モモ―あなたのとりこです


蝉の大合唱が耳にうるさい。
ただでさえアスファルトからせりあがってくる熱と熱風で参っているというのに、蝉たちのせいでさらに輪をかけて暑さを感じる。

「白龍」

呼びかけに応えるように首を声のする方へ向ければ、姉上が手付き木桶と柄杓を持って立っていた。
これで打ち水をしろ、と。
口にしなくてもその意図を読み取れるのは長年姉弟をやってきたからだろうか。
既にその中には水が入っていたらしく、そうとは知らずに軽い気持ちで受け取ったら予想以上の重さに危うく取り落とすところだった。

「お願いしますね」
「わかりました」

暑さと午後の気怠さで嫌になってしまいそうだった。
右へ、左へ、それこそ適当に水を撒いてしまうのも仕方のないことだとわかってほしい。
肝心の店の前には一向に水が撒かれないほどに俺の手元は狂っているのだろう。だから先ほどからずっと足下、そして辺りは涼しくなんてならない。
暑さのせいだ、と言ってしまえば簡単だけれど、それよりも気がかりなことがあった。
今日はモルジアナ殿は来るのだろうか、ということだ。
最初に会った時から素敵な人だと思ったし、また会いたいと思った。
彼女のことを考えると胸が苦しくなるし、ひどいときは食事すらままならない状態だった。
これが、恋なのだろうか――。
姉上に相談しようにも、こんなことを話そうものなら絶対青舜あたりに告げ口するだろうし、そうなったら二人で面白半分にからかってきそうだ。
からかわれるのは……苦手だ。
コン、コンと音がするから何かと思って見れば、木桶の中の水はもうほとんどなくなってしまっていた。
柄杓で掬うには量が微妙であるしこのまま撒いてしまおうか。
木桶の下の方を持って勢いをつけて水をばら撒――え?
咄嗟のことに目が見開く。
状況が上手く呑みこめない。

「…………」

ぽたぽたと重力に従って滴る水。
俺が撒いた水はアスファルトの地面にではなく、その殆どが今しがた来た人物にそのままかかってしまった。
否、端的に言おう。俺が撒いた水がモルジアナ殿にそっくりそのままかかってしまったのだ。
やってしまった、と思うよりも早く体は動いていた。

「す、すみません! ぼうっとしていて! あ、あの今タオル持ってきますのでちょっと待っててください!」

まくしたてるように言葉を紡いで急いで店に戻る。
何事だという姉上の声を無視して居住スペースである二階に駆け上がる。
洗面所からバスタオルを掴んで階段を転げ落ちる勢いで駆け降りる。
ところどころ擦りむいてしまったけれどそんなことに構ってはいられない。

「お待たせしました!」

勢い余って危うくモルジアナ殿に突撃してしまいそうになるのをやっとの思いで堪えて、掴んでいたタオルで優しく水滴を拭き取っていく。
考え事に熱中して、手元が疎かになり適当に打ち水をしていたことを今更悔やんでも仕方がないこととはいえ、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
好意を寄せている少女にあろうことか水をかけてしまうだなんて。
申し訳なさと怒っている顔を見たくなくて、なるべく服を見るようにしていたが、髪を拭くためにどうしても顔を上げなければならなかった。
ああ、絶対怒ってるだろうな……。
恐る恐る顔を上げると、彼女は心底不思議そうな顔をしてこちらを見つめていた。
なんでそんな、不思議そうな顔をしているのだろう……。

「拭いてしまうのですか?」

何を言われているのか一瞬で判断できなくて呆けた顔をしていると、彼女が自分の言葉が足らなかったと思ったのか、言葉を足してもう一度同じ言葉を口にする。

「水、冷たくて気持ちがよかったのですが、拭いてしまうのですか?」
「え、あ、はい……」
「今日は特に暑いからちょうどよかったのですが。それにこの暑さなら濡れてもすぐ乾きますし」
「そうはいきません! 客人に……しかもモルジアナ殿に水をかけるなど失礼千万です!」
「私はかまわなかったのですが」
「俺の気が済まないんです!」

少々声を荒げてしまい、しまったと思う。
先ほどから俺は何をやっているんだ。
考え事に現をぬかし、好意を寄せている少女に水をかけ、あまつさえ声を荒げてしまうだなんて。
唇をぎゅっと噛みしめる。

