しく」 「えっ、ちょっ…」 ピシャンと障子を閉められてしまい、留三郎は蛤の殻を手に立ちつくした。 闇に浮かぶ月は、満月を過ぎ欠けていく途中の形だった。 その日の月はやけに煌々と輝いて、夜の学園の庭を普段よりも明るく照らしていた。 秋に向かう季節に、一足早く秋の草花がそこを彩っている。 留三郎は、長屋の自室の前の縁側に胡坐を掻いて、そこを見ていた。 「…」 「…長次か?」 フと隣に立った影に気付いて、そちらを見上げると無口な友人の姿があった。 彼の視線が、自分の手の平にある物に向いている事に気付く。 「ああ、これか?」 そこにあるのは、先刻、渡された蛤の殻だ。 「伊作にさ、解りやすいようにしてくれって言われたんだけどよ。…絵でも描くかなって」 ガリガリと頭を掻いて、留三郎は苦笑を浮かべた。 顎で庭を指して、そこに咲いている紫の花の存在を伝える。 「そこに、桔梗が咲いているからさ」 「…桔梗」 微かな声で花の名が口に出された。 「平家の愛人の名の花なんて、縁起が悪いか?」 「いや…」 長次は、その青紫の花を見て、目を細める。 「…美しい、花だ」 その表情が微かに、本当に微かにだが、優しい色を浮かべたように留三郎には見えた。 「そうか」 留三郎も笑みを浮かべて、その花に視線を戻した。 「けっ!ヘタレが何をしてやがる!!」 「…なんだと、貴様!?」 と、そこで長次の背後から、乱暴な物言いと共に現れた文次郎を、留三郎は半ば条件反射で睨み付ける。 「…伊作に、印をと、頼まれたそうだ」 「…そうかよ」 長次が留三郎の手の平のそれを指して話すと、文次郎はいつもの対留三郎の様子とは打って変わって萎らしい様子に変わる。 「なんだ、随分大人しく黙ったな」 文次郎の様子を、留三郎はフンッと鼻で笑った。 いつもなら、そんな態度に、まず噛みついてくる筈の男だが、彼は何も言わずに留三郎の脇まで歩み寄る。 「いいのか?」 文次郎は留三郎の隣に膝を付いて屈んだ。 神妙な表情が、同じ目線の高さでこちらを向いている。 「伊作が、行ってしまってもいいのか?」 「伊作が決めた事だ。俺が口出しする事じゃねぇ…」 「しかし…」 「伊作がっ!」 真摯な様子の文次郎の問い掛けに、留三郎は彼と目を合わせずに、イライラとした様子で声を荒げる。 「伊作が決めた事だ」 一呼吸置いてから、また落ち着いた声で文次郎の目を見て答えた。 一瞬、三人の間に無言が流れる。 「ああ、そうかよ」 文次郎は乱暴に立ち上がると、留三郎に背を向けた。 「…どうせ、後悔するのは貴様だ」 文次郎の背は廊下の端に消えるが、留三郎の視線はそれを見てはいなかった。 「…後悔か」 その晩、留三郎は眠気が来ない事を理由に、蛤の表面に色を重ね続けた。 その内に、夜は明けていたが、部屋に伊作が戻る事はなかった。 保健室で夜を越したのだろう。 次の日も、休み時間、放課後と、持てる限りの時間を彼は保健室で過ごしているようだった。 子の刻近くなっても、戻らない彼に、留三郎は絵付けの終わったそれを手に、自室を出た。 まだ、明かりの灯っている保健室をそっと覗くと、部屋の端にある文机に突っ伏して、寝息を立てている伊作の姿があり、他の生徒や教師の姿は無かった。 「伊作、伊作!」 「んっ、ああ、留三郎」 留三郎が彼に歩み寄り、そっと肩を揺すって呼び掛けると、伊作はうっすらと目を開けた。 眠気を振り払うようにゴシゴシと擦る目元には、隈が出来ていた。 「お前、部屋で、ちゃんと休めよ」 「そんな事言っていられないよ。ああ、留さん、貝に印をしてくれたかい?」 「ん?あっ、ああ、これ」 留三郎は、手の平に握っていたそれを伊作に手渡した。 蛤の表面は黒く塗られ、その上に青紫の桔梗の花が描かれている。 「うわぁ、凄い!これ、君が描いたの?」 その細やかに描かれた花の美しさは、如何に留三郎の指先が器用なのかを表していた。 伊作は眠気も吹っ飛んだ様子で、色彩を見つめた。 「綺麗だね」 感嘆の声に、留三郎は赤くなる頬を誤魔化して、こめかみを掻いた。 「これなら、これが留三郎のだって絶対に間違わない」 「え?」 伊作は立ち上がると、薬棚の脇に置かれた自分の救急箱を開けた。 留三郎に背を向けるようにしている為に、何をしているのかよく見えないが、伊作はこちらを振り向いてニコリと笑った。 「はい」 そう言って絵の付いた軟膏入れを、留三郎に差し出した。 「留三郎の傷薬」 ソッと、伊作の手の平からそれを受け取った。 先程と違い重みを増したそれは中に薬が入っているのだ、開かずとも解った。 「軽い切傷や火傷なら、効くから」 いつも君に使っているやつだよ?と言う伊作の言葉に、今まで、どれだけ自分が彼に手当をしてもらっていたのかを思い返す。 「暫くの間は、文次郎ともあんまり喧嘩しないでくれよ」 手当するのは下級生になるのだから、と再び立ち上がって開けたままの救急箱の元に戻ると、中身を整えて蓋を閉める。 「君が怪我しないかが、一番気掛かりなんだ」 伊作は眉根を寄せ、困ったような表情で留三郎を振り返った。 留三郎は、湧き上がる衝動に耐えきれず、立ち上がると伊作の背後に歩み寄り、伊作が振り返るよりも先にその背を抱き締めた。 「えっ?何?どうしたんだい?」 慌てた様子の伊作の頬が赤くなる。 しかし、留三郎はそれを見る余裕も無く、自分の取ってしまった行動に心臓がはち切れそうだった。 「…行かない訳にはいかないのか?」 絞り出すように出した声の最初は少し掠れてしまった。 「行かないなんて、…そんな事出来ないよ」 「行かなくてはならないのなら、それはしょうがない。それだけの理由があるのだろ。ただ、…俺は、後悔したくない」 “…どうせ、後悔するのは貴様だ” 後悔するのは、俺だと? 馬鹿を言うな、文次郎。 「留三郎…」 「…俺はお前を忘れない。だから、お前にも、俺を忘れないで欲しい」 抱き締めた身体は、決して柔らかくなく硬い筋肉のついた身体だ。 それでも、感じる体温の温かさに愛しさが込み上げる。 自分の低めの体温とは違う、彼の温度を叶うならば、この腕の中に留めたいと…。 「…お前が好きだった」 こんなに静かだったのかと、耳を疑う位に物音一つしなかった。 あまりの静けさに、自分の心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと焦る。 ほんの少しの間だったのだろうが、それが永遠に続くような感覚を覚えた。 しかし、その静寂は、あまりにも素っ頓狂な伊作の声で崩れた。 「過去形なのか?」 その返答に、思わず、はっ?と留三郎は口を空けて伊作の顔を見た? 「僕は今、君が好きだけど、君は過去形なの?」 「いや、今も好きだ、が…」 「じゃあ、僕達は好き合っていたんだね!」 グイッと伊作は、留三郎の肩を掴んで向き合った。 「一生言わずにいれば、君の友達として隣にいれるかと思っていたんだけど…」 その声は嬉しそうなのに、顔は今にも泣き出しそうだった。 「言っちゃったなぁ」 「伊作!」 留三郎が今度は正面から、ガバッと伊作を抱き締めると、伊作はその背におずおずと手を回し、背の感触を確かめ、その肩に頬を擦りつけた。 「ところで、留三郎、何か勘違いしてない?」 ハッとして、先程から感じていた留三郎との会話の違和感を拭おうと、そう問い掛けた。 「なんで、僕が君を忘れるのさ?」 「だって、学園を辞めるんじゃないのか?」 「ハァ?誰が言ったんだい?」 「仙蔵と、文次郎と長次にも…」 「仙蔵?」 伊作は、思いがけない友人の名前に驚くと、次にアハハ、と笑い始めた。 「僕は、三日後から、暫く新野先生の出張の御供で学園を空けるだけだよ!」 「はぁっ?」 「留三郎、仙蔵に騙されたんだよ」 「はぁっっ?」 声が裏返りそうな位に驚きの声を上げて、フツフツと湧き上がる怒りに、留三郎は眉間に皺を寄せる。 「あのヤロー…」 「でも、仙蔵のおかげで、君の気持ちが知れたし、僕の気持ちも打ち明けられた」 結果として互いを想っていた事を解り合えた今、伊作の言う事は最もだが、これが、もし…。 いや、彼の事だ。 既に、伊作の気持ちも、自分の気持ちも解った上でやった事なのだろう。 「仙蔵に感謝しなきゃ」 「…ああ」 伊作の言う事は正しいと思いながらも、腹の底から彼に感謝の意を示せない留三郎は苦い返事を返した。 「明々後日から頑張るよ」 ニコニコとそう言った彼の頬は紅潮している。 学園を辞めないとしても、暫くの間、会えなくなるのだ。 「…なぁ、伊作」 迷うより早く、彼の名を呼んでしまい、ああ、これは引き返せないと腹を括る。 声が上擦らないように、必死に喉から声を絞り出す。 「口を、その、…吸ってもいいか?」 猫の様に少し吊った大きな目が、ジッと自分を見つめた。 その顔が、見る間に耳まで赤くなった後、コクリと頷いた。 互いに唇を近付けるのに、緊張し過ぎて、目を閉じるのも忘れていた。 極間近に迫って、漸く、その視線が重なり、互いに目を開けたままなのに気付いて笑った。 目を閉じると、笑みの形のままの唇で軽く触れて、離す。 「早く帰って来る」 「ああ、待ってる」 木の生い茂った山の中を駆ける。 道は無いが、方向は間違っていない。 自分たちが“逃げる”方向は正しい。 しかし、想定外の状況に、留三郎は必死に脳内から打開策を探していた。 「まずいっすね」 「後方7人か、予想より多いな…」 「どうします?」 「どうもこうも、俺達は逃げるだけだ」 自分達の現在の立場は、“囮”である。 つまり、何かを守っている訳では無く、敵対する忍組の目を引き付けるのが仕事だ。 本来なら、引き付けるだけ引き付け、そのまま逃げ切ってしまえば任務完了である。 しかし、追手の数が、予想を上回ったのだ。 そして、その数が多いのも脅威だが、腕も大分、立つようだった。 残念ながら、こちらは二人。 幾ら若手ながらに、忍頭に目を掛けられている自分等でも7対2では分が悪すぎる。 このままだと、逃げ切れるかどうか…。 と、その時、後方からの風をきる音に慌てて振り向く。 「バッ、お前っ!」 「えっ?」 考えるより先に身体が動いていた。 「ぐっ!」 背中に衝撃を受ける。 そのまま体制は彼に向けて崩れ落ち、かなりの速度を出して走っていた勢いのまま、山の斜面をゴロゴロと崩れて落ちていく。 「先輩!」 落ちた先は沢だった。 彼はすぐに立ち上がり、全身を使って留三郎の身を起こし、立ち上がらせた。 彼の顔は、焦りに満ちていた。 留三郎の背には、深々と矢が刺さり、その箆は今の落下の衝撃で折れていた。 留三郎は懐に手を入れると、蛤に桔梗の絵付けがされた軟膏入れを取り出した。 「…これを持っていけ」 「これ…」 「傷薬だ。…っ、よく効く」 「でも、これは先輩の…!」 受け取ろうとしない彼の手に無理に、それを握らせた。 「先に行け!」 自分は何をしているのだろうか?と頭の中では、割合、冷静に考えていた。 本来なら、自分より力の及ばない後輩を捨ててでも、逃げ切らなければならない筈なのに…。 そんな忍の掟を思い起こすより先に、身体が動いていた。 彼を背後からの飛んできた矢から、庇っていた。 「…もし、俺がお前の跡を追わなかったら」 彼の後を追わなかった…、それは、つまり死だ。 死んだ忍の躯は、早く処分をしなくてはならない。 出来れば、敵に見付かる前に…。 遅くとも、敵の手に渡ってはならないのだ。 もし、留三郎が戻らなかった時は、忍隊が躯を探して処分するのだ。 誰に悟られぬ用に跡形もなく、骨まで砕いて…。 「処分する時に、遺髪は…残さなくていい」 沢の水と泥を吸った忍び装束が重く感じる。 矢の刺さった背中が熱い。 「…そうだな」 留三郎は彼に背を向けて、刀を抜き後方に向け、構える。 恐らく、もう少しもせずに、沢に落ちた事に気付いた追手がこちらに向かって来るだろう。 「歯がいい」 恋しい彼のように、珍しい柔らかな赤毛ならともかく、どこにでもいる黒髪の遺髪では、きっと自分がこの世には、もういないのだという事を信じられないだろう。 彼が、自分の死を悟れる物。 自分にしかない、彼がそれだと解る物。 「犬歯を一つ、取っておいてくれ」 さぁ、早くしろっ、と強い口調で彼を煽ると、彼は頷いて、慌てて、走り始める。 生き残る自信は無かった。 こうなる前より、打開策を探していたのだ。 背から身を貫いた矢が深く、呼吸がままならない。 恐らく、沢に落ちた衝撃で、刺さった瞬間よりも深く貫いているのだろう。 先までの速さで走る事は、どう考えても出来る筈が無かった。 ゼイゼイと必死で呼吸をする。 ああ、これは、助からないな…。 そう思った時、伊作に怒られるかな?なんて、呑気な事が頭に浮かんだ。 怒る? 悲しむ、の間違いだ。 自分は、彼を怒らせて、悲しませて、不安にさせてばかりだった。 なぜだろうか。 喜ぶ顔も嬉しそうな顔も、同じだけ見ている筈なのに…。 今、自分の目の前に浮かぶのは、伊作の不安に歪む顔ばかりだ。 そんな顔をさせたい訳じゃない。 いっそ、離れてしまえば、互いに楽になれただろうに…。 それでも、お前を手放したくない。 10の時に出会ってから、10年だ。 10年もの間、伊作を自分に縛り付けてしまった。 だから、せめて、これからの彼の生きる時間が、自分よりずっと長く、たくさんの人に囲まれた幸せなものであるようにと…。 ただ、もし、今、願いが一つだけ叶うとしたら… お前の所に帰りたい…等、自分勝手な願いだろうか… ←→ back |