「……ただいま」


朝、赤葦さんのお部屋を出て何かお詫びをしなければとお財布の中身を確認して、手持ちの少なさとお給料日前でお金がないという現実に打ちひしがれた。少ない所持金で、なおかつ自分の身の丈に合ったお詫びとは何だろうかと考えて、考え抜いた末に夕飯を作ったらどうかという結論を出した。
東京に出てきて一人暮らしを始めて、灯りのついていない部屋に帰る寂しさを知った。毎日授業とアルバイトで疲れ切っている中、夕飯まで作らなくちゃいけないとなるとただでさえ疲れている心に追い打ちをかけられるようなもの。
赤葦さんが私と同じような心境になったことがあるかどうかはわからないけれど朝、部屋を見た限りでは自炊をしているようだった。ならば少なくとも食事を作る手間暇は経験しているはず。それを大変だと思っているか楽しんでやっているのかどうかはさておき、私が一食作ることで赤葦さんの負担を少しでも軽くできれば今回は御の字。
料理人でもなければ料理研究家でもない私の手料理で果たしてお詫びになるかと言われれば絶対ならないことはわかっているけれど、こういうことは時間が経ってからやるのでは意味が薄れてしまう。それならばという苦肉の策なのだ。
きちんとしたお詫びの品はお給料日を過ぎてから考えよう。まずは昨日のことを謝つことが何よりも大切なのだから。
そんなこんなで一度家に帰り、必要になりそうなものをリュックサックに詰め込んで、行きがけにスーパーに寄って食材と食器を調達し、赤葦さんのお部屋に舞い戻ったのが夕方。
冬場だから日が落ちるのが早くて、鍵穴に鍵を差し込むまで結構な時間を費やしてしまった。私って実は鳥目だったのかな……。
誰もいないであろう部屋に向かって「お邪魔します」と言うものの、やっぱりそれは拾われることなく静かに溶けていく。この寂しさというか空しさというか、暗い部屋に一歩踏み出すことを少しだけ躊躇わせる感情はいつになっても慣れない。それが漸く住み慣れた自分の部屋ではなく、赤葦さんの部屋であるから尚更そう感じてしまう。
赤葦さんの……部屋! よくよく考えてみたら男の人の部屋にあがるって人生初の経験だ……! まるで自分の部屋であるかのような自然な流れで鍵を開けて入ってしまったけれど、そうだ、ここは、赤葦さんの部屋! 男の人の、部屋!
意識し出したら急に緊張してきたし今にも心臓が飛び出そう! ど、ど、ど、どうしよう……!?
ひとまず心を落ち着けるために目を固く閉ざして何度か大きく深呼吸をする。視界が閉ざされているからか、いつもよりもやけに心臓の音がうるさい。
胸に手を当てて、目一杯息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。そんなことを三、四回繰り返して漸く心音がいつものペースを取り戻してくれた。
他人様の家の玄関先で何をやっているんだと自己嫌悪に陥りながらも、靴を脱いで最初の一歩を踏み出す。
部屋の中は当然、朝見たままなのだけれども、日光が差し込んでいた大きな窓からは今は暗闇が顔を覗かせている。
たったそれだけのことなのに、部屋に入る緊張感が昼間と全然違う。
暗い部屋ってどこかから何かがいきなり出てきそうで油断ならないというか、妙に恐怖感を煽られるというか。たぶんこういう日常に潜む小さな恐怖は誰しも経験するものだと思うんだけど、小さい頃は本当に暗いところが怖くて、気味が悪くて近寄りたくなかった。
歳を重ねて前より幾分かはましになったけれど、やっぱり一度深呼吸をして心を落ち着けなければ未だに恐怖心を拭えない。
大丈夫、大丈夫。怖くない、なにもいない、お化けなんてないさっ!
昔聞いた童謡を心の中で大音量で歌いながら手探りで電気のスイッチを探す。カチリ、という音から数秒遅れて天井の灯りが部屋中を照らしだす。
明るくなった部屋に漸く安堵のため息を吐きだして、暗くなりかけていた気分を一新する。赤葦さんが何時に戻るかわからない今、一分一秒も無駄にはできない。
理想は料理の完成と赤葦さんのご帰宅が同じタイミングで、一通り事情を説明して恐れ多くも一緒に夕飯を食べさせていただき帰宅。
本当は赤葦さん一人に夕飯を食べてもらえればお詫びという面ではいいけれど、きっと自分一人が食べることに気兼ねしてしまう人なのではないかと思う。高校時代の二年間を見てもつい昨日の再会の際にしても、私が他校だったからか、年下だったからか、それとも異性だったからか――理由は色々と考えられるけれど気を遣ってもらっているというのは言葉にしなくても薄々感じていた。だから私を前にして一人で食べることに遠慮をしてしまうのではないかと思う。
それならば毒味役も兼ねて――自分で作るのに毒味も何もないのかもしれないけれど、私も一緒に食べることで気兼ねなく食べてもらえるならそっちの方が私の心的にもほっとできる。

「よし!」

スーパーの袋から食材を取り出して、やる気を声に出してから腕を捲った。



時計の針は七時を回ろうかというところ。
ご飯は既に炊けているし、肉じゃがもさっき味染み具合を確認して完成したし、お味噌汁も温めるだけになっている。後は赤葦さんのお帰りを待つのみ。

「…………」

やるべきことを済ませ、誰に見られているわけでもないのにテーブルを前に正座をして、冷静になった頭で改めて自分の状況を顧みてみる。あれ、今の私の状況って実はアウトすれすれなのではなんじゃないの……?
鍵をかけて帰れと言われたけれど、戻ってもいいとは一言も言われていない。私が勝手にお詫びをしたいと思って今この場にいるわけで、赤葦さん的には帰ってみたら自分の部屋に恋人でもないただの知り合いに等しいちんちくりんが夕飯を作って待っているのだ。……どう考えてもお説教コースなのでは!?
一度そうかもしれないと思い始めると急に不安が心を侵食していく。ぎゅっと胸を締め付けられる感覚に少しだけ眉根を寄せる。
帰った方がいいかもしれない。お説教は嫌だけれどそれ以上に赤葦さんに嫌われたくない。嫌われたくない、という感情が首を擡げていることが不思議だけれど、きっとほかに知り合いと呼べる人がほぼ皆無な東京という土地と、そこで漸く“知っている人”と再会を果たしたことへの嬉しさからそう思ったんだろう。だけどそれとは“ちょっと違う”という意識もあっるけれど、でもそれを考えるのはひとまず後にしよう。
早くここから立ち去らなければ、赤葦さんは今にでも帰ってきてしまうかもしれない。
思い立ったらすぐにでも行動! あ、でもその前にこのコンロ台にあるものの説明書きを置いていかなければ! 帰ってきたら夕飯が準備してあっただなんてホラー映画じゃないんだから。そんな家庭的なホラー映画なんて観たことも聞いたこともないけれど。
リュックサックの中からメモ帳とペンを取り出そうとした、まさにその時だった。
玄関口の方からサムターンが動く金属音。そういえば私、鍵を閉め忘れてた――と思うや否やすぐさま玄関まで駆けだす。
心臓の高鳴りを深呼吸で抑えて、真横一文字になっているそれを直立姿勢に戻す。数秒おいてレバーハンドルを傾けてドアの向こう側へ声をかける。

「お、おかえりなさい、です」
「え、あ、え……?」

赤葦さんからは困惑の声。それもそうですよね! まさか私がいるだなんて微塵も想像しないですよね! 私の方は相手を確認しなくても鍵を持っているという時点で九割方赤葦さんであることは容易に想像できた。だから最初の言葉も相手を確認するものではなく出迎えるものにした。もし万が一残りの一割――元彼女さんとか親御さんとかだった場合はもう言い逃れのできない状況なのでその場で土下座する覚悟はある。本来なら赤葦さんにも土下座すべきところだけれど、玄関口で部屋の主が土下座をされているだなんていう場面を誰かに見られでもしたらこの先ここに住めなくなってしまう――とまではいかないかもしれないけれど、気まずい雰囲気が漂うのは必至。……今も十分その状況に陥っているのかもしれないけれど。
扉の向こうから何も反応がないことに若干の不安を覚えて、恐る恐る顔を覗かせればまさしく驚愕といった表情の赤葦さんが固まっていた。

