「えへへ、今日はとっても楽しいです」


漸くの事で書き上げた卒論を教授に提出した帰りの道中。重い荷物を下ろし終えてとても晴れやかな気分だったのに、スマートフォンから着信を知らせるバイブ音が鳴り、不穏な雰囲気を察知する。
“木兎さん”
ディスプレイに表示されたその名前を見て、テンションが一気に下がる。出るか出ないか、一瞬の迷いが俺の指の動きを鈍らせる。結果的にその一瞬の迷いが命取りとなった。

「おー、赤葦! 呑みに行こうぜー」

背後からの声に思いきり嫌な顔を作り、振り返る頃にはいつもの表情に戻す。慣れた芸当だ。
画面が既にスリープモードになったスマートフォンをポケットに押し込んで、腕組みをして待つ二人組と相対する。梟と猫の主将コンビが同じ会社に入社したせいで退勤後の飲み会連携が取れてしまい非常に困る。
しかも今日は社会人で言うところの華の金曜日だ。ということは朝まで、とは言わずともそれくらいの時間まで付き合わされることは想像に難くない。ここは適当なことを言って逃げるのが得策か。

「今日は卒論の追い込みなんで無理です」
「嘘つけ。抜かりないお前のことだからもう提出してるだろ」

まるで心の中を読んだような的確な指摘に若干眉根を寄せる。黒尾さんのにやにやした顔とその隣で今か今かとまるで遠足を待ちわびる小学生のような顔つきでそわそわしている木兎さんを見て、次の一手を考える。
この二人――正確には黒尾さんだけれども――には中途半端な言い訳や理由は通用しない。それならばもうこれでもかという法螺を吹いてやろうか。

「ちなみに、俺らのバックには誰がいると思う?」

いきなりの話題転換に疑問を感じつつも「知りません」と簡潔に答える。ああ、なんだか嫌な予感がする。

「聞いて驚け赤葦! なんとまさかのやっちゃんだ!!」

木兎さんのその声と共に二人の間がすっと開き、そこに佇んでいたのは紛れもなく谷地さんその人だった。
顔が真っ青になってるしいつにもまして縮こまってるしすごい怯えてるんですけど何してくれてんですか。
二人の巨人に挟まれて、今にも泣きそうな顔をしてるじゃないですか。

「こ、こここここ、こんばんは赤葦さん……」
「行きます。呑みに行きますので谷地さんは解放してください」

心のうちで一つため息を吐き出す。いや、でも今回は仕方がない。それにこれ以上谷地さんをこの二人の間に置いておくと非常に危険だ。何が危険って目の前の社会人二人のうち一人は俺が谷地さんに好意を寄せていたことを知っている。木兎さんには今のところそう言う雰囲気を察知する力があまりないけれどいつ気付いて口を突いてしまうかわからない。
この人の事だから気付いてしまえばその場で声高々に言ってしまうだろう。そうなったら終わりだ。
一応谷地さんには失恋したということで話を通しているし彼女の中で俺たちの関係は“失恋お揃い同士”ということになっているはずだ。俺に気持ちが残っているだなんて知れたら状況がややこしい事になることは必至。
そんなことはないとは思いたいけれど、嘘をついていたと誤解されるかもしれない。せっかく再会できたというのに距離を置かれるかもしれない。
正確に言うならば谷地さんに好きな人が居たという時点で一度失恋しているわけなのだけれど、そんな細かいところまで話を聞いてもらえるかどうかはわからない。
ボロを出さない自信はあるけれど、相手は黒尾さんだ。用心に越したことはない。谷地さんだけでも帰しておけば最悪、木兎さんにばれたとしてもその場で彼女に話が行くこともない。
そんな俺の思惑をすべてぶち壊すように、社会人組は谷地さんの肩を抱き――俺もまだなのに! ついでに俺の背中も押しつつ歩みはいつもの居酒屋へと向かう。
後ろで谷地さんが困惑の声を上げているから今すぐにでも助けたい気持ちはあるのに、それは積もるだけで実行に移せない。そうこうしている間に目的地にたどり着いてしまう。
うわー帰りてえ。