「白龍さん?」

黙ってしまった俺を気遣ってか、モルジアナ殿が優しく声をかけてくれる。
申し訳なさのメーターが振りきれそうだった。

「外で何を騒いでいるのかと思えば、白龍。あなたモルジアナ殿に何をしでかしたのですか?」

凛とした声は振り返らなくても分かる。姉上だ。
モルジアナ殿には俺が壁となっているからその声だけが聞こえたらしく、挨拶をしようかどうしようか悩んでいる風であった。
振り返らずに、姉上からの質問に答える。

「木桶の水を間違ってモルジアナ殿にかけてしまいました……」

ここは嘘偽りのない言葉で話そう。
怒られることも覚悟の上だ。それくらいのことをしたと自分でも理解している。

「間違ってって……」

姉上の息を呑む音が聞こえる。
呆れているのか、それとも怒っているのか。
表情を見ていないからわからないけれど、たぶんどちらもだろうと思う。

「あの、私気にしてません。今日はすごく暑いので逆に涼しくなって良かったというか」

フォローをしようとしてくれているのだろう。
モルジアナ殿が懸命に言葉を発す。
俺よりも頭一つ分小さい彼女は、俺の体を避けるようにして顔を姉上の方へ向ける。

「弟の非礼をお許しください。服、濡れてしまったでしょう? うちの服をお貸ししますのでどうぞ着替えてください」
「あ、いえ、本当に大丈夫ですので」
「いいえ、女の子が体を冷やすのはよくありませんよ。さ、どうぞ」

言われるがままに、モルジアナ殿は姉上の手を取って店の中へと消えてしまった。
後に残されたのはタオルを握りしめた無様な俺だけ。
本当自分の情けなさが恨めしい。
ため息ばかりしか出てこないとはこのことだ。

「白龍さん」

呼びかけに応えるようにゆっくりと振り返ると、そこには姉上の服を身にまとったモルジアナ殿がなんだか照れくさそうに立っていた。
姉上とモルジアナ殿では身長差があるためか、袖をまくっているし、スカートはもう少しで地面につきそうであったけれど、いつもの質素なワンピースとはまた違った趣で俺の視線は彼女に釘付けとなった。

「すいませんでした」
「……どうしてモルジアナ殿が謝るんですか」
「私、普段ならあれくらいの水避けられたんです。でも今日は暑くて頭がボーっとしててうまく体が動かなかったんです」
「それでもあなたは悪くないですよ。俺が悪いんです」
「でも――っ」

そこで可愛らしい腹の虫が声を上げる。
俺、ではないから目の前の彼女か。
見れば顔を真っ赤にして腹部をおさえている。その姿が可愛らしくて顔がにやけるのを必死で隠す。
いつも表情をあまり表に出さない彼女が顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯いている。そのあまりにも普段とは違うギャップに胸が締め付けられる思いだった。
――ああ、好きだ。俺は、モルジアナ殿のことが本当に好きなんだ。
自覚して、それを受け止めて、泣きそうになる。
好きだ、好きなんだ。

「すいません」

再びの謝罪の言葉。
今度は腹の虫の件についてなのだろうということは容易に想像できた。
それはそうだろうと思う。
顔見知り程度の相手に腹の虫が鳴ってしまったのだから。
だけど、気心知れたアリババ殿やアラジン殿であったならこんな態度も取らないのだろうと思うと少しだけ妬いてしまう。
やっぱり俺はまだ彼女にとって気心知れた仲ではない、ということか。
ほんの少しの壁が、今はすごく恨めしい。

「モルジアナ殿。先ほどの非礼のお詫びではありませんが、今晩はうちで夕食を召し上がっていってはもらえませんか? 服もまだ乾かないでしょうし、あなたともう少しお話もしたいですし」

濡れた服を口実に、非礼の詫びにもう少しだけこの時間を引き延ばしたくなった。
とても狡い手段だというのは百も承知の上だ。

「白龍の作る料理はとてもおいしいですよ」

背後から姉上の援護射撃。
おいしい料理という単語に惹かれたのか、モルジアナ殿は少々目を輝かせながら、それでも悩む。
悩んで悩んで悩み抜いた末、

「では、お言葉に甘えていただいていきます」

と控えめに承諾してくれた。
内心ガッツポーズをして、ありがとうございますと頭を下げる。
それにつられて彼女もまた頭を下げる。
その様子を後ろから姉上が面白そうに眺めていた。



(アリババくーん! 今日モルさん、白龍おにいさんのところで夕飯ご馳走になるってさ)
(おー、そうか……て、ええ!? なんだって!?)

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