「赤葦さん……?」

もしや心臓発作でも起こしたのではないか心配して声をかければ、少しの沈黙の後、小さく疑問が投げかけられる。

「谷地さん?」
「はい、谷地です」
「本物?」
「本物です」
「帰らなかったの?」
「帰りました。それでまた来ました」

何で、どうしてという疑問符が言葉の端々に見て取れた。だけど、一つ一つゆっくりと確かめるように、自分の中の疑問を解かしていくように赤葦さんは言葉を作っていく。

「え、いや、だって……」

漸く言葉が尽きたのか、それとも新たに浮かび上がった疑問を上手く言葉にできないのか。困惑を全面に出した表情を貼り付けた赤葦さんは次の言葉を探せずにいる。

「あの、外寒いですから……その、お話は中に入られてからの方が……」

本来ならば私が外にいるべきはず。それなのに部屋の主である赤葦さんを外に出して会話をしているという状況に遂に耐えきれなくなって、失礼とは思いながらも口を挟んでしまった。
私の言葉に忘れていた寒さを思い出したのか、赤葦さんは小さく身震いする。真冬の、しかも夜間。いくら厚着をしているとはいえ寒くないはずがない。
赤葦さんがゆっくりと歩みを進め、玄関まで入るのを確認してから押さえていた手を離す。バタンという少しだけ大きな音と共に鉄の扉が閉まる。
それと同時に始まったのは沈黙の時間。先程は会話が途切れたことを契機にご帰宅を促させてもらったわけだけれど、他にも何か訊きたげだった赤葦さんの表情は微妙なものだった。
だけどまずはこの言葉を言わなければ。一番最初に口にはしたけれど、きちんと顔と目を見て、言わなければならない。これは帰ってきた人への、大切なご挨拶。

「赤葦さん」
「あ、はい」
「おかえりなさい」
「……ただいま」

“おかえりなさい”だなんて、年単位で口にしていなかった。高校の時は割と言う側だったけれど、大学に入ってからはずっと一人暮らしだったし、長期休暇で実家に帰った時もどちらかといえば言われる側だった。
だからかどうかはわからないけれど、“おかえりなさい”、“ただいま”という言葉のやり取りが、とても懐かしく感じたし妙に嬉しかった。
ドキドキと心臓が高鳴っているのが自分でもわかるほど。だけど、これはいったい何に起因するものなのだろう。久しぶりに口にできた“おかえりなさい”という言葉? それともこれから訪れるであろうお説教タイム? もしくは……?
私があれやこれやと考えている間に、赤葦さんは靴を脱いでいて、そして部屋の異変に気付いたようだった。
バレテしまっては――というとなんだか悪いことをしているみたいだけれど……いや実際に勝手に部屋に上がり込んでお詫びだなんて理由をつけて台所をお借りして料理をしていたのだから考えようによっては空き巣にも似た行為だけれど。それこそ赤葦さんが難色を示すようならば今すぐにでも土下座する用意はできているし、むしろその心構えでいる。
彼女でもないのに男性の部屋に上がるだなんて、不躾にも程があるし、それがいくら謝罪とお詫びのためだからと言っても限度があるのは承知のこと。なので誠心誠意のお詫びの言葉を後程述べさせていただく所存でございます!
だけど今ここで土下座をしようものなら廊下を塞ぐことになり邪魔になることは目に見えているし、当の赤葦さんはじっと廊下の奥――明かりの灯った部屋を見つめている。その瞳は泣きそうでありながらもどこか嬉しそうで、読心術を心得ていない私ではどうしてそんな目で見ているのかはわからないけれど、少なくとも今この状況に対して激怒しているわけではなさそうだというのは理解できた。ひとまずその点は安心。
笑みは作れたけれど気まずさからか視線は上げられなかった。

「勝手ながら台所をお借りして夕飯を作ってみたのですが、お腹空いてますか?」
「うん、お腹減った」
「じゃあ準備しちゃいますね!」

言いながら踵を返す。
赤葦さんが洗面台に行って手を洗っている間に、コンロの火をつけてお玉でかき混ぜながら煮立たせないように注意する。
そういえば実家に帰った時にお母さんが何かを歌いながらこんなふうにお鍋をかき混ぜていたけれど、あの歌はなんだったんだろうなあ。そんなことを考えつつ、歌えばわかるかと口ずさんでみるけれど全くわからない。今度帰った時に訊いてみようかなぁ。
そんなことを暢気に考えている間に赤葦さんが部屋の真ん中にテーブルを設置してくれる。大体温まったところで火を止めて、いざよそおうといつもの――自分の部屋の感覚で右手を伸ばしてしまう。だけどその手は空を掴むばかり。……あ、そっか。ここ赤葦さんのお部屋なんだっけ!
「あの、赤葦さん。御椀とかって……」
「そこの流し台の下にあるけど……ちょっと待って」

そう言うなり赤葦さんは私の真隣りまでやってきて屈みこむ。自分よりもはるかに身長が高い赤葦さんが屈み、必然的に見下ろす状態に、なんとなく優越感みたいなものを覚えながら日向を思い出す。高校時代に日向が見ていた景色を今更ながら見ることになろうとは。
ぼーっと、今も地元で頑張っているであろうオレンジ色を思い浮かべている間に足下ではガチャガチャと陶器が擦れる音が鳴る。
慌てて視線を落とせば、流しの下からこれでもかという量の食器が顔を出している。わああ、赤葦さんちょっと待ってください!
「私、自分の家から食器を持ってきてるのでそんなに出さなくても大丈夫ですよ! たぶん煮物を入れるような深くて大きめのお皿もないんじゃないかと思いましたので買って来ましたし!」

足早に自分の荷物の元へ行き、その中から自分の食器と行きがけに買ってきた深めのお皿を取り出している間に再び賑やかな音が鳴る。今度は慌てなかったけれど、あんなに大きな音を鳴らしながら片付けたらどこかしら欠けてしまうのではないかとひやひやしてしまう。私ごときが赤葦さんのお部屋の食器事情に口を出していいわけもないからお口にチャックをするけれど、気にならないと言えば嘘になる。そんなにガチャガチャやってしまっては絶対底とか端の方とか欠けちゃいますよ……!
そうこうしている内に賑やかだった室内に静寂が舞い戻る。と、同時に立ち上がってくるりと姿勢を変えれば赤葦さんが右手をこちらに差し出しているのが見えた。何かと思ってその手をじっと見つめていると薄い笑みと共に「御椀もらってもいい?」なんて言葉が返ってくる。は、恥ずかしい……!
穴があれば今すぐ入りたい思いを何とか抑えて、言われた通り御椀を手渡して残ったお皿に肉じゃがをよそっていく。
お玉で掬うたびに煮汁の甘い匂いが食欲を刺激する。あー、お腹減ったなぁ……。
盛り付けを終え、数歩先のテーブルにそれを並べれば慎ましやかながらも“食卓”の完成。
向かい合わせに座って、二人一緒のタイミングで手を合わせて夕飯開始のご挨拶。

「「いただきます」」

赤葦さんがまずお味噌汁を一口すする。ど、どうだろう……。好みの塩加減がわからなかったから自分がいつも作っている塩加減で作ってしまってけれど、もしかして味が薄かったかな……? 関東の人って割と濃い味が好きって聞くし……。で、でもせっかく具だくさんにしたのに塩辛いだけじゃ具材がもったいないしそもそも塩分の取り過ぎは体に良くないし……。
あれやこれやと悶々と考えている間にも赤葦さんのお箸はどんどんと進んでいく。

「お口に合いますか?」

とうとう耐え切れなくなって小さく言葉を紡いでしまう。
だけど不安を押し殺せなくて、ほんの少し声が震えてしまった。そのことに気付いてのことか、それとも単に心からの言葉だったのかはわからないけれど、赤葦さんからは見たことのないような優しくて、愛おしさに溢れた笑みが返ってくる。

「美味しいよ」

高校から今までずっと冷静沈着で木兎さんのボケにも冗談にも的確なツッコミと指摘をしている人だと思っていた。同性の前なら違う顔も見せるのかもしれないけれど、少なくとも私の前でそんな――そんな素敵な笑顔をしていただけたことはなかった。
大きく胸が鳴って、その後にぎゅっと締め付けられて、泣きそうになるのを密かに下唇を噛んでなんとか堪える。
知ってる。私は、この気持ちを、知ってる。
つい先日まで違う人へ向けていた、春色の想い。

「ありがとうございます! それで、その……昨日の話なんですが」

気付いてしまった想いをひとまず胸の奥底にしまいこんで、話題を変える意味も込めて今朝からずっと口にしたくて仕方がなかった話題を呈する。
私の深刻そうな雰囲気を察してくれたのか、赤葦さんは手にしていたお茶碗とお箸を置いて居住まいまで正してくれる。
その真摯な態度に私も背筋を伸ばし、一回深呼吸を挟む。
そして渾身の土下座と共に謝罪の言葉を口にする。

「昨日は本当にすみませんでした!」

テーブルを挟んだむこう側では赤葦さんが多少驚いたような雰囲気を察知したけれど、とりあえず今は言うべきことを言わねば!
「居酒屋さんでのことといい、泥酔して一晩泊めていただいたことといい、赤葦さんには多大なるご迷惑をおかけしてしまい本当にすみませんでした! ちゃんとお詫びしたかったのとお礼をさせていただきたかったのですが、何を差し上げたらいいのかわからず、ひとまず何もしないよりかはと思いこうして夕飯を作らせていただきました所存です……。つきましては不肖谷地仁花、誠心誠意赤葦さんにお詫びさせていただきますので何なりと仰ってください!」

およそ一息では言えない謝罪文をつらつらと並べ立てた。よく噛まずに言えたなあ!
姿勢は崩せないからそれは全部床にぶつかっているわけだけれども、少々大きな声で言ったおかげか私の謝罪はちゃんと赤葦さんにも届いたようだった。

「別にいいよ。昨日も言ったけどあれは失恋者同士の愚痴りあいみたいなものだったし、それに誘ったのは俺の方だから。あんなふらふらになるまで呑ませた責任もあるし、おあいこだよ」

決してお酒の席に参加するのが少なかったわけじゃない。自分の許容量はわかっていたはずだった。なのに昨日は大いにオーバーした挙句、折角お誘いいただいたというのにあんな醜態を晒してしまうだなんて後輩としても女としても、とても看過できるものではない。赤葦さんの優しさに甘えてはいけない。

「ですが……」

食い下がる私に、赤葦さんは思いも寄らない提案で返してくる。

「……じゃあ、またこうして美味しい手料理をご馳走してくれるかな」

思わず顔を上げてしまった。
“美味しい手料理をご馳走してくれるかな”
この言葉にどれだけ私の心が救われたか、赤葦さんはきっと知らない。最初は後ろ向きな理由があって作った料理だった。けれど、自分が作れる中で得意だと自信を持って言える料理を褒めてもらえて、しかもそれをまた振る舞ってほしいだなんて、これ以上嬉しいことはない。
にやける顔を何とか誤魔化すように表情筋を駆使して言葉を紡ぐ。

「手料理、ですか……」
「嫌?」

赤葦さんの瞳にはほんの少しだけ寂しさというか悲しみにも似た後ろ向きな感情が混ぜられていた。どうして、とはとても訊けなかったけれど、この言葉はきちんと否定しなければいけないとそう思った。

「い、いえ! 嫌ではないです。でも普段は自分が食べられればいいやと思って適当に作っているので赤葦さんのお好みに合うかどうか……」
「すごく美味しいよ。こんなちゃんとしたご飯、久しぶりに食べた」
「あ、ありがとうございます……」

また真っ直ぐ届けられたお褒めの言葉にどう答えたらいいかわからない。こんなに捻りもなくただただ真っ直ぐに褒めてもらったこと、そういえばなかったなあ……。

「谷地さんにも授業があるし用事だってあるだろうから無理にとは言わない。でも、いつも家に帰ったら部屋は真っ暗で一人で寂しく食べてたから昨日も今日もこうやって谷地さんとご飯を食べられてすごく楽しかったよ」

薄く笑う赤葦さんに再び胸が締め付けられる。
苦しいのに、それが嬉しくてしまいこんでいた感情が扉を開けようとタックルをしているようだった。

「それ、私もわかります。私も東京に出てきて、飲み会とか行くときもありますけど、基本的に家で一人でご飯食べてるのでなんだかちょっと寂しかったです。それに誰かに自分の作った料理を食べてもらって美味しいって言ってもらえるのって、恥ずかしいけどすごく嬉しいんだなって思って……。なので、その……赤葦さんさえよろしければ、これがお詫びになるかどうかは甚だ疑問も残るところではありますがまた夕飯を作りにお邪魔させていただきたく思います」

今思っていることを嘘偽りなく言葉に乗せる。
うまく伝わっただろうか。

「十分すぎるし、あんまり昨日のことは気にしなくていいから」

だからもうこれでおしまい。
そう言って赤葦さんは笑って、私もそれにつられるように口角を上げて、すっかり冷めきってしまった夕飯を再開させた。

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