ハス―遠ざかった恋


何度目のため息だろう。
しきりにドアの方を確認してみるも、そこに人影はなく、来客を知らせるベルもあれから一度も鳴らない。
モルジアナ殿が脱兎のごとく飛び出したのが11時くらい。今はちょうど正午だからおよそ一時間経過したことになる。
彼女の反応を見る限り、十中八九あの独り言を聞いていたに違いない。
それでも平静を装って仕事をしてくれていたのだろうと思う。
接客が終わってお客さんを見送ったあの瞬間までは。
緊張の糸が切れたのか、それとも平静を装えなくなったのかはわからない。だけど、この場から逃げ出してしまいたくなるほど恥ずかしかったのだろうということは想像できた。

「俺の方がよっぽど恥ずかしいですよ……」

誰に言うでもない言葉は店内に溶けていく。
やるべきことを放り出してカウンターに突っ伏す。
もう今日は閉店してしまおうかなどと考えていた矢先に来客を知らせるベルが鳴った。
もしかして戻ってきてくれたのだろうかと期待して顔を上げれば真っ先に目に飛び込んできたのは紅い髪。

「モルジ…………義姉上でしたか」
「期待外れだったみたいな言い方やめてくれるかしらぁ?」

そう言って義姉上はヒールを鳴らして店内をぐるりと一周する。
何か欲しい花があるのか、それとも単なる時間つぶしで来たのかはわからないが、今はその髪の色を見ると心がざわついて仕方がない。
思えば、モルジアナ殿と義姉上の髪の色はとても似ている。
紅く綺麗な、髪の色。

「白瑛はいないの?」
「姉上は遠方へ行っています。帰りは深夜になると思いますが、姉上に何かご用事ですか?」
「いいえ、むしろいないのであれば好都合よぉ。今日は白龍ちゃんとたくさんお話ししていても誰も怒らないじゃない」
「営業妨害にならない程度にお願いします」
「いつもそうしてるわよぉ」

緩やかに笑って、義姉上は自前の椅子を組み立ててカウンターの中にいる俺と向かい合う形で座る。
毎度のことながら、そこに座られると作業がやりにくい。お客さんだってレジに品物を持って来づらくなるから本心を言ってしまうならそこに座らないでほしかった。

「この間アリババちゃんと話していたんだけど、白龍ちゃんは卵の白身と黄身どちらが好き?」
「質問の意図がよくわからないのですが」
「ただの雑談よぉ」

雑談で意味も意図もわからないことを言わないでほしい。
いや、意味も意図もないから雑談なのか。
俺の答えを義姉上はにこにこと笑みを崩さず待っている。
それにしても話題のチョイスが斜め上すぎてどう答えたらいいか悩んでしまう。
アリババ殿も義姉上も本当、身になる話からこういった雑談まで話題の幅を広く持っていて羨ましい。
それは俺にはないものだから。

「ちなみに私は白身派よぉ」

派閥まであるのか。
義姉上の手前何も言わないが、これがアリババ殿相手なら確実に一蹴していただろう。
やらなければならない作業が残っているから早々にこの話を切り上げてしまいたい。義姉上はどこかでストップをかけなければ、それこそ一日中話題に困らないくらいのストックはあるのだ。
ただの雑談だと言っていたし、多少雑に答えてもいいだろう。雑談だけに。
だから何を意図したわけでもないし、本当に適当に、

「黄身の方が好きですかね」

なんて言ってしまった。
その時、ちょうど運良く――いや運悪くモルジアナ殿が戻ってくるかもしれないだなんて一切考えずに。
無情にも鳴り響くドアのベル。

「…………」
「…………」

時が止まる。
モルジアナ殿はドアを開けた状態でフリーズしており、俺は目を見開いてドアのところで立ち尽くす彼女を見たままフリーズした。
おかえりなさい、と言うべきなのだろうか。それとも、今の発言を聞いていたかを問うべきなのだろうか。
いや、先程も聞いていなかったのだろうと思い込んで、実は聞いていたというオチだったのだから今回もそうである可能性は高い。
むしろそうであると仮定した上で発言しなければいけないのかもしれない。
でも、結局そう仮定した上でも何を言ったらいいかわからず、だけど何かを言わなければならないという使命感だけがある状況になってしまった。
義姉上だけが状況が飲み込めず、不可思議な表情を浮かべている。

「モル……」

ひとまず名前を呼ぼうとして立ち上がる。と同時にモルジアナ殿の顔から表情が消え、次の瞬間には彼女はドアを閉め走り去っていた。
先程の比ではない。脱兎のごとくだなんて言葉では到底表現できない。目で追うのが精一杯だった。人間のスピードとは思えない速さで彼女はこの場から消えてしまったのだ。

「モルジアナ殿! 待ってください!」

最早名を呼んだ人物はそこに居らず、声だけが虚しく響く。

「義姉上! 店番をお願いします!」

返事も聞かず飛び出す。
ドアを開けて一歩を踏み出したところで「いいわよぉ」と緩い声を背に受ける。
あの表情と走り去り方から見て、確実にモルジアナ殿は勘違いをしている。
とてもベタな発想ではあるが、“黄身”を“君”と聞き違えたのだということは容易に想像できた。

“君の方が好きですかね”と。

一時間前、聞かせるつもりのなかった、独り言の告白を聞いてしまった彼女はそれをどんな気持ちで聞いたのだろう。
裏切られた、とか軽薄だ、とか色々あるけれど確実に俺への好感度は急降下したことだろう。
義姉上のおかげでとんだハプニングだ。



(待って、待ってください! モルジアナ殿!)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -