「俺の恋人になってよ」


「あ……」
愛美がちょうど昼休みで珍しく学外に出た時に、反対の歩道に中学からの級友であるカルマの姿を見かけた。遠目からでもよくわかる紅い髪の彼が自分の大学近くを歩いていることが珍しくて、立ち止まって手を振ろうと右手を挙げかけて――やめた。彼の隣を歩く女性の存在に気付いたからだ。
髪をひとまとめにして黒いスーツを着こなし、ハイヒールという歩きにくい靴を履きながらも動きは快活で、その容姿に、身のこなしに目を奪われてしまった。綺麗な人だなぁ、と愛美は正直に思った。ああいう人間のことを指して見蕩れると言うのだろうかと頭の隅でぼんやりと考えながら、思考はあらぬ方向へ飛ぶ。
それはカルマとその女性がいかにも仲睦まじい様子だったからだ。笑みを浮かべ、並んで歩いている。愛美とカルマとの縁は中学から今もずっと続いていて、愛美自身も一番仲の良い異性としてカルマの名を挙げるけれど、愛美と話しているカルマはいつも気難しそうな顔か困ったような顔しかせず、あんな楽しそうな笑顔は向けない。向けたとしてもそれは一瞬で、瞬きの間に消えてしまう。その理由を愛美は知らない。知りたいと思って訊いてみたこともあったけれど適当にはぐらかされて以来その話題は口にしなくなった。カルマ君にも思うところはあるのだろうし、そういうものなのだろう、と自分の中で結論付けてしまっていた。だから、本心を言ってしまえるなら、羨ましかった。自分に向けられることのない笑顔を向けられているあの女性が。
二人とも十人いればほぼ全員が振り返るような美男美女だし傍から見ればそういう関係を疑ってもおかしくないようだった。現に愛美もカルマに恋人ができたのかと思ったほどだ。しかしそんな二人を見て、不意に彼女の胸がちくりと痛む。だけどその理由がわからなくて困惑する。
どうして私はカルマ君とあの人が一緒に歩いているのを見て、胸が苦しくなるのだろう。
これ以上二人の姿を見ていられなくて視線を逸らす。当初の目的である昼食を買いに行こうと止めていた歩みを再開させた。でも結局コンビニで買ったサンドウィッチも一口食べて後は残してしまった。食欲はあるのに食べ物が喉を通っていかないのだ。知らぬ間に病気にでもなってしまったのかと悩んだけれど、その兆候は一切なかったし、原因もわからなかった。結局その日は殆ど食物を摂ることなく過ごしたせいで午後のゼミに支障をきたしてしまった。いつもならこんなことないのにね、なんて心配とも嫌味とも取れる同級生の言葉も一切耳に入ってこなかった。
愛美の心中にあるのは昼休みに見てしまったあの二人。仲睦まじく歩く、カルマと見知らぬ女性。手を止めるとフラッシュバックするあの映像を振り払うように頭を振って、教授の言われた通りに作業に没頭する。没頭しすぎて終業時間を過ぎたことにも気付かなかった。ふと顔を上げれば研究室には自分一人しか残っておらず、壁時計を見ればもう日も暮れて何時間も経っていた。もうこんなに時間が経っていたのかとため息を一つ吐き出して視線を机上に向ける――と同時におさげがするりとその上に落ちる。
特に願掛けをしていたりはしていないけれど、きっかけがなくて中学から伸ばし続けている髪。三つ編みをしているから普段は邪魔ではないけれどやはり洗髪の時は短い方が楽なのかなぁ、くらいのことは思うようになった。そういえば昼間のあの女性も自分と同じくらいの髪の長さだったということに今更ながら気付く。そんなことをぼんやりと考えてまたも胸が痛む。ズキン、ズキンと脈打つように。原因のわからない痛みは嫌だ。どうして痛むのだろう。原因は何なのだろう。考えれば考えるほど痛みは増していくようだった。
「…………」
暫く愛美は自問自答を繰り返し、一つの仮説に思い至る。この胸の痛みは昼間のあの光景を思い返してしまったからで、何故思い返してしまったのかといえば自分の髪の長さがあの女性と似ていたからだ、と。どうしてあの光景を思い返すと胸が痛むのかというところまでは考えが至らなかったようだが。
愛美は自分の髪を見つめた後、机の引き出しから鋏を取り出して、耳の後ろ辺りでおさげを掴み、そこへ刃を入れて力を込めて切断する。耳元で聞こえるジャキンという音は少しばかり恐怖感を煽ったけれど、人にやられるよりかは幾分かましだと自分に言い聞かせる。バサリと落ちる自分の髪だったもの。反対側も同じように切り落として二、三頭を振って髪をふるい落とす。
携帯電話の画面で切り具合を確認するも、やはり素人仕事だからか所々短かったり長かったりと歪だった。明日朝一で近所にある美容院で整えてもらえばいいか、なんて呑気なことを考えながら愛美は一通り掃除を済ませて帰り支度をする。
研究棟から出ると、途端に吹き込む秋風に肩を竦ませる。昨日までは何て事のなかったことなのに何故……、と思って愛美はああ髪を切ったのだっけと思い出す。さらさらと風に靡く髪はとても懐かしい感覚だ。こんなに髪を短くしたのはいつぶりだろう。記憶を辿りながら歩いて駅まで向かう。普段から歩みは早いわけではなかったのに、考え事をしていたからさらにその速度は落ちる。駅に着くころには既にシャッターが閉まって電灯も消されていた。
「……なんで」
呆然とする愛美。終電には早すぎる時間に愛美は右往左往する。何で、どうして。もしかして何か事件があり一時的に閉鎖されたのだろうか。あらぬ妄想にストップをかけたのがシャッターに貼ってある紙だった。そこには今日の午後から三日間駅の改修工事をするというお知らせが書かれていた。そういえば今朝もこのお知らせを見た気がするけれど、すっかり頭から抜け落ちていた。
愛美は暫くそこに立ち竦んでいたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。この時間なら歩いて帰るには少々厳しい。近くにあるであろうタクシー乗り場を探そうと視線を右へ左へやっていたその時だった。
「奥田さん?」
背後からの声に驚いて愛美が振り返ると、そこにいたのは昼間から愛美の心をざわつかせてやまない件の紅い髪。
「か、カルマ君」
会いたかったか会いたくなかったかと問われれば、今の愛美なら会いたくなかったと答えるだろう。愛美の表情は堅いものとなった。それを見て、カルマの表情が曇る。
「え、ちょっと、なにその髪。どうしたの? もしかしていじめとかにあったの?」
愛美の表情をそういった風に捉えたのか、カルマの口から出たいじめという単語に全力で首を横に振る。「じゃあどうしたの? イメチェン?」なんて言葉には曖昧な表情を作る。
「ちょっと思うところがありまして。でも自分で切ったので後ろの方が乱雑で」
「ああ、そう言われればそうだね」
いつの間に背後にまわったのだろう。カルマは愛美の後ろ髪を手に取ってまじまじと見つめ、さらさらと手櫛で梳いていく。
「あ、あの……カルマ君! 私、これからタクシーを探さなくちゃいけないんですけど」
この状況から逃れたくて今の自分の状態を口にする。早く解放してほしいと願いを込めて。だがカルマは愛美の想像の斜め上の言葉を口にする。
「うちに泊まればいいよ」
「そ、そんなことできません!」
「なんで?」
そこで何故「なんで?」という言葉を口にするのか愛美にはさっぱり理解できなかった。確かに中学生時代の愛美だったら女性が男性の部屋に泊まるという行為に関して何も思わなかっただろう。パジャマパーティーだとでも考えてその提案に乗っていたかもしれない。しかし高校、大学に進み、思春期を過ぎ、それなりに性教育も受け、友人たちからの経験談や借りた漫画などから、今の彼女は男女が一緒の部屋で寝るという言葉をその言葉通りに受け取ることが難しかった。どうしてもいかがわしい方面も考えずにはいられない。たとえそれが愛美を恋愛対象として見ていない、所謂“中学からの古い友人”であるカルマであってもだ。それに昼間の一件もある。愛美の思い違いでも勘違いでもなく、本当にあの女性がカルマの恋人であったのならば、この提案には絶対に乗ってはいけない。カルマとあの女性との間にある信頼関係を壊してしまってはいけない。間違えました、ごめんなさいでは済まされないことなのだから。
「なんでと言われましても、カルマ君にもいろいろとあるでしょうし」
「俺にいろいろあるわけないし、あったとしてもその俺が提案してるんだから気にしないでよ」
「き、気にします! カルマ君は優しいからそうやって言ってくれるんでしょうけど、私こう見えても異性なんですよ!」
「そんなの知ってるよ」
知ってて言ってるんだよ。
その言葉に愛美の喉が一瞬詰まる。異性とわかっていて、それでも一泊の宿を提供しようと言うのか。ともすればそれは……。
「私がカルマ君のお部屋に泊まったらきっと彼女さんが怒りますよ」
切りたくない切り札であったがここで言わなければカルマは引き下がらないだろう。意を決して言葉を口にしたというのに、
「彼女?」
まるで、何それ? と言わんばかりの声に、愛美がカルマの手を振り払い向き合う。その視線はまっすぐ彼の目を捉えていた。
「昼間、カルマ君が綺麗な女の人と一緒に歩いているのを見ました。あの人は彼女さんではないんですか?」
「昼間? ああ、あの人のこと。あれは違うよ」
違うよ、とはっきりと口にされた否定の言葉。違う? 何が違うと言うのだろう。あんなにもお似合いの様相だったのに。言葉にできないそれらを飲みこんで愛美はカルマの次の言葉を待つ。
「あの人は俺の先輩。あんな若々しい外見だけど三十過ぎてるし結婚だってしてる。確か子どももいたかな。だからあの人と俺は大学の先輩と後輩ってだけ。奥田さんが勘ぐるような仲じゃないよ」
それに、とカルマは一歩間合いを詰めてその両手で愛美の両手を優しく包む。咄嗟のことに自分の手を見つめる愛美の耳元にカルマが唇を寄せる。それがこそばゆくて肩を竦める。
「俺が好きなのは昔から奥田さんだけだよ」
小さく呟かれたそれは愛美の心をかき乱すには十分だった。
「それは……友愛ですよね?」
やっとのことで吐き出した言葉を、カルマは不機嫌そうな表情で受け止める。ああ、またその表情をするんですね。
「友愛じゃないよ、恋愛の方。俺が恋人にしたいのは奥田さんだよ」
「それは……」
「冗談じゃないよ。本気。……ねぇ、奥田さん」
そこでカルマは耳元から唇を離し、真っ直ぐ正面に愛美の顔を見据える。逃げようにも逃げられない状態に愛美もカルマと視線を合わせる。
「俺の恋人になってよ」
いい加減気付いてよ。俺はずっと奥田さんを見てたんだから。
愛美は言葉に詰まり何を言えばいいのかわからなくなっていた。言葉を咀嚼するのに頭の回転が追いつかない。時間だけがゆっくりと流れていく。
カルマが自分のことを好きだという事実。何時から? 私は、ずっと友人だと……思っていた? 友人ならカルマに恋人ができたことに喜べるはずだ。それは結局勘違いだったという結論に至ったけれど、しかしあの二人のあの様子を見て心がざわついたという事実は変わらない。喜ぶどころか、愛美はあの女性を羨ましく思う裏側に少なからず嫉妬をしていた。自分もああやってカルマに笑いかけてもらいたい――と。しかめ面でも不機嫌面でもなく、笑顔を欲しいと。じゃあ、この気持ちが好きということなのだろうか。
ずっと友人だと思って接してきた。性別は違えどそこに友情は生まれるはずだと信じてきた。現に今の今まで愛美はカルマのことを一番の友人だと認識していた。しかしいつからか、愛美の中でカルマという人間は“友人”という枠では入りきらなくなっていたのだ。高校も大学も別の道へ進んだけれど、その進んだ先でも二人の関係が途切れることはなかった。いつも隣に居て、話し相手になってくれた。それがいつしか当たり前のように錯覚していた。だからだろう。たとえ勘違いであったとしても、カルマに恋人ができて自分の元から離れていくということに大きなショックを受けたのだ。
居てくれるのが当たり前だと思っていました。居なくなりそうになって初めて愛美は自分の中でのカルマの存在の大きさに気付いた。
これからも、この先も願っていいのならばカルマ君の隣にいたいです。
「これからも、この先も願っていいよ。俺の隣に居てよ、奥田さん」
その声に顔を上げれば、優しい笑みで愛美を見つめるカルマの顔があった。
いつの間にか思っていたことを口にしてしまっていたという恥ずかしい事態に、愛美の顔は赤く色づく。
「俺の恋人になってよ」
再び紡がれた言葉に、今度こそ愛美は首を縦に振った。
「じゃあいいよね? 今日はうちに泊まりにおいでよ」
「え……、いえ、それは」
「なんでよ、おいでよ。その乱れ髪も綺麗にカットしてあげる」
愛美の手を引いて、カルマは歩き出す。大して強くもない力で握られているため振り払おうと思えばできるが、愛美はあえてしなかった。柔く包まれた手は優しく、温かく、それが嬉しくてそっと握り返せば、カルマからは驚きと嬉しさが混ざったような表情で返される。
「あんま可愛いことしないでくれる?」
今日は何もしないって決めてるんだから。
すぐに溶けたその呟きは愛美の耳には届かなかったけれど、カルマの決意は早くも揺らいでいた。


(今日は何もしないけど、日付超えたら何するかわかんないけどね)

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