明日もここで


「木兎さん!」
「オッシャー……あ!?」

少しタイミングのずれたトス。木兎さんは持ち前の運動神経で合わせたものの、見事にブロックされ、そのボールをこれまた見事に顔面に喰らう。普段のボールであるなら大したことはないけれど、今回のは時速何十キロという速さのボールを超至近距離だ。
やばい――と思った時には時すでに遅しという場面は数あれど今日ほどそれを思い知る日もないだろう。揺れた脳の影響で意識が薄れる中、どこか他人事のように考えていた。
顔面の痛みの後に襲いくる全身への強い衝撃。それを最後に俺の意識は暗闇に落ちた。



「…………」

ゆっくりと意識が覚醒する。どこだ、ここ。
重い瞼をうっすらと開けると、白い清潔感のある天井が目についた。それに加えてこの静けさと、背中には若干硬いながらも布団とスプリングが軋む感触。クーラーが効いているためか、涼しい空気が汗を冷やし若干の寒さを感じる。校内で清潔感があり怪我人を安静にしておける静かで涼しいところといえば、十中八九保健室だ。
ひとまず運ばれた場所が病院ではなくここだということは、現状が悲観的になるほど悪いというものではないのだろう。本当に危うければ今頃病院のベッドの上だろうし。その点はよかった。これで一生バレーができない体になりました、だなんて笑い話にもならない――と、何にしても戻らなければ。
体を起こそうとした途端に思い出したかのように顔面に鈍い痛みがやってくる。連日の疲労も重なってのことなのか、少し寝ただけでは回復しきれなかったのか。
一つため息を吐きだして、現在時刻を確認しようと痛みと戦いながら上半身を起こしたところで、とても把握し辛い状況を目にすることになる。
てっきり俺一人だけかと思っていた室内にもう一人――俺の寝るベッドに上半身を預け、静かに寝息をたてている少女がいた。太陽光を浴びてきらきらと輝く色素の薄い髪。小柄な体躯。白い肌が日に焼けて少しばかり赤くなっている。規則的に上下する肩に安心しきった寝顔。
なんだこれ。どういう状況なんだ。
どうして……谷地さんがここでこうして寝ているんだ?
夢か? 俺はまだ夢の中なのか?
脳が目の前の光景を現実だと認識していない。在り来りな方法とは思いつつも自分の頬を抓ってみる。だけど、やっぱりというか当たり前だけれど痛かった。

「…………」

心臓がこれでもかとが鳴り立てている。普段なら決して見ることのできない谷地さんの寝顔を見てしまい、酷く動揺して心臓が普段の倍くらいの速さで鼓動を刻んでいる。
落ち着け。ひとまず深呼吸だ。
自分に言い聞かせて、大きく息を吸い込んで吐き出す。何回か繰り返してようやく心拍が安定する。落ち着いたところでもう一度谷地さんの様子を窺う。
俺の心中なんて全く知る由もなく、気持ちよさそうに夢の中へ旅立っている。表情を窺う限り、とても楽しそうな夢を見ていることが見て取れた。
……それにしても無防備すぎないか? いくらこっちが怪我人だからといっても、男と二人同じ部屋で寝るだなんて危機管理がなさすぎる。黒尾さんあたりだとそのまま食べられてもおかしくはないぞ。俺だから安心だと思っての行動だったのか、それともつい先ほどまでは頑張ってそれなりの危機管理を持っていたが午後の陽気に逆らえなかったのか、はたまた違う理由があったのか、今はそれを問うこともできない。こんな幸せそうな寝顔を崩してしまうことはどうにも憚られたからだ。
それでもこの状況を誰かに見られでもしたら変な噂が流されるに違いない。心の中で謝罪の言葉を述べながらそっと谷地さんの肩を揺すってみる。

「あの」
「う、ん……」

小鳥の囀りのような可愛らしい声。だけど覚醒には至らず、まだ谷地さんは夢の中。困った。どうやらちょっとした昼寝ではないようだ。
思えば、合宿も後半戦を迎えている。体力的にも若干の辛さを感じる頃合いだ。いくら窓を全開にしているとはいえ、風でボールの軌道が左右されることもあるからか分厚いカーテンは引かれたままの状態で動き回っている。熱のこもった暑い体育館はまさに灼熱地獄にふさわしいし、ただ立っているだけでもどんどん体力が消耗していく。
まして谷地さんはついこの間まで運動部とは縁遠い存在だったと聞いている。基礎体力はそんなに備わっていないだろうし、午後になればバテもするだろう。それに加え、昼食後の満腹感と窓から差し込む陽光とくれば条件は全て揃ったと言っても過言ではない。かくいう俺も睡魔がそこまで迫ってきている。だからぐっすり眠ってしまうのも致し方のないことだというのは重々わかっている。でもここは起きてください。お願いします。願いながらもう一度揺すってみるけれど、相も変わらず起きる気配は微塵も感じられない。
もう一度ため息を吐きだして、視線を谷地さんから外す。辺りに視線を散らして現在時刻を確かめる。正面にかかっていた時計は午後三時過ぎを示している。確か午後一番の試合、しかも割と始まってすぐくらいに顔面レシーブをしたと記憶しているから、ゆうに二時間は意識を失っていたことになる。参ったな……。まさかそんなに時間が経っていたとは思わなかった。
戻りたいけれど、谷地さんをこのままにしておくこともできない。どうにかして起こして、一緒に戻りたいところだけれど、揺すっても起きないとかどれだけ深い眠りに入っているんだか。
最後のチャレンジとばかりに今度は先ほどよりももう少し強く揺すって、呼びかけてみる。

「谷地さん。谷地さん…………やっちゃん」
「…………?」

ゆっくりと開かれた瞼。と同時に背中から一気に汗が噴き出す。
やっちゃん、だなんて一度も呼んだことのない、だけど一度でいいから呼んでみたかった呼び方をしてしまったこと。そしてそれを契機にかどうかはわからないけれど、深い眠りから谷地さんが目を覚ましたこと。もしかしたら聞かれてしまったかもしれないこと。普段の俺ならば絶対やらないであろうことをしてしまったばかりにどんどん焦りが蓄積していく。やばい、いま、俺、どんな顔してるんだ……?
それでも目を覚ましてくれたことは素直に喜ばしいことで、未だに寝惚け眼な谷地さんに「おはよう」と声をかけることでなんとか持ち直そうと努力する。

「え……? あ、はい、おはよう……ございます? あれ!? 私、もしかして寝てましたか!?」
「あ、うん。結構ぐっすり」

途端に谷地さんの顔が青ざめていく。漸く自分の危機管理の甘さを自覚してもらえたかな。

「す、すみません! 実は赤葦さんのご様子を見てきてほしいと頼まれたのですが、あまりにも午後の陽気がよかったものでいつの間にか、えっと、寝てしまっていて……」

恥ずかしさからなのか、若干谷地さんの頬が染まる。いや、恥ずかしがるより自分の状況をもう少し理解してほしい。
谷地さん、君はいま男と二人っきりなんだってば。絵面言葉面だけ見たら相当危機的状況に違いないんだってば。
気付かれないように本日三度目のため息を吐きだして、ベッドから抜け出す。

「そっか。とりあえず、顔面の腫れと痛みは引かないけど、目は見えるし気分が悪くなったりもしてないから戻ろうか」
「は、はい!」

元気のいい返事とともに姿勢を正した谷地さんと視線がかち合う。だけどそれも一瞬で逸らされてしまう。ん……? なんか、なんだか……あからさまに避けられた?
普段の谷地さんからしてみたら妙というか、引っかかる程度のことだけれども、そこで追及していいものなのかわからなくて結局口を引き結ぶことを選択した。
ベッド下に揃えてあったシューズを履いて、念のため少し体を動かしてみる。よし、とりあえず大丈夫そうだな。そのまま数メートル先の引き戸まで歩くと、後ろから谷地さんがついてきていないことに気付く。

「谷地さん?」

ぼーっとして、どこか遠くを見ている様子の谷地さんに声をかけると、びくりと肩を震わせてそれから我に返ったように真っ直ぐな足取りで追いかけてきた。

「すみません、ぼーっとしてました」
「大丈夫? なんだったらもう少し休んでからでもいいんじゃない?」
「だ、大丈夫です! 何ともありません!」

何ともないならぼーっとしてないと思うんだけど。まあ、本人が大丈夫だと言うならそれ以上は余計なお節介というものだろう。
重苦しい引き戸に手を掛けて右へスライドさせる。ガラガラガラと音を立てて廊下と保健室との境界が消えていく。
廊下は室内とは違いクーラーなんて効いているはずもなく。むわっとした熱い空気のせいで一瞬で額に汗がにじみ出る。ここでこんなに暑いのだから体育館なんてもっと暑いことは想像に難くない。うわ、戻りたくねえ。
隣をこっそり窺えば、谷地さんも何とも渋い表情を浮かべていた。

「……暑いね」
「そうですね……」
「もう少し涼んでいこうか」
「え!?」

谷地さんはまさかそんなことを言われるとは思ってもいなかったのか、困惑と期待が入り混じった色で俺を見上げてくる。
“欲を言うなら涼んでいきたいけれど、二時間も無断で空けてしまったのだから早々に戻らなければならない”というところだろうか。

「冗談だよ。行こうか」
「はい」

こんなにも迷いのある一歩も久しぶりだ。一度この涼しさを経験してしまうと、またあの灼熱地獄に戻るのが億劫で仕方がない。後ろ髪引かれるとは正にこのことか……。
一歩、また一歩と体育館への道のりを確かめるように進んでいく。

「明日」
「え……?」
「明日の昼休憩の時、また涼みに来ませんか?」

真っ直ぐ、視線は進行方向に向けたまま投げかける。少し時間をおいて、風に溶けて消え入りそうな返答が耳に届けられて微笑みで返す。

「おー!! 赤葦大丈夫か

体育館間近で喧しい程の大音量に迎えられる。
大丈夫です、と返して二、三歩前に出てからくるりと踵を返して向き合う形をとる。俺の予想外の行動に、谷地さんは目をパチクリとさせている。

「さっきの、内緒ね」

人差し指を口元に当てて、秘密のポーズを作る。それに応えるように、谷地さんも慌てて敬礼の真似事をしてくれる。
それじゃ、と小さく手を振って先に喧騒の中へ戻ると、雀田先輩と木葉さんが二人仲良くこちらに向かってジェスチャーと口パクをしていることに気付く。

“今度アイスご馳走してね”“俺は一番高いヤツな”
わかりましたとアイコンタクトで返して、仕掛け人二人に口に出せない感謝の気持ちを心の中で綴った。



(仁花ちゃん、大丈夫? 顔赤いよ)

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