ヒナギク―あなたと同じ気持ちです


どこに行こうでも、行きたいでもなくただただ走り続けた。
大通りを抜けて路地に入り、袋小路に嵌って漸く足を止める。
いつもサージャル邸とお花屋さんの往復くらいしかしていなかったから、少し道を逸れるともうここがどこなのかわからなくなる。
土地勘のなさが痛い。
先ほどは動揺して勢いのままに逃げ出してきてしまったけれど、よく考えたら今日は一日白龍さんのお店のお手伝いを、ということでサルージャ邸での仕事を休ませてもらっているのだから、戻らなくてはならない。
戻らなくてはならない……?
義務感に捉われた物言いになってしまったけれど、私は自主的にあの場に戻りたいと思うのだろうか。
やらなければならない仕事はたぶんたくさんある。
それはきちんとこなさなければならないのは、頭では分かっている。
でも、戻ってきちんと仕事に身が入るのだろうか。
一時間前、白龍さんの告白――もとい独り言を聞いて動揺して、やっとアラジンに背中を押してもらって戻ってきたと思ったら、当の白龍さんは違う女の人に“君の方が好きですかね”なんて言っている現場に居合わせてしまった。
自分の運のなさというものがここまでとは思いも寄らなかった。
――いえ、運のなさならもっと前からだったわね。
物心ついた頃からつい最近までのことを思い返して、一人自嘲する。
運のなさでは、私の右に出る人はたぶんいないだろう。

「私一人舞い上がっていただけなのかしら」

初めてだった。
好きだと言われたこと、好意を持ってもらえたこと。
今までの自分の人生を振り返ってみても、やっぱりそんな幸せな思い出も経験もない。
だから、本当に嬉しかった。
顔を真っ赤にして、動揺して、咄嗟にサルージャ邸まで走ってしまうほど――でも今にしてみれば舞い上がっていたのかもしれない。
心が浮き足立っていただけなのかもしれない。
さっきの言葉でちゃんと現実を見ることができた。
そうよ、白龍さんは私よりもあの人のことの方が好きなんだわ。
私のことはきっとアリババさん、アラジンの友人であるから好き、なんだわ。
友愛と恋愛の違い。
どちらも同じ“好き”だけどそこにある意味はやっぱり違うもの。
私は結局白龍さんにとって友人として“好き”の方だったのだろう。
高鳴っていた心臓は落ち着きを取り戻しつつある。
たとえ友愛の方だったとしても、それでも嬉しいことに変わりはないのだから、もう割り切ってしまおう。
あの、暗闇での生活を比べたら、もう十分すぎるほど明るいのだから。これ以上望んでしまってはいけない。
白龍さんは、私の、友人。私も、白龍さんの、友人。
間違っても、私のことを、恋愛対象として、見ていない。
見ていたとしても、あの人――あの、私と同じような髪の色の人の方が、好き。
大きく深呼吸を繰り返して、自分に言い聞かせる。
だから、勘違いしてはいけない。
もしかしたら友愛ではなく恋愛であるかもしれないだなんて。
異性として見てくれているかもしれないだなんて。
アラジンはああ言っていたけれど、それもきっと彼の勘違いだろう。
そう考えることにしよう。そうしたら、これから先これ以上悩むことなどないのだから。――だけど、そう思えば思うほど胸が締め付けられる。
苦しい。悲しい。……寂しい。
こんな想いを抱いてしまうだなんて思いも寄らなかった。
何時の間にか、自分の中で白龍さんの存在が大きくなっていただなんて。
話していると、とても楽しい。一緒に居られたら幸せ。姿を見れただけで嬉しい。
ああ、やっぱりアラジンの言った通り、私は白龍さんのことが――

「モルジアナ殿!」
「……っ!」

背後から名前を呼ばれて一瞬竦んでしまう。
その声は、意中の人のものだったから。
どうしよう、振り返るべきなのだろうか。でも、どんな顔をして白龍さんと顔を合わせたらいい?
私は――あの場にいることができなくて、あれ以上白龍さんとあの人を見ていられなくて、逃げ出してしまった。
なのに、どうして追いかけてきてくれたのだろう。
私は……それこそ邪魔者だっただろうに。
それでも、声をかけられたのに背中を向けたままではやはり失礼にあたるのかもしれない。
意を決して振り返る。

「モルジアナ殿、あの、話を、聞いて、もらえませんか?」

相当走り回ったのだろう。昨日ほどの真夏日ではないにしても今日の気温も30度越えしている。汗で貼りついた前髪、乱れた着衣、息も絶え絶えといった様子で、白龍さんは私に言葉を向けてくる。
こんな暑い日に行方知らずの人間を探し回るのにどれだけの労力と気力を必要としたのかをその姿は語っていた。
仲好さそうに話していた紅い髪の人を放り出して、どうして私のところへ……?

「何か誤解をされているようなので訂正させてください」
「……誤解? 私は何も誤解なんてしていませんが」
「店にいたあの人は、俺の義理の姉です」
「義理の……お姉さん?」

だとすると、先ほどの言葉の意味は?
君の方が好きですかねという、あの言葉は?
義理のお姉さんに好きだと言っていたことになるのだろうか。
それはそれで、私としては複雑極まりない。

「それで、あなたがちょうど聞いてしまった話は、卵の話なんです。卵の白身と黄身の話です」
「…………え?」

たっぷり間を置いて間抜けな声を出してしまった。
それはいったいどういうことなのだ。
卵の、白身と黄身の話?
じゃあ、私は卵の話を、義理のお姉さんへの告白と勘違いして逃げ出したというのか?
なんて間抜けな話なのだろう。
ちゃんとあの場でどういう状況なのか見極められていれば、宛てもなく走り回ることも、白龍さんが気力と労力を消耗せずに済んだかもしれないのに。
それに、こんなに思い悩まずにも済んだかもしれないのに……。

「だから、俺が好きなのは――ほかの誰でもない、あなたです。モルジアナ殿」

顔を真っ赤にして、白龍さんは消え入りそうな声で言った。
好き……? それは友人としてという意味ではなく? 異性として? 一人の女として見て?

「あなたのことが大好きなんです。俺と、付き合ってください」

ゆっくりと頭を下げて、右手を私の方に差し出してくる。
この手を取ることが肯定の意志表示なのだろう。
今一度考える。
白龍さんが自分にとってどのような存在かを。
アリババさんやアラジンと、同じくらい大切な人。
安らぎをくれて、優しさをくれて、楽しさをくれて、嬉しさをくれる人。
自分勝手な願いを言っていいのなら、この人と一緒に、隣にいたい。
私に初めての気持ちをくれた、この人と。
差し出された右手をそっと両手で包み込む。

「私も、白龍さんのことが好きです」

私の言葉を受けて、白龍さんが恐る恐る顔を上げる。
その眼にはうっすらと涙が滲んでいた。

「付き合うとか、よくわからないですが……これからも一緒に楽しいこととか嬉しいことを経験していきたいです。私にもっと初めてを教えてください」

笑い慣れていないからきっとぎこちない笑みになってしまっただろう。
それでも、白龍さんは「はい!」と花のような笑顔で返してくれた。



(あらぁ、白龍ちゃんおかえり)

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