「クリス先輩に嫌われちゃった」

 急に呼び出されて何かと思ったら、俺にはまったく関係のないことだった。嫌われたからなんなのだ。

「最初からお前のことなんて好きじゃなかったさ」

 この男相手に辛辣な言葉しか出てこないこの唇を、何度縫い付けてしまおうと思ったことか。

「は、は…そうだよな、」

 決して顔を此方に向けない。泣くのを我慢する為にここに来たわけじゃないだろうに。

「ハンカチでも貸してやろうか」
「持ち歩いてんの?しっかりしてるな」
「潔癖性なんだよ」

 ポケットから取り出した水色のハンカチを膝に放り投げた。膝の上で硬く握られていた拳が開き、ハンカチを握り締める。
 ぽた、ぽた、と落ちてきた雫にズボンとハンカチの色が変わっていく。きっと眼鏡には涙の水溜りが出来ているだろう。外してやってもいいが、拒否されるのは癪だ。こういうのは、俺の役目ではないのだろう。きっと、ウチのエース様の、役目なんだ。
 成宮ではなく、俺を呼んだ理由を考える。クリスさんのことを知っている同士。クリスさんに憧れている同士。成宮だと嫉妬に狂いそうだから。もし成宮がこの場にいたら、「一也を泣かせるなんてあり得ない!」と言って時間も気にせず殴り込みに行くのだろう。それを止めることなんてできないのだから、面倒な成宮が呼ばれることはない。
 この男は俺が嫌っていると思っているのだろう。だから呼んだのだ。先程言った、「最初からお前のことなんて好きじゃなかったさ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。そう言えば、少しは救われると考えているのかもしれない。馬鹿な奴だ。その言葉で救われるほど、あの人への気持ちは小さくないだろう。膨らみすぎて爆発しそうだったというのに、伝えられないまま嫌われたと悲しむこの男が可笑しくて笑ってしまいそうになった。そして、狡いと思った。
 何度か対戦している内に、この男に向ける、彼の熱い眼差しに気付いてしまった。気付いた瞬間、絶望したし、なんであんなチビにその熱視線を向けるのか、と問い質したくなった。けれど、そんなこと聞けるはずもなく、彼は青道に入学した。
 その後も、俺のチームとこの男のチームが対戦することはあったが、彼がいなくなったチームにあまり興味が無かったのかなんなのか、儚げな瞳で投手にボールを投げ返していた。
 そして俺は、なんだかんだでずっとこの男のことを見ていたのだ。成宮に集められ呼ばれたあの日、誘いを断り彼のいる青道へ行くと告げたあの日、俺は喪失感に見舞われた。初めて、尊敬する彼を憎いと思った。
 『なぜこの男が青道に行くか』そんなことわかっていた。彼がいるからだ。成宮とバッテリーを組むというのはとても魅力的だったのだろう。言われた瞬間の瞳は、きらりと輝いていた。
 それが、たまらなく羨ましく、狂おしいほどに嫉妬の炎を燃やした。この男にそんな瞳をさせるのは、彼か、成宮たち投手だけだろう。もし自分が彼のような捕手だったら。もし自分が成宮たちのように投手だったら。
 考えるだけで無駄だと分かっているのに、考えることをやめられない。この男に心を乱されているなんて、あってはならない。

「好きだ」
「…えっ?」
「お前は、そう言ってほしかったのか?」

 弾かれたように勢いよく顔を上げた。瞬間、眼鏡に溜まっていた涙がボロボロと零れていった。見開いていた目は、だんだんと閉じていき、眉間に皺を寄せて睨んできた。

「ちげぇよ、」
「違わないだろ?」
「違う!」
「じゃあなんで泣いてんだよ。誰に何を言われても人前で泣くことはなかったお前が、あの人に嫌いだと言われたくらいでなに泣いてんだ。」

 言葉に詰まったこの男は、眉間に寄せた皺を解き、眉尻を下げ、笑った。嫌な役は全て俺に押し付ける、そんなお前が嫌いだ。俺にはあの眩しい笑顔や、きらきら光る瞳を向けてくれない。そんなお前をどうして慰めなければいけないのか。

「寮の門限無いのかよ」
「あってないようなもんだ」
「へぇ」

 儚く笑うこの姿は、きっと俺しか見られないのだろう。それだけが、俺を満たしてくれる。我ながら馬鹿らしいと思う。この感情に名前を与えるつもりはない。
 眼鏡を外し、レンズの雫を拭き取るこの男の髪を耳にかけた。濡れた瞳で此方を見つめ、形のいい唇が弧を描く。あの、意地の悪い笑顔ではなく、彼に、向ける、表情だ。
 レンズを介さないで見る俺は、どんな表情でお前を見ているのか。俺にはわからない。「白河、」微かに震えた声で名前を呼ばれた。拭き終わった眼鏡を掛け、悪戯に笑う。

「帰る」

 何か言われる前に先手を打った。きっと予測はできていただろう。この男は、天才と呼ばれる男なのだから。

「連れねぇな、」
「俺とお前で何をするんだよ。同じ空気を吸ってるだけでも嫌だね」
「とか言いながらぁ、一緒にいてくれてるじゃない」
「一人で残すわけにはいかない」
「優しいねぇ。俺以外に優しくしないで」
「は?」
「なぁんちゃって」

 いつもの調子で言ってきたこの男の、本音が聞こえた気がした。馬鹿な男だ。そんな言葉を口走るほど、弱っているとは。

「ほんと、馬鹿だね」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんだぜ?」
「お前は嫌われてるよ。俺にもね」
「勝之チャン冷たい」
「ほんと嫌いだよお前のこと」

 いつもの、悪戯な笑みに、御幸一也が戻ってきた、と感じた。表面で取り繕っているだけなのはわかっているが、それでもこんな風に笑えるところまで回復したなら上出来だ。こいつの心配をしているなんて、やっぱり馬鹿だと思った。立ち上がり、睨む。ふわ、と花が舞うような笑みを向けられた。だからそれ、俺に向ける笑顔じゃないだろう。

「うちの寮来る?」
「行かないよ馬鹿じゃない」
「だよなー。クリス先輩、俺の隣の部屋だよ」
「だ、からなんだよ」

 調子を取り戻したわけではない。無理矢理取り戻そうとしているのだ。彼の名前を呼べば、調子を取り戻すことが出来ると思っているこの男はなんて愚かなのだろう。立たせてくれと強請る、細く綺麗な指を、優しく弾く。

「立たせてくれよ」
「甘えるな自分で立ちなよ」

 甘える仕草が擽ったい。つい、甘やかしてしまいそうになる。悔しい。自分一人で立ち上がれよ。嫌いと言われたからなんなのだ。『嫌い』という感情を向けられているのだ。無関心ではないのだから、もっと喜べばいいのに。天才のくせに、そんなことがわからないなんて。

「ほんとお前は馬鹿だよ」
「は?なに急に」
「急じゃない。お前と会ってから数え切れないくらい馬鹿だな、って思ってるんだよ」
「ひどいな」

 本当に酷いのはどっちなんだ。俺の気持ちを知っているのか知らないのか、こんな夜中に呼び出して慰めて貰おうなんて、普通の思考の持ち主なら考えないだろう。俺は天才じゃないから、天才の考えていることはわからない。わかってしまったら、きっと俺を保てない。
 そもそも、こんな時間に呼び出されて急いで来る時点で、深みに嵌まっているのだ。ああ、ダメだな。

「白河」

 いつの間にか立ち上がったこの男が柔らかい声で名前を呼ぶ。ほら、お前は人の手を借りなくても簡単に立ち上がるじゃないか。俺なんて、必要ないのだろう。

「なんだよ」
「ありがとう」
「うわ、気持ち悪い。ていうか御礼とか言えたんだ?」
「お前…さすがに失礼だぞ、それ」

 苦笑いしながら瞼を伏せる。街頭に照らされ、睫毛にくっついた涙の雫がキラキラと輝いた。ほら、やっぱり狡い。こんなにも夢中にさせるのに、この男の瞳にはいつだって彼しか映らない。それと、投手か。

「泣いて満足したろ?俺は戻るよ」
「送ってってくれよ」
「はぁ?」
「チャリだろ」

 それ、と指を差された自転車を見る。寮に置いてあったカルロスの自転車を貸して貰ったのだが、鍵を借りた時、「お前が必死になる相手って、誰だろうな」と言われたのはとても癪だった。何も言えずにそのまま漕ぎ始めたら、クツクツと笑う声が聞こえて、大きく舌打ちをしたのを思い出した。少し前の出来事のはずなのに、忘れてしまうほど俺は必死になっていたらしい。

「なんで俺がお前に尽くさないといけないんだよ」
「こんな時間に、一人で俺を帰すの?」
「女じゃあるまいし」
「女だったら、送ってくれたのかぁ。白河やっさし〜」
「うるさい。わざわざ隣町まで来てやってるのに図々しいんだよ」
「…クリス先輩に会えるかも?」

 それでしか俺を釣れないなんて。そんな顔をするなら言わなきゃいいんだ。こんな時間に彼に会えるわけが無いとわかっている。この男だって、それをわかって言っているのだ。つくづく、馬鹿な男だ。

「…お前が漕ぐならいいけど」
「えっ」
「なんだよ」
「嫌って言われると思った」
「クリスさんに会えるかもしれないんだろ?」
「あ、ああ…」

 なんで悲しそうな顔してるんだ。彼に会えるかもしれないと言ったのはこの男なのに。俺はそれに乗ってやったんだ。感謝してほしい。

「それ、カルロスのだから乱暴に扱うなよ」
「お前のだとしても乱暴に扱わねえよ」

 爆弾投下。
 これに応えてはいけないと、本能が呼び掛ける。触れてはいけないと、どこかから聞こえた。サドルに跨るこの男の後ろに、触れないように気を付けながら、落ちないように座った。
 俺がちゃんと座ったのを確認して漕ぎ出した。会話は無い。温もりも伝わってこない。こんなに近いのにこんなにも遠い。この男を乱すのは、いつだって彼だけなのだ。
 夜風が顔を冷やす。この男は頭も冷えただろうか。いま何を考えているのか、俺にはわからない。
 公園を出た時に見た時計の針は、12時を指していた。日付が変わってお家に帰るなんて、まるでシンデレラだ。
 追い掛けてくれる人なんていない。靴だって落とさない。帰った先に王子様なんていやしない。
 後悔すればいい。王子様のお誘いを蹴って離れたことを。こんなに想っている人間がいるのに、呑気に鼻歌なんて、信じられない。触れてはいけないとわかっているけれど、腹が立ったので仕方が無い。
 頭を軽く小突いてみたけれど、この男はただ笑うだけだった。


2014/10/18 22:20

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -