シクラメン―恥ずかしがり屋


不便だな、と思ったのはモルジアナ殿が帰ってから伝えなくてはならない用件を思い出したときだった。
彼女は携帯電話を持っていない。
アリババ殿とアラジン殿は彼らの仕事上必要なものだから持っているけれど、彼女は必要以上の物は持たない主義なのか、それとも二人が持たせていないのか――。それに加えて彼女がいつも着ているワンピースにはポケットがない。身につけられるものでなければ、どうしても必要なもの以外はそもそも持たないのかもしれない。
俺も持ってはいるけれど姉上との連絡以外では使うことがないし、そもそも日中の殆どを一緒にいるのだから必要事項は口で言えば済んでしまう。
それならこんな携帯電話など宝の持ち腐れと言えなくもないが。

「姉上、サルージャ邸に行って参ります」
「わかりました、道中気を付けるように」
「はい」

短い会話を済ませて炎天下の中、店を出る。
一歩出ただけでくじけそうになる心を持ち直して目的地へと向かう。
――そういえば、今日は今年一番の暑さになるとか言っていたか。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたものだから、路地から飛び出してきた人物と危うくぶつかりそうになってしまった。

「あれ、白龍? お前こんなところで何してんだ?」
「アリババ殿こそこんなところで何をなさっているのですか」
「俺? 俺は散歩だよ」

仕事はどうしたのですか、とのど元まで出かかった言葉を呑みこむ。
そうだ、今日は休みだったのだっけ。

「モルジアナ殿はもうご帰宅されたのですか?」
「あー、どうだろうな。俺、あいつが戻ってくる前に出てきちまったからな。…………え、あれ、もしかしてお前アラジンと俺がいないのをいいことにモルジアナとあんなことやこんなことをしちまうのか!? 付き合ってまだ一週間だぞ! そんなの俺は許さねえぞ」
「下衆な話はよしてください。ちょっと伝え忘れた用件があっただけです」
「そんなの携帯で――あ、そっか。モルジアナって携帯持ってないんだっけか」
「不便ですよね。アリババ殿のお宅には固定電話がないから用件を伝えようにもこうして赴かねばなりませんし」
「じゃあ、持たせるか。俺も最近不便だなーって思ってたところだし。お前今から俺ん家行くんだよな? だったらその足で一緒に携帯屋行って適当なの見繕ってくれよ。確か商店街のところの携帯屋今キャンペーンやってるはずだからさ」
「キャンペーン?」
「ああ、確か――」


*


姉上にモルジアナ殿の携帯電話の購入の手伝いをして差し上げる旨を伝えれば驚くほどの快諾を得られた。
もうそのままデートでもしてきなさいとまで言われたけれど、さすがにそれは日を改めることにする。
付き合ってまだ一週間なのだ。そんなほいほいとデートに誘えるわけもない。
リンゴーン、といつ聞いても慣れることのないチャイム音。
暫くしてから重苦しい扉が開き、中からモルジアナ殿がひょっこり顔を出す。

「白龍さん? どうかしたのですか?」
「はい、先ほどお伝えするのを忘れた用件がありまして。それと、モルジアナ殿。少しお時間はありますか?」
「ここでの仕事もひと段落ついたところで大丈夫ですが、何故ですか?」
「今から携帯電話を買いに行きましょう」
「携帯、電話? って、あのアリババさんやアラジンが持っている小さな箱ですか?」

やはりそういう認識であったか。
サージャル邸には固定電話もないし、おそらくあの二人も彼女に電話というものの概念すら話していないのだろう。
さて、どうしたものか。まずは電話の概念から話すべきなのだろうか。

「その、携帯電話とやらがあれば便利になるのですか?」
「そうですね。離れたところに居てもそれを持っていればわざわざ会いに行かなくても話ができるようになります」
「そう、ですか……」

暫く考えた素振りを見せてから、モルジアナ殿は何かを決めたようで小さく頷く。

「わかりました。白龍さんお願いします、その携帯電話? というものを買うのを手伝ってはいただけませんか?」
「無論そのつもりです。では行きましょうか」
「はい」

手を差し出せば、彼女がその上に自分の物を重ねる。
それにドギマギとしつつも冷静を装って、再び炎天下の中一歩を踏み出した。
暑い。けれど、その暑さも隣にモルジアナ殿がいるというだけでどこかに飛んで行ってしまいそうだ。

「少々歩きますが大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です……あ、その前に少し待っていただけますか?」

言って、モルジアナ殿は扉に鍵をかける。
アリババ殿は先ほど見かけたけれど、アラジン殿も今は出かけているのだろう。
外出時には鍵をかける。そういうところもきちんとしているんだと、彼女の新たな一面を見た。
件の携帯電話屋は商店街の一角に店をかまえている。
ここからだと10分くらい歩くだろうか。
なるべく日陰を歩くようにして目的地までの道のりを歩む。

「今日も暑いですね」
「そうですね。まだ7月なのにこんなのがあと1か月近く続くのかと思うと嫌になってしまいますね」
「こんなに暑いと水浴びでもしたいですね」
「……では今度海に行きましょうか。ああ、でもモルジアナ殿は泳げないのでしたっけ。なら足の着くプールの方がいいでしょうか」

精一杯のデートの誘い。
こんな機会でないと言えないなんて本当自分の情けなさが恨めしい。

「海? もプール? もあまり行ったことがないので行ってみたいです。アリババさんとアラジンと白瑛さんと紅玉さんをお誘いして皆さんで行きましょう」
「……はい」

二人で行きたいです、なんて言えないところが俺らしい。
そんなこんなで話している間に携帯電話屋にたどり着いた。
――ああ、確かにアリババ殿の言うとおりだった。
店の前には大きなポップが設営されていて、そこにはこれでもかというほど目立つ字で“恋人ご紹介キャンペーン”と書かれていた。
その字に釘付けになっている俺と、そんなことには気付かずどんどん店内に入ってしまうモルジアナ殿。
待ってください、とその背を追いかける。

「なんだかどれもこれも同じに見えてしまいます」
「基本的な機能はどれも変わりませんので、モルジアナ殿が気に入った機種を選べばいいと思いますよ」
「わかりました。少し見てみます」

モルジアナ殿は15分ほどくるくると店内を見て回り、これだというものを見つけたのかじっと一つの機種を見つめていた。
一体どんな機種を選んだのかと思って横からそっと覗いてみれば、目に飛び込んできたのは“簡単操作携帯電話”という文字。
さすがにそれは、と口を挟もうとしたところで、彼女が手を伸ばす。
視線の先にある簡単操作携帯電話――にではなくその隣のとても見覚えのある機種へと。

「これ、確か白龍さんが持っているものと同じものですよね?」
「え? あ、はい。そうです。よく分かりましたね」

そういえばモルジアナ殿の前で携帯電話をあまり出したことがないのに、どうしてわかったのだろう。そのわずかな回数のうちに機種を覚えたのだろうか。いや、アリババ殿とアラジン殿の持つ携帯電話のことを小さな箱と称した彼女だ。そんなわけはない。だったらどうして……?

「あのお姉さんに聞いたのです。白龍さんが持っている携帯電話、前に少し見たことがあったのでその特徴を言ったらこれだと教えていただきました」
「そうですか」

確かにほかの機種に比べて俺の携帯電話は少し特殊な外見をしているし、何度か見ればそれも覚えるだろうが、しかしその曖昧な情報だけで機種特定をしてしまうあそこの女性店員には驚きを禁じ得ない。
もしかしたら全メーカーの全機種を把握しているのではなかろうか……。

「決めました。これにします」

その言葉を待ってましたと言わんばかりに、待機姿勢を貫いていた例の女性店員が駆け寄ってくる。
その反応の早さは素晴らしいとは思うけれど……。

「お決まりですね! ではこちらの書類に必要事項の記入をお願いします。そちらの方は彼氏さんですか? でしたら今恋人ご紹介キャンペーンというものをやってまして、彼女さんの機種代金を一万円引きとさせていただきます! そしてそしてご紹介くださった方にも特典があるんですよ! こちらです、どうぞ」

早口大会にでも出るのだろうかと言うほどの早口で、まくしたてられるかのように言葉をどんどんと放り込まれた感じだ。
もう少しゆっくり話せないものなのだろうかと思いつつも差し出された、特典とやらに目線を落とす。
そこには近所に新しくできた水族館の招待チケットが2枚。
顔を上げると、手続きやら説明やらをしながらこちらに微笑む店員と目が合う。
咄嗟に恥ずかしくてまた俯く。

「彼女さん、未成年ですよね? 何か身分証明をできるものはお持ちですか?」
「身分証明……? えっと」

しまった。
モルジアナ殿と携帯を見に行くというところにばかり注視してしまっていて身分証明などの必要書類を所持しているのか訊くのを忘れていた。
モルジアナ殿のことを今まで殆ど知らずにいたけれど、家族はいるのだろうか。親元を離れてアリババ殿のところで住み込みバイトをしているのだろうか?

「これでいいですか? 身分証明を示された時はこの紙を見せろと言われたのですが」

出されたそれを見て驚愕したのは俺だけではなかった。
何せそれは紙切れ一枚ではあったけれど、ただの紙切れではなかったから。
そこに記されていたのは、

「マスルール……?」

名前を読み上げて、目を見開く。
マスルールって、あのマスルール殿か……?
ここら一帯の地主を担うシンドバッド殿のところの……?

「あ、あの……彼女さんはマスルールさんのご親戚の方ですか……?」

恐る恐る、という言葉が最も的確だろう。
店員は若干顔が引きつりながら言葉を慎重に紡ぐ。
俺もその後のモルジアナ殿の言葉が気になって仕方がない。

「親戚ではありません。ちょっとした事情があり後見人を引き受けていただいているだけです」
「そ、そうですか……。マスルールさんが後見人をされている方でしたら大丈夫です、ありがとうございました。こちらはお返ししますね」

先ほどまでの勢いはどこへ行ったのやら。
店員も俺もどっと疲れがやってきた。
まさかモルジアナ殿とマスルール殿に関係があったとは。

「家族割引などのオプションもありますが、どうなさいますか?」
「家族、ですか……」

そこでモルジアナ殿は言いよどむ。
家族、という単語が引っかかっているのだろう。

「私、家族は……」
「この番号と、この番号で家族割引の設定をお願いします」

差し出がましいことだとは重々承知の上で自分の携帯電話からアリババ殿とアラジン殿の番号をアドレス帳から呼び出す。
隣りから驚きの眼差しを向けられているのを、今は見ないふり気付かないふりで通す。

「アリババ殿もアラジン殿も家族でしょう? それにたぶんあなたが携帯電話を持っているのならきっと二人してたくさん電話やメールを送ってくると思います。そうしたら電話代、すごいことになりそうですしね」

割り引いてもらえるならその方がいいですよ、なんてそれっぽいことを言ってこれ以上この話題を広げないように歯止めをかける。
彼女の表情がこの前見た、複雑そうなものにとても近かったから。

「……ありがとうございます」
「何のことですか?」
「いえ、何でもありません」

手続きが終わり、店を出たところで丁度夕方5時を告げる鐘が鳴る。
だけど、空は未だ明るいままでどうしても夕方である実感が湧かない。
日が長いことはいいことではあるが、時間と空模様とのギャップが激しいのは少しばかり困る。逆に冬は4時にはもう暗くなったりするからそれもそれで困るものがあるけれど。

「どうしてその機種にしたのか訊いてもいいですか?」

帰り道。
携帯電話の袋を片手にどこか嬉しそうな表情で歩くモルジアナ殿にそう問うてみた。
そうしたら、「この機種ならわからないことがあっても白龍さんが教えてくれるからです」なんて言葉を真っ直ぐに返されたものだから、危うく惚けて側溝に落ちそうになった。



(白龍さん大丈夫ですか!?)

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