「おっちゃーん! 四人ね!」

引き戸を開けるなり木兎さんは右手で四を示してずかずかと店内に入っていく。こういう、誰が相手でも物怖じしない度胸とコミュニケーション能力は本当にすごいと思う。入社一年目にして営業職トップ5に入るだけはある。社会人になっても三本指に入れないところは木兎さんらしいと言えばらしい。
店主も木兎さんの顔を見るなりたちまち笑顔になるものだからこの二人はいつからこんなに仲が良くなったんだよと心の中でツッコミを入れる。
店員に案内されて店奥の座敷席に通される。今日は人数が多いからか、それとも店主が木兎さんと戯れる余裕がないからか、まあ理由はいくつかありそうだったけれど、一番大きな理由は谷地さんがいるということだろう。流石に野郎三人と女の子一人をカウンター席に座らせるのは、席順も困る上に絵面的にもどうかと思ってしまう。それに四人でカウンター席を陣取るというのは店の回転率から言ってもよいことではない。
そういった諸々の事情もあっての座敷席なのだろう。こちらとしては大変ありがたいの一言に尽きる。

「んじゃま、木兎と赤葦は向こう側な」

思いがけない提案に目をひん剥く。ちょっと待ってください、なんで黒尾さんと谷地さんが隣同士で座るんですか異議を唱えます。
俺の言わんとしていることがわかったのか、黒尾さんは「木兎の扱いが一番上手いのは赤葦だろ」なんてとどめの一撃を振りかざしてくる。そう言われてしまえば仕方がない、と納得しかけるけれどやっぱり納得いかない。
こう言っては何だが、この中で一番谷地さんと仲がいいのは俺だと思う。否、仲がいいはちょっと言葉が違う。一番慣れているというのが正しい。野郎三人の身長はあまり変わらないから、誰が隣に座っても谷地さんを圧迫してしまうというのはもう致し方のないことだとして、あとは谷地さんがどれだけ慣れているかというところになってくる。
ここからは完全に俺の私見だけれど、木兎さんは高校時代から怯えられていた――たぶん声がでかいのと妙に馴れ馴れしいところが原因なんだろう。黒尾さんも木兎さんとは違う意味で怯えられていた――これはあのしたり顔と喋り方がどこか脅されているような感覚になっているのだろう。かくいう俺も高校時代は大して話さなかったし先日再会した時も名前を覚えてもらっていただけで御の字という状態だったけれど、少なくとも前二人と比べると比較的話しやすいし慣れている――はず。
この三人で選ぶならという限定条件付きでなおかつ消去法で考えると俺になるはずなのに。
俺は木兎さんの保護者じゃありませんよ。
言うのは簡単だけれどもそれを口にしたら最後、というのもわかっている。特に隣からは盛大なご意見をいただく羽目になるだろう。
だからここは黙って従うしか道はない。むしろ俺が木兎さんの隣に座ることによって谷地さんの疲弊度を少しでも下げられるならばこの席順にも意味はある。幅数十センチというテーブルを挟んだだけだけれど、真隣りという超至近距離よりかは幾分かましだろう。
そんなこんなで、社会人二人と学生二人による居るだけでも疲れそうな飲み会が幕を開けた。



開始一時間で既に場の雰囲気は出来上がってしまった。
出来上がったというか終了したというか。
木兎さんはすぐに酔ってしまい何を思ったのか、違うテーブルの人たちのところへ行こうとする。それを抑えつけるのに苦労し、黒尾さんはそんな俺と木兎さんを見て笑いっぱなし。これはもう毎度のことだから諦めがついている。
だけど今回は谷地さんがいるのだ。最初の方は飲酒量を控えめにしていたのに、木兎さんも黒尾さんも悪ノリが過ぎてどんどん彼女の前に酒を出してしまう。他校であったとはいえ、先輩に酒をすすめられたら飲まなくてはいけないという謎の使命感めいたものがあったのかもしれないし、元々真面目な性格というのも要因の一つだったのかもしれない。
谷地さんの許容飲酒量は見事にオーバーしてしまった。前回と同じ轍は踏まないと決めていたのにまたも同じ状況になってしまい内心頭を抱える。今回は木兎さんと黒尾さんもいるから前回よりもより酷いと言えるかもしれない。

「えへへ、今日はとっても楽しいです」

真正面から頬を染めて満面の笑みでそんなことを言われて心が動かないわけがなかった。あー可愛い。こんな可愛い谷地さん、木兎さんと黒尾さんには絶対に見せたくなかったのに。
目がもう半分閉じかけているからそろそろ限界なんだろう。早々にお開きにしてしまった方が俺としてもありがたいのだけれど、どう言えば後腐れなくかつスマートに終われるだろうか。そんなことを考えていたものだから一番触れられたくない話題を許すはめになってしまう。

「今更だけどやっちゃん、今日ここにきて大丈夫だったか? 彼氏とかに怒られたりしねえか?」

ぎくり。
なるべくならそういう話題は避けてもらいたいのに、いい気分の黒尾さんは遠慮なんて知らないようだった。

「大丈夫ですー。私彼氏いないので」
「え、いないの? マジ?」

黒尾さんが俺と谷地さんとを交互に見て、何やら察したような表情を貼り付けてくる。
何も察しなくていいので違う話題にしてください。

「マジです。この間大学入ってからずーっと好きだった人にフラれちゃいました」
「何だってー!? こんなに可愛いやっちゃんをフるだなんてそいつは見る目がないな!! な!! 赤葦!!」

木兎さん、大声上げて急に話題に入ってこないでください。びっくりしますから。あと、その話題に巻き込まないでください。俺はなるべくその話はしたくないんです。
“俺はその話には興味がないですよ”という強い意志を込める。

「はあ、まあ……そうですね」
「俺らのアイドルを傷つけやがって……」

黒尾さんも乗ってくれなくていいものを……。肘をつき指を顔の前で組み目がマジなせいで一気に雰囲気が殺気立つ。
まあ、その気持ちはわからなくもないですが、それ以上この話を掘り下げると知られたくないことまで晒さなければならなくなる。それは是が非でも避けたいところだ。
上機嫌な三人には悪いけれどここは強行策をとらせてもらう。

「谷地さん、もう限界でしょ。木兎さんも飲みすぎです。俺、明細貰ってきますのでその間に帰る準備しといてくださいね」

そう言って足早に席を立ち、会計をしたい旨を店員に話す。
数分後、およそ四人で飲み食いしたとは思えないような長いレシートを手渡され、一番下の合計金額を見て頭を抱える。
いったいどれだけ飲み食いすれば気が済むんだ……。
財布の手持ちを思い出しながら三人の待つ座敷へと戻れば、既に谷地さんはテーブルに突っ伏していた。
あぁ、やっぱり限界だったんだ。

「おう、サンキューな」
「いくらだった?」
「自分の目で確かめてください」

そう言ってレシートをテーブルに叩きつけるようにすれば、二人ともその金額に目を奪われていた。

「おいおいまじかよ。過去最高じゃねえか」
「へいへいへーい! 記録更新!」
「何冗談言ってるんですか。これ、三人で割っても相当な金額になりますよ」
「三人?」

“三”という数字に木兎さんは首を捻る。その動きはまさしく梟そのもので、高校時代ミミズクヘッドと呼ばれていただけはある。

「元々谷地さんは二人が俺を逃がさないために拉致してきたようなものでしょう。しかも調子に乗って飲ませ過ぎた挙句酔い潰したんだし、その責任を取ってください。社会人なんだから学生の俺よりも懐事情は温かいでしょう」

俺のもっともらしい言葉に二人は閉口する。
その間に電卓アプリを呼び出して数字を打ちこみ、それを三で割る。想像通りかなりの金額が表示されて、ため息しか出てこない。まあ、谷地さんの分を負担したと思えば少しは気持ちも軽くなる。ついでに財布も軽くなったけれど。
落としていた視線を上げると、今度は真剣な眼差しの木兎さんと視線がかち合う。……なんだろう。

「赤葦はやっちゃんのことが好きなのか?」

手にしていた硬貨を取り落とさないようにするのが精いっぱいだった。
とうとう気付きやがった! だけど、どのタイミングだ? 今日の俺はそんな素振りは見せていないはずだ。

「どうしてそう思うんですか?」

努めて冷静に返しながらも脳内ではパニック寸前だ。まさか気付くとは思わなかったし、それを大騒ぎせず静かな――まるで寝ている谷地さんを気遣うような声で言ったことに驚いた。絶対木兎さんなら世紀の大発見並みのリアクションとともに場をややこしくすると思ってたのに。

「さっき赤葦がやっちゃんを見た時、なんだか優しい目をしてた!」

本当に一瞬だったはずなのに、たったそれだけのことで気付いたというのか。
この人の洞察力はどうなっているんだ。高校の時は殆どそんな素振りは見せなかったのに。……いや、トスが上がってからブロックを回避する為に咄嗟に打ち方を変えられるくらいの運動能力はあったし、その一瞬に気付くことはできるかもしれない。でも、人の感情の機微にまで気付けるようになっていたとは。大学、そして就職と社会を経験することにより木兎さんも成長していたんだなあ、なんて親目線の考えに至ってしまい、こういうところが「木兎の扱いが一番上手いのは赤葦だろ」なんて言われる原因なんじゃないかと苦笑い。

「木兎にしてはよく気付いたな。まあ、俺はもっと前から気付いてたけどな」

黒尾さんがにやにや顔を浮かべて、頬杖をついている。なんでこの人はこんなにも上から目線なんだ。

「で!? いつからなんだ!? 赤葦、もしかして初恋!?」
「それは別にいいでしょう。先に会計済ませたいのでさっさと出してください」
「えー!? 赤葦の恋バナ聞きたいー!!」

木兎さんから恋バナなんて単語が聞ける日が来ようとは。木兎さんと恋バナ。不釣り合いも甚だしい組み合わせだし絶対話したくない。嫌だ。
というか、いつものハイテンションに戻ってるし。この調子だと谷地さんが起きてしまいそうだ。早々にお開きにしてしまおう。

「これ以上その話をするようなら木兎さんだけ多めに払ってもらいますけど」
「うぐ……!」

今、木兎さんの中では葛藤があるのだろう。
俺の話を聞きたいけれど、給料日前のこの時期に必要以上の出費は避けたい。……給料日前に飲み会を開くのもどうかと思うけれど、まあそこは人生楽しんだ者勝ち理論なのかもしれない。お先真っ暗にならなければいいけれど。
随分の沈黙のあと、それでも木兎さんは最終的に自分の支払い分をテーブルに置いた。
木兎さんと黒尾さんのせいでやけに硬貨の多い支払いになってしまい、店員は数えるのに苦労していたようだけれど、ひとまずひと段落ついて心の底から安堵のため息を漏らす。
これでやっと解放される……。

「んじゃま、今日はここら辺でお開きにすっかー」
「赤葦はちゃんとやっちゃんを送ってけよ!!」

社会人二人のガッツポーズに嫌になりながら、未だに夢の中にいる谷地さんをおぶる。
軽くて柔らかくて温かくて、でもそれを意識し始めたら止まらなくなりそうだから脳内で素数を数えることで思考をずらす。
時折寝息と共に聞こえる小さな声が俺の理性を完全に溶かしきる前に帰宅できるよう祈った。